『闘戦経』とは何か
▽ごあいさつ 〜はじめまして〜 

 はじめまして。家村です。 

 現在、日本兵法研究会の会長として、主に日本の兵法書を研究し、普及する活動を行っています。この際、それまでの約30年にわたる自分の陸上自衛隊勤務から得た知識と経験をもとに、古い難解な兵法書をなんとか皆様にわかりやすく解説しようと試みております。 

 ところで、なぜ、私はあえて「日本の兵法書」を重視して研究するのでしょうか。 

 私は若い頃から孫子、クラウゼウィッツなどのシナや西欧の兵法、戦争史から戦闘戦史まで古今東西の戦史などを幅広く学んでまいりましたが、ある時期から「日本人には、日本人特有の戦い方があるのではないか?」との疑問を抱くようになりました。 

 そして、私が幹部学校の戦術教官であった時、この疑問を見事に解き明かしてくれたのが、今回から皆様にご紹介する兵法書『闘戦経』なのです。 

 「義のためには、死をも恐れず戦う」・・・こんな戦い方は必ずしも全ての国や地域、民族に見られるものではありません。ところが、我が国の歴史の中では、いつの時代にも常に、こうした戦い方が見られます。北条時宗、楠木正成、西郷隆盛、乃木希典など、後世に深い感銘を遺した優れた武人たちの思想と行動の根源にも、この『闘戦経』があったと見て間違いないでしょう。 

 日本が世界に誇るべき武士道精神のルーツも、実はこの戦う日本人のための兵法書『闘戦経』にあります。 

 それでは、皆様、どうか最後までお付き合いください。 

 ▽日本の兵法の特異性 

 戦(いくさ)とは、敵と我とが生存を賭け、勝敗を決すべく脳漿(のうしょう)を絞って智恵を出し、その力を集成して相手にぶつけあうものであり、その戦に勝つための方策を生み出す教えこそが兵法である。 

 およそ一つの民族には、それが置かれてきた地理的環境に根ざした歴史上の事実と、言語、習慣、宗教、思想等に代表される伝統的文化がある。その国の政治、法律、学問などあらゆる文明が、この歴史的事実や伝統的文化の上に成り立つものであるように、兵法もまた、それぞれの民族の歴史と文化に根ざしたものになることは言うまでもない。 

 古代シナの兵法は、軍師と云われる理論家が生み出した「戦いの理論」である。元来、兵法の背景となる国や社会が易姓革命を繰り返して激しく流転し、一貫した宗教や信仰とは無縁であったシナでは、「文」と「武」、政治と軍事を別ものと考え、儒教と兵法がそれぞれに独立した専門家の先生を置き、学問として発達した。それゆえ、兵法においても戦の政冶上に占める地位、兵を用いる目的、戦争により何を求めるべきか、武人としての精神や心構え等についての論述が不十分であることは当然であろう。『孫子』が書かれた春秋戦国時代とは群雄割拠の時代であり、「兵は詭道なり」として権謀術数を奨励する論理が全ての面で横行した。それゆえ、戦術・戦法レベルや軍事戦略レベルを超えて大戦略レベルまで「詭」の思想に完全に支配されているのである。 

 西欧の兵法が、「征服」のための兵法であることは、その歴史が証明するところである。これは、欧亜大陸で行われた民族移動が征服の歴史であり、ユダヤ教・キリスト教・回教などの一神教の神が、ユダヤ人、キリスト教徒、回教徒それぞれの氏神でありながら、自らを強固に団結させ、保持強化するためには異教徒を人間として扱わなかったユダヤ人の神と同一の神であったためであろう。事実、ギリシアやローマの文明も、武力戦争により奴隷化された被征服者の上に立つ征服者の文明であったし、博愛を主とするキリスト教徒の文明も、異教徒に対しては冷酷極まりないものであった。クラウゼウィッツの『戦争論』などの近世以降に発達した西欧の兵法は、これら西欧における征服者の戦争観に根ざしたものであり、「戦争」という現象をギリシアに発する合理主義・理智主義により、徹底的に究明したものである。 

