昭和天皇の「子供の幸」願われる御心
 みほとけの教まもりてすくすくと 生ひ育つべき子らにさちあれ 

 この昭和天皇の御製、佐賀県基山町にある因通寺の梵鐘に刻まれていて、朝晩に響く音には、戦災で親を亡くした子供たちの幸を願われた御心が込められています。 

 六十一年前の昭和二十四年五月二十二日の朝、昭和天皇の御料車が、引揚孤児と戦災孤児計四十四人を収容する洗心寮がある因通寺にお着きになりました。 
        
 お迎えした調寛雅(しらべかんが)住職は感無量でした。 

 この二年前の昭和二十二年三月、入院中の父君・恒願院龍叡和上は因通寺行幸の計画を新聞で知ると、失明と咽頭部出血の病躯をベッドから下ろしてもらい、宮中の方に向かって座ると、床に両手を突き「お天子さま。御心痛でございましょう。あなたさまが九州の地までおみ足をお運び頂くということは、すぐる大戦の罪を償いたいとの御心から、全国をお巡りになり、民草の一人一人に親しくお言葉をおかけになられ、敗戦の責任を御身一つに被りたいとの御心でございましょうが、勿体ないことでございます。…」と語ると、そのまま床の上に倒れ、嗚咽したそうです。 

 それほど待たれた行幸でしたが、わずか七ヵ月後の十月二十八日に浄土に還られました。 

 この父君の無念さを思いながら調寛雅住職は「一天万乗の大君を、この山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これに過ぎたるものはありません」と奏上文を読み始め、父君の恒願院が戦時中に平和への願いを訴えて百万人針を達成したこと、戦後は孤児を救護教養するために洗心寮を開設したことを申し上げました。 

 奏上が終わると、昭和天皇は「…預かっている沢山の仏の子供達が、立派な人になるよう心から希望します」と仰せになられました。 

 陛下はその後、子供たちの部屋を回られて優しく微笑まれ「さようならね。さようならね」と別れを惜しまれました。 

 最後の「禅定の間」の前にこられた時、陛下は身じろぎ一つなさらず、不動の姿勢をおとりになられました。陛下が見つめられるその一点には二つの位牌を胸に抱きしめた女の子がおりました。 

 陛下が静かなお声で「お父さん。お母さん」とお尋ねになられると、女の子は「はい。これは父と母の位牌です」と答え、陛下が「どこで」と尋ねられると、女の子は「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げの途中病のため亡くなりました」と答えました。 

 陛下が「お一人で」とお尋ねになると、女の子は「いいえ。奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にして下さいました」と答えました。 

 陛下が悲しそうなお顔で「お淋しい…」とお言葉をかけられると、女の子は「いいえ。淋しいことはありません。私は仏の子供です。…お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私はみ仏さまの前に座ります。そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやって来て私をそっと抱いてくれるのです。…私は仏の子供です」と答えました。 

 すると、陛下は突然、廊下から畳の部屋にお入りになり、位牌を抱いている女の子の頭を二度三度となでられ「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され、畳に涙を落とされました。 

 女の子は小さな声で「おとうさん」と呼んだのでした。 

 この感動的な出来事に随伴して来た新聞記者も涙を流したとのこと。 

 山門からお帰りになる天皇陛下の周りには、別れを惜しむ子供たちが、亡くなった父か母にまとわりつくようにして、坂道を下ってゆかれる陛下を見送ったそうです。(以下略) 

(昭和 平成22年5月10日号記事より抜粋) 

2010/8/23