クラウディアからの手紙
 こんなことが本当にあるのか、とさえ思えます。蜂谷弥三郎さん、日本の久子さん、ロシアのクラウディアさん。この三者が三様の「自分より相手を思いやる気持ち」で真心を尽くしています。 
 人間とは、誰でもこのように尊く、気高く、強い一面を持つ反面で、普通の人は皆、自我を捨てきれず、相手を思う心を忘れ、些細なことにも悩み、そして後悔するという弱い一面とを併せ持つものですが、こうしたクラウディアさんたちのような無限の愛と包容力に満ちた優れた人々から少しでも多くを学んで、自分を一歩でも前進させてゆきたいものです。 

(以下は某中学校道徳教育資料からの引用です。) 

 昭和20年(1945)8月15日、大東亜戦争が終わった。しかし終戦の直前突如「日ソ中立条約」を破って我が国に宣戦したソ連(ロシア)は怒涛の侵攻を続けた。鳥取県出身の蜂谷弥三郎(26歳)は、朝鮮平壌で妻の久子、生後3か月の長女・久美子と暮らしていた。 

 敗戦で帰国の準備に取りかかったが、なかなか引き揚げることができず、翌年を迎えた。すると7月のある日、突然ソ連兵がやってきた。スパイ容疑である。「何かの間違いだ。何もやましいことはしていないから、2、3日で帰ってこられるよ。(長女の)久美子を頼む」と言い残して、弥三郎はソ連軍に連れて行かれた。 

 取り調べは、一方的に「爆発物はどこだ。武器はどこに隠した」と同じことを追及された。「知らない…」。事実、何もわからないのだ。飢えと睡眠不足に拷問が加えられた。殴られ、何度も気絶した。ピストルでも脅された。それが何度も何度も繰り返され、結局、罪を認めないと殺されるというような状況下で、弥三郎はやむなく白紙の調書にサインをした。裁判で、懲役10年のスパイ罪が確定。極寒の地・シベリアのウルガル強制労働収容所に送られた。弥三郎の足は棒のようにはれ、針が刺さったように痛み続けた。厳しい寒さが身にしみる。 

 重労働ではノルマがこなせず、罰として食事が減らされた。周りからはすぐに死ぬ運命だと見られた。実際、多くの仲間が亡くなった。大きな薪割りで凍った死体の頭を割り、ゴミのように放られる。弥三郎は収容所を転々とされ、皆が恐れているマガダンの刑務所に送られた。重労働で病気になり、食事も取れず、死と向き合う絶望の日々。労働を免除され、死を待つばかりになった時、かすかな希望を見つけた。医師や理髪師など技能を持つ者は優遇され、食糧も多くもらえることを知ったのだ。満足に歩けない体を引きずって理髪所へ行き、何度追い返されても通い続け、水を運んだり掃除をしたり、まめに働いた。理髪師の手元を必死で見ながら頭に叩き込んだ。頭を刈るバリカンが切れなくなった時、弥三郎が研ぐことになった。もちろん、研いだことなどない。しかし、必死になって研いだところ、バリカンは切れるようになった。ソ連人の態度が少し変わった。ある時、ひげ剃り人が病気になった。客のソ連人が言った。「ひげ剃れるか」。経験など一度もなかったが、この幸運を逃がしてはならない。不安を隠しつつ上手に剃りあげると、客はものすごく喜んだ。「スパシーボ(ありがとう)。お前はうまい。まるで蝿がはっているようだ」。生きる自信が少し芽生えた。それから、弥三郎は丁寧にひげを剃り、心をこめて指圧もやった。 

 取調べは過酷に続いたが、「模範囚」の弥三郎は刑期を7年で終えることができた。しかし、ソ連の機密を知っているとされて、日本への帰国は認められなかった。しかも、いつまたスパイ容疑をかけられるかもしれないので、身のまわりから日本に関係するものをすべて捨てた。弥三郎は、日本語を忘れてしまうことを恐れた。心の中で叫んだ。「私は日本人だ。日本語を忘れてはいけない」。誰もいないのを確認してから、大声で日本語をしやべった。最初に『教育勅語』を唱えた。次に百人一首も思い出して暗唱した。「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」…日本語以外では絶対に表現できない言葉の美しさ。涙がほおを伝った。毎日、毎日…、日本語に浸るとき、彼は心から「私は日本人だ」と誇りを感じた。涙を流しながら童謡なども歌い続けた。 

