一心と一気とは兵勝の大根か
▽ごあいさつに代えて 〜〜元寇と闘戦経〜〜 

 日本兵法研究会の家村です。今、大型台風が日本列島を直撃していますが、この時期の台風といえば元寇、すなわち文永11(1274)年と弘安4(1281)年の二度にわたる蒙古襲来が連想されます。神風という名の台風が日本を救ったと信じられていますが、実は「台風があっても、無くても鎌倉幕府軍は実力で勝利していた」というのが歴史の真相です。戦いの経過など、くわしいことは拙著「真実の日本戦史」(宝島SUGOI文庫)で述べておりますので、こちらをご参照いただければと思いますが、元軍の日本占領を阻止した鎌倉武士たちの戦いぶりは、すさまじいものでありました。 

 文永の役では、元・高麗連合軍が3万余りの軍勢で、対馬と壱岐に押し寄せてきましたが、これに対して鎌倉武士およそ200人は、敵に後ろをみせず戦い、全員討死にしました。その中でも対馬で元軍を迎え撃った宗助国を頭とする84人の一族郎党は皆、顔に笑みを浮かべて群がり寄せる元軍のなかに斬り込むと鬼神のように奮戦し、壮烈な最期を遂げました。このように大義に死すとき、人生意気に感じた男たちは笑って死地に向かっていくものなのです。 

 大軍を前に死ぬことが分かっていても、戦いを挑んでくる鎌倉武士たちに元軍の大将、忻都(キント)も、「私はいろいろな国と戦ってきたが、こんなすごい敵に出会ったことはない」と驚き、絶賛に近い評価をしました。 

 ここで、これまでに皆さんが学んできた「闘戦経」の教えをいくつか思い出してみましょう。 

 「兵の道にある者は能く戦うのみ。(第九章)」 

 「軍なるものは、進止有りて奇正無し。(第十七章)」 

 「将に胆有りて軍に踵無きものは善なり。(第二十章)」 

 元寇の史実を知れば知るほど、当時の鎌倉武士たちがこうした教えをそのまま実践していたことがよくわかります。若き執権・北条時宗は、事前に海岸線に膨大な石塁を築かせるとともに、敵の侵攻に際し、第一線の武士たちに「直ちに前(すす)んで賊を斬り、顧みるを許さず」との命令を下しました。この北条時宗こそ、剛毅にして「将に胆有り」そのものの人物だったのです。 

 それでは、我が国史上最大の国難を克服した国家リーダーともいうべき北条時宗と我国最古の兵書「闘戦経」とのかかわりについてご説明しましょう。 

 「闘戦経」の著者である大江匡房(1041〜1111年)は、兵法の大家である大江家の35代目にあたります。大江家は初期の祖である大江維時(これとき)が930年頃に唐から兵書「六韜」「三略」「軍勝図」を持ち帰ってきたほかに「孫子」「呉子」「尉繚子」なども管理していました。これらの兵書は「人の耳目を惑わすもの」として秘密扱いにされ、閲覧は大江家の者に限定されていましたが、源義家(1041〜1108年)が大江家からの兵法伝授を後冷泉天皇(第70代)に歎願したことから、匡房はやむをえず「孫子」及び「軍勝図」を義家に伝えました。 

 「兵は詭道なり」とするシナ兵書が和の精神を基調とする日本の国柄に合致せず、やがては古代シナの春秋戦国時代のような群雄割拠、戦乱の巷をもたらしかねないことを危惧した匡房は、「孫子」を学ぶものは同時に「闘戦経」も学ばなければならないとして、これも伝授しました。こうして、「孫子」や「闘戦経」などの兵法が源氏に相伝されることになりました。 

 匡房のひ孫にあたる大江広元(38代)は、鎌倉幕府創業時の功臣として、源義家の嫡流である源頼朝から実朝までの三代に仕えました。これにより、武家社会が形成された当初の武士たちには「弓馬の道」「もののふ」といった気高い精神文化が醸成されることになりますが、その後、北条氏による執権政治の世になると、大江家は鎌倉幕府から遠ざけられてしまいます。 

 大江広元には、親広、時広、宗元、季光(すえみつ)の4人の子がありましたが、長男・親広が承久の乱(1221年)で失脚したことから、二男の時広が大江家39代となります。しかし、時広と宗元には男児が無く、毛利氏の養子となっていた四男・季光は、その息子らとともに宝治合戦(1247年)で討死してしまいます。この毛利季光の四男で、越後に預けられて難を逃れた経光(つねみつ)が大江家40代となります。季光には、経光のほかに涼子(あきらこ)という娘がいました。この涼子が北条時宗の母親というわけです。 

