天皇陛下を戴く国民としての幸せ
井上政典【天皇陛下を戴く国民としての幸せ】(甦れ美しい日本 2010/08/20より抜粋) 

(引用開始) 

 毎週金曜日あさ7時から8時半まで、お仏壇のはせがわ本店の会議室で宗教哲学の勉強会に参加しています。(略)本日の会で、講話にこられた生長の家の松岡講師からたいへん有意義なお話をお聞きしましたので、皆様にご紹介したいと思います。 

 政治をみれば腹の立つことばかりで、日本人として恥ずかしくなり、自信を失いかけていたのですが、本日のお話によりまた復活し、日本の将来のために自分のできることをしようと決意を新たにしたのです。 

 そのお話とは、松岡講師がまだ若いころ、20年以上前のお話です。以下松岡講師のお話をまとめました。 

松岡講師談: 

 佐賀に因通寺というお寺があり、そこの梵鐘に、昭和天皇の御製が鋳込まれていると聞きつけ、そのお寺に見に行った事から始まります。佐賀はとても田舎ですが、更に田舎の基山町にそのお寺はありました。車で坂道を登っていくと、不意に広い場所になりました。よく見るとそこは、幼稚園の園庭でした。幼稚園の人が血相を変えて、とんできました。無理もありません、幼稚園の園庭に急に車が入ってきたものですから。 

 お詫びと共に来訪の意を告げると幼稚園の方の表情が一変し、それならば住職にご紹介しましょうと、飛び込みの私を寺に案内していただきました。すると、私と入れ替わりに白髭を蓄えた紳士とすれ違いました。気にも留めずに調寛雅(しらべかんが)住職から直接お話を聞くことができました。 

 昭和24年5月22日に佐賀の基山町の片田舎にお寺にどうして天皇陛下が行幸されたかというと、寺で戦災孤児の面倒を見ていたからです。引き上げ船が博多港へ付くと孤児たちは福岡市内の高宮中学に入れられたそうです。それを佐賀県からリヤカーを引いて調(しらべ)住職が引き取りに行かれていました。(大体40kmくらい離れています。) 

 戦災で親を亡くした子供たちは、恐怖とあまりにも大きな悲しさでまったくの無表情で、男の子も女の子のなく坊主頭でそこには無数のしらみが付いていたそうです。その一人ひとりを抱きしめながら、『心配しなくてもいいんだよ、これからはもう仏の子だからね』と語りかけたそうです。 

 そういう子供たちの面倒を見ているお寺があると昭和天皇がお聞きになられ、佐賀に行幸の折、ぜひ寄られたいといわれ、お寺の孤児院への見えられました。 

(中略) 前日記『昭和天皇の「子供の幸」願われる御心』参照 

 その後、住職が奏上を終え、ほっとしていると長い坂ノ下でたくさんの人々の出迎えを受けた天皇陛下がおられたそうです。しかし、その中にはシベリアへ連れて行かれ赤化教育を受け、わざわざ上京し、共産党へ入党した元兵士の一団がむしろ旗をたてて(昔百姓一揆で使用、反抗の意を表す旗)すごい形相で待ち受けていたそうです。 

 陛下をお守りしなければと駆けていこうとしましたが、先に陛下がその人々とお話になれていました。その一人ひとりに声をおかけになり、『たいへんだったね』、『辛かったでしょう』、『辛い思いをさせてすまなかった』と言われていると、そのむしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき、『こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった』と号泣し始めたそうです。後で聞くと、その青年の懐には短剣が忍ばせていたそうです。 

 そこまで松岡講師にお話をなさると、調住職は不意に『そうだ、私はあなたにこんな話をするつもりが一切なかった。もし、この話をするとわかっていたら、先ほどの人を紹介するのだった』といわれたそうです。 

 松岡講師が、『あの白髭の紳士のことですか』とお聞きになると、『そう、彼はこの寺の檀家総代でな、あのときに昭和天皇の前でひざまづいて号泣した人だよ』と答えられました。 

 松岡講師の話を終わります。 

 天皇陛下は、私心なく私たちを元元(おおみたから)とお思いなって毎日過ごされています。これは、古事記に「恭(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨み、以って元元(おおみたから)を鎮(つつし)むべし」と神武天皇への詔勅にあります。 

 このような天皇陛下の下にいるからこそ、総理大臣がころころかわっても日本の国はまだ安泰なのです。しかし、この陛下に対する尊崇の念を忘れる日本人が多くなってきたらこの国が普通の国へと堕落していくでしょう。 

 天皇陛下のおおみごころをしっかりと肝に銘じ、心ある有志を中心に日本国を盛り上げて行きたいと思います。 

(引用終わり) 

2010/8/23