 古代シナの「戦い」の兵法や西欧の「征服」の兵法が、いずれも「在る(実在)」ということを出発点とし、こうした既得のものを維持することを目的とする国家観に根ざしているのに対し、日本の兵法は、「成る(生成)」ということを出発点とし、これをさらに発展させていくことを目的とする国家観を基礎としている。「在る(実在)」ものは、「成った(生成した)」から在るのであり、さらに発展しないものは、存在することができない。これが宇宙万有普遍の真理である。 

 古来、日本人にとって「国」とは、我々の愛すべき対象、誇りの源泉となる精神世界の中に存在するものである。それは、一つの「いのち」であり、価値であり、知的な認識だけでは感じることができないものである。シナや西欧における国家のような制度、組織、機構、権力構造などのように客観的に認識できるものに限定された国家ではなかったのである。 「いのち」であればこそ不断に活動し、発展する連続性や永続性といった縦の世界を備えており、その基盤の上に万世一系の天皇を中心とする共同体としての同胞意識という横の世界が醸成されるのである。国土と人間を含む万物は、等しく神々の子孫であるという同胞意識こそが、神話に示された我が祖先達の教えである。この思想は、われわれ現代人の心の底にも残っており、多様な人々が等しくその価値を認め合う社会を築くとともに、無意識のうちに、万物が調和し、一体化された永久的な生命の保持と増進を求めて生成発展しているのである。 

 「生成発展」のための兵法、これが日本の兵法の特異性である。 

 ▽『闘戦経』とは 

 今から約九百年前、当時の日本における兵法の第一人者であった大江匡房が著した兵法書『闘戦経』は、「孫子」「呉子」など日本とは国情を異にする隋や唐から伝来した兵法を補うため、日本に古来から伝わる『武』の智恵と精神を簡潔にまとめた書物である。この『闘戦経』を貫く基本理念は「文武一元論」である。これは、無秩序から秩序を生み出すためには、文と武は不離一体のものであり、それゆえに国家指導者は軍事・政治の両面に長けていなければならず、あらゆる将兵が智と勇とを融合一体化した存在でなければならないという教えである。又、孫子の兵法が、戦いの基本を「詭」(偽り、騙すこと)として、「奇と正」の策略を奨めたのに対し、『闘戦経』を貫く指導原理は「誠」であり、「真鋭」である。 

 純日本の兵書とも云うべき『闘戦経』は、この太陽に象徴される国、祖神の開いた国と祖神の生んだ民が一体となって生成発展してきた日本の「いのち」を継承し、守り、伝えていくため、日本人に戦う知恵と勇気を与えてくれる「魂の書」なのである。 

 ▽『闘戦経』の構成 

 純日本の兵書『闘戦経』は、兵法という形をとりながらも、その内容は、シナ文明や西欧文明の荒波に曝されて混迷を極める現代日本と、そこに生きる我々日本人が求めて止まない「日本とは何か、日本人とは何か」という課題に端的に答えるものである。 

 『闘戦経』の内容について、「孫子」「呉子」等の古代シナの兵学を否定するものと誤解される方が多いが、それは誤りである。著者である大江匡房は、これら古代シナの兵学が「方法論」としては簡にして要を得たものであり、戦術・戦法面では優れたものであることを認めた上で、両民族の歴史と文化の違いを考慮して、日本人のために補足すべき教えを簡潔にまとめたのである。つまり、『孫子』と『闘戦経』は、「表裏で学ぶ」ものである。 

 現在残っている写本『闘戦経 全一冊』は、52個の「章」と「序」、「跋」(あとがき)で構成されている。「章」とはいっても、一行から数行程度の漢文であり、その内容には、「日本人としての戦い方」に重点を置くものと、「武の道にある者の心得」に重点を置くものがある。 

 次号から、この52の「章」のうち、主に「日本人としての戦い方」に重点を置いたものを抜粋し、8回に分けて解説する。

2007/5/26