 簡単に言えば、大江家40代の大江経光は、執権・北条時宗の母方のおじにあたるということです。 

 北条時宗が、おじである大江経光から兵法を伝授されたという記録は見当たりません。しかし、父・時頼のスパルタ教育により、幼少から国家指導者として文武の道を徹底的に学ばされた時宗が、武士として必須の素養である兵法を誰からも学んでいないということは、まずあり得ないことです。私は、宝治合戦で北条氏に滅ぼされた三浦氏の血を引く大江経光から時宗が兵法を伝授されたということが、北条氏にとって都合が悪かったために、その事実が隠されてきたのではないかと推測しています。 

 もしも、経光から兵法を伝授されなかったとしても、時宗が血縁にあった大江家の兵法書を手に入れ、それを自学自修したことは、ほぼ間違いないといってよいでしょう。 

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、軍隊における士気の重要性などについて解説いたします。 

 (平成23年9月21日記す) 

 ▼呉子は概ね常道を説く 

 呉起の書六篇は、常を説くに庶幾(ちか)し。(闘戦経 第二十三章) 

 兵書「呉子六篇」は、周代の兵法家であった呉起が、魏の文候に兵法を講義した際の問答を一巻に著したものである。図国、料敵、治兵、論将、応変、励士の六つの篇で構成され、「戦場における用兵の方法論」を展開しているが、その内容は概ね常道を説いている。 

 ただし、「闘戦経」が武勇文徳を一体とする(文武一元論)のに対して、「呉子六篇」は「図国第一」で、武を以て文に対するもの、勇を以て徳に対するもの(文武二元論)の立場をとる。このように、武は全体の半分をなすものであるから、武の欠陥は道義礼仁の四徳によって律せられるべきである、と論じている。 

 又、兵を起こすべき機には、争名、争利、積悪、内乱、囚機の五つがあり、兵の名には、義兵、強兵、剛兵、暴兵、逆兵の五つがある。そして、暴兵、逆兵を屈服させるには、詐権を以てすることを道とすると主張している。 

 「料敵第二」では、敵を撃つべき機八つを説き、撃つべからざる機六つを述べ、敵の虚実を審らかにすべきと論じている。 

 「治兵第三」では、用兵の道として軽馬、軽車、軽人、軽戦の四軽を叙べ、重賞、重刑の二重を唱え、これを行なう一信を説き、それによって戦勝の法を論じている。 

 「論将第四」では、将の慎しむべき所五つ(理、備、果、戒、約)を述べ、また死の栄ありて生の辱なしと説いている。 

 「応変第五」では、左を聴いて左し、右を聴いて右し、これを鼓すれば即ち進み、これを金すれば則ち止むというような、教条的に動かす用兵を述べている。 

 「励士第六」では、重刑明賞を唱え、功績のあった士を挙げ、これを賞揚して衆に羨望せしめるとともに、功績の無い士を励まして志を振起させることを説いている。この理によって呉起は五万の士を率いて秦の五十万の大軍を破ったという。 

 実際の戦いでは、呉起は奇謀を好み、奇変により兵を用いているが、その書六篇では諸所において概ね正常な道を説いている。これにより明らかなように、正常な道を守って行動する時には、奇変は自ら現れるものであり、呉起の行動が奇変であるからといって、その書までも全て奇変を説くものと疑ってかかるべきではない。 

 ▼一心一気こそが勝利の根本 

 蛇のムカデを捕うるを視るに、多足は無足に若かざるや。一心と一気とは兵勝の大根か。(闘戦経 第二十六章) 

 蛇がムカデを捕えるのを見ると、足が多いムカデより足のない蛇が優っている。ムカデが百本の足を秩序正しく、互いに絡まないように整然と動かして逃げている間に、足が無い蛇が飛びかかり、あっという間に捕えて食べてしまう。これは、蛇の心気が強く、その体が伸縮自在だからである。 

 このムカデの足のような過多、技巧、冗漫は敗北の原因であり、足の無い蛇のような一心一気こそが勝利の根本である。ムカデの足は体から取られてしまうと、小さな一本ずつでは全く役に立たない。むしろ蛇のほうが、皮に包まれて外に現われないものの、骨全体が体内で一条一本の足となって完備している。 

 軍隊においても、いかに隊伍が整っており、多くの兵士が号令や号音一つで秩序整然と動く事ができたとしても、主将への忠誠心から心が一つに纏まっていないようでは、ことに当たって烏合の衆に過ぎず、わずかな損害にも右往左往して敵にあたることも出来なくなる。又、隊伍からはぐれた一兵卒は、全く戦力にならない。 

 しかも、いざ戦争が始まろうとしてから、あれもこれも必要だと兵馬を動員し、物資を調達し、多くの複雑なものを統制したり、細部に至るまでの大量な作戦計画を作成しただけでは、勝利を得られるものではない。たとえ巧妙な技や術を恃みにしたところで、無足一条の蛇のような揺るがぬ心構えと、有形無形の戦力の一気の発動には及ばない。 

 このように、戦に勝つ最大かつ根本の教えは、明智を尽くした「一心」と勇断果敢の「一気」である。「一心」とはバラバラになりがちな一人一人の心を一つに集中させる潜在的な作用であり、各人が忠節を尽くそうとする意志により実現するものである。 

 これに対して「一気」とは一心により集中した精神力を一挙に烈しく発動する顕在的な作用である。 

 兵術とは目に見える形の上に成るものではなく、見えざる心気の強弱に依るものである。ここに兵術修学の難しさと素晴らしさがある。 

 ▼鋭気は人の根本 

 木火け、石火け、水亦た火く、五賊倶に火有り。火なるものは太陽の精、元神の鋭なり。故に守りて堅からず、戦ひて屈せられ、困しんで降る者は、五行の英気あらざるなり。(闘戦経 第二十八章) 

 火は諸物が光りを放ち、高熱を発生しながら激しく酸化する過程である。火が炎々と焔をあげ、たちまち拡大して山野を焼き払うとき、木は燃え、石もまた燃え、黒煙を立てて全てを焼き尽くす。火がさらに旺盛であれば自ら風を呼び、何物も止めることのできない勢いを生じて、水や雪さえも青い焔を発して燃えるという。この火というものの激しいエネルギーは、「五賊」の全ての中に存在する。 

 古代シナの自然哲学である五行説によれば、万物は木・火・土・金・水の五つの元素(五行)からなり、この五つの元素が発生し、消滅し、流転しつつ、互いに影響を与え合うことによって万物が変化し、循環するという。「五賊」とは、五行の「気」、すなわち、木・火・土・金・水という五行が流動的に運動し、作用をおこした結果生じたものを指す。 

 すなわち、五行は、天にあっては五星となり、地にあっては五嶽となり、位にあっては五位となり、物にあっては五色となり、声にあっては五音となり、食にあっては五味となり、人体にあっては五臓となり、道にあっては五徳となる。そしてこれらを正しく用いなければ、禍をこうむる(賊となる)のである。 

 五臓とは、肺、心、脾(すいぞう)、肝、腎をさし、これを五行にあてはめると、肝は木、心は火、脾は土、肺は金、腎は水となる。肝なる木は肉体をつかさどる魄を蔵し、心なる火は神を蔵し、脾なる土は志を蔵し、肺なる金は精神をつかさどる魂を蔵し、腎なる水は精を蔵する。つまり、心臓は神を蔵し、火を蔵し、血を生ずる人体の中心をなす部位であり、この血は五臓六腑、四肢五体に熱気(エネルギー)を伝えるものである。 

 太陽は最大の火であり、これが放つ光と熱こそがあらゆる生命のエネルギー源である。つまり、火というものは、天地開闢のときに成りませる神々の真鋭正大にして無窮無涯なる力の顕れである。神により、この火の精鋭が地上に体現されたものが「日の本の国」であり、その国旗は日の丸である。それゆえに、我が国では人を霊止(ヒト)といい、男を日子(彦)といい、女を日女(姫)という。 

 元来、人は五行の精を受けて生ずるものであるから、必ず鋭気が全身にみなぎっているのである。それゆえ、人の集まりである軍隊にあっても、当然のことながら燃え上がるような闘志(士気)が漲っていなければならない。すべて純粋にして熱く燃える鋭気があればこそ、いかなる困難も乗り越えて『武』の道を完うすることができるのである。 

 この自然の理に反して、守備しても堅固でなく、戦闘しても敵に屈服させられ、困難に挫折してすぐに降伏するような者があれば、これは五行の鋭気が具わっていないがためであり、人とするに足らずということになる。 

 ▼食糧と戦備 

 食して万事足り、勝ちて仁義行なはる。(闘戦経 第二十九章) 

 食糧と戦への備えこそが、治国の大本である。食べることは、生命を維持し、成長させ、繁殖させることの基本であり、食欲を満たされることにより、生命体は満足を覚え、社会の繁栄に貢献できるようになる。 

 一家庭においても、子に食を給するのが親の愛であるように、国の政治の務めとは、食物の潤沢な生産と供給により国民を飢えさせないことである。そのために必要な土地と労力と資本の全てがそろっており、生産機構と施設や設備が整えられ、賢明に運営され、生産物が円滑に流通されなければならない。贅沢品以外の一切の食料品は、安全で確実な自国生産でまかない、安易に輸入に依存してはならない。 

 我が国は古から「わが高天原に御す斉庭の穂を以て、亦た我が児に御せまつる」との天照大神の神勅を受け、肇国以来の歴代の 天皇も又、「農は天下の大事なり、民の恃みて以て生くる所なり」( 崇神天皇)などとされ、地方に池溝を開かれ、農事を勧め、百姓の富寛安養を祈念され給うたことで、米作りを中心とした農本の国として栄えてきた。さらに、億兆万民の生業を勧め、生活の安養をはかることで、あらゆる産業が増産され、万民の生活を確保し、向上させてきた。 

 このように、食糧が足りれば、次いで衣と住を始め、何事も整わないものは無い。人々の君主たる者が、危機への備えを十分に成していれば国内