渡嘉敷島集団自決の真実
【平成19年6月28日16時4分配信 琉球新報】 
『来年度から使用される高校歴史教科書から沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制に関する表記が文部科学省の教科書検定で修正・削除された問題で、検定意見の撤回を求める意見書が28日までに県内全議会で可決された。』 

 以下は平成18年8月27日の産経新聞記事である。上記『沖縄戦の「集団自決」』の真実とはなにか、を知るために全文を記す。 

【「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん】 

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。 
 当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。 

 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。 

 この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。 

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。 

 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。 

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。 

 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。 

 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英) 

【用語解説】渡嘉敷島の集団自決 

 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。 

【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法 

 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。 
 (以上 引用終わり) 


元琉球政府職員、照屋昇雄さんは、更に次のように語っている。 
  
「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」 

「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」 

「赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。」 

 当時の渡嘉敷島の駐在巡査であった安里喜順氏は、赤松大尉に部落民をどうするか相談にいった時のことをこう語っている。 

「そうしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。」 

 手榴弾が不発で死ねなかった4人の村人(女性)の証言 

A「私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。」 
B「本部のとこに、突っ込みに行ったから『何であんた方、早まったことをしたなあ』と(赤松隊長に)言われた。」 
C「『誰が命令したねえ』と(赤松隊長に)言われた。」 
D「『何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい』と(赤松隊長が)言った。」 

女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言 

「私は(終戦間近の)7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、『何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい』と言って戻された。」 

 私は赤松元大尉と同じ軍人として、これだけは断言できる。祖国を愛し、民族を愛する我が日本国の軍人はどんなことがあっても住民を守る。作戦上の負け戦で敵の戦時国際法を無視した無差別の爆撃や戦闘行動から「結果的に守りきれなかった」としても、命ある限り我が身を楯にして背後にある国民を守って戦う。このことは明治健軍以来今日に至るまで変わらない。我々が誇り高き「日本人」である限り。 

 【軍は民間人の降伏も許さず、集団的な自殺を強制した(日本書籍新社の中学社会)】 
・・・もしこの様な軍隊がこの世に存在するとすれば、それはどんな軍隊であろうか。祖国を愛する心も、民族を愛する心もなく、命を捨てて守るべきものも無い「烏合の衆」であり、そもそも強大な敵の陸海軍の侵攻を前にして敵前逃亡続出、到底まともな戦闘など出来る軍隊ではない。 
 我々の先人達の史上例を見ぬ勇猛果敢な戦いを思えば、彼等が「自己を高め、人を愛し、祖国と民族を思う心」に満ち満ちていた『誇り高きもののふ達』であったことをだれが否定できようか。 

2007/6/30