 そんなある日のこと、小さな小包が届いた。表には「マガダン市 日本人 理髪師 蜂谷弥三郎」と、たどたどしいロシア語が書かれている。さんざん検閲をやられて中身は減っていたが、中に1枚の写真が入っていた。そこには妻と一人娘の元気な姿があった。そして手紙には「ワタクシワオトウサンニアイタイトオモイマス、ハヤクカエツテクダサイクミコ」とあった。弥三郎は気が狂うほどの衝撃を受けた。妻も娘も無事、日本へ戻っていたのだ。写真と手紙を抱きしめ、涙が枯れるまで泣き続けた。しかし、検閲当局によって久子の住所は消されており、こちらから連絡をとることは不可能であった。 

 時は流れ、他の日本人が全員帰国しても弥三郎だけは許されなかった。絶望のあまり自殺も考えた。ソ連の地で生きぬくためには、日本への帰国をあきらめ、ソ連国籍を取らなければならなかった。 
 そんな時、弥三郎が出会ったのが、クラウディア・レオニードブナというロシア人女性だった。 

 クラウディアは失意のどん底の弥三郎が無実の罪を背負わされた人であると見抜いた。彼女もまた波乱の人生を歩んでいたからだ。彼女はロシア革命の混乱期に生まれ、幼くして両親を失い家族は離散、ストリートチルドレンになった。養父母に引き取られるが、学校にもほとんど行けず、働くようになってからも無実の罪をかぶせられ、10年間の強制労働収容所生活も経験していた。 

 同じように不遇な二人だった。クラウディアはこの人を命に代えても守り抜こうと決心し、弥三郎の帰国がかなうまで共に生きたいと、結婚を申し出た。 

 いつ無法な罪を作り上げてくるかわからないKGB(国家保安委員会)の恐怖に怯えながらも、二人は37年間、愛に包まれた幸せな日々を過ごした。 

 平成3年(1991)にソ連が崩壊し、「日本」が近くなった。夫の心の中に日本の妻子がいることを察していたクラウディアは知人を通じて弥三郎の家族の消息を調べてもらい、その所在を突き止めた。51年もの長い間、久子は弥三郎の生存を信じて再婚もせずに待っていたのである。帰国後は食べものや着るものに困る日々が続いたが、頑張って一人娘を育てあげていた。 
 クラウディアは夫・弥三郎に日本に帰るように薦めた。弥三郎は迷った。彼女は久子と久美子の写真を見つめながら冷静に言った。 

「生死もわからない夫を半世紀も待ち続けた久子さんの立場を考えると、あなたは日本へ帰って、今日まで苦労してきた久子さんを、できるだけの愛情でなぐさめてあげてください。もし、あなたを日本へ帰さずに独占したら、私は人生の最後まで後悔するでしょう」。 

 さらにこう続けた。「他人の不幸の上に自分の幸福を育て上げることは、私には絶対にできません。あなたは日本に帰るべきです。そしてあなたが本当に幸せであることがわかれば、安心して私は世を去っていくことができます。私は私の祖国で、あなたはあなたの祖国で、土になりましょうよ」と…。 

 ただクラウディアは「国際電話の縁だけは切らないで」とも言った。平成9年(1997)、こうして弥三郎は51年ぶりに久子のもとに帰っていった。もちろん日本人として…。 

 51年もの間、再婚もせずに待ち続けてくれた久子と再会した弥三郎は、失った時間を取り戻すように鳥取県で暮らした。 

 平成11年、ロシアは当時の調書を再度検証し、「反ソ連スパイ罪は無実であり、蜂谷弥三郎(81歳)の名誉を回復する」と証明書を出した。 

 37年連れ添ったクラウディアは弥三郎を日本に送り出した後、シベリアのアムール州の田舎で一人、暮らしていた。ある日、弥三郎のもとにクラウディアからビデオが送られてきた。 

 彼女は「あなたの心が2つに引き裂かれないように、早く私から離れてただ一途に久子さんのために尽くしてあげてください。私は今日まであなたと共に暮らせたことを心から感謝しています。あなたの幸福と一日でも永く生きてくださることを祈っています」と訴え、涙で締めくくられていた。 

 平成19年(2007)5月、久子は急に悪寒を訴え、弥三郎が抱きしめながら体を暖めている時、腕の中で息を引き取った。「お父さん暖かいね」の言葉が最後だった。弥三郎は目に涙を浮かべ、「やっと再会したと思ったら、また別れるなんて…。悲しくて心もとない。互いにいたわり合い、愛を感じる日々でした」と語り、いつも優しく振る舞ってくれた妻・久子を思った。 

 長女の久美子は「気丈な母だった」と振り返り、「父が帰って来たのでここまで長生きできたのでしょう。母は幸せ者です」と声を詰まらせた。 

 葬儀の日、クラウディアから「あなたと心を一つにして悲しんでいます」と哀悼の意が寄せられた。 
 弥三郎とクラウディアは今でも土曜日の朝、きまった時間に電話をしている。

2010/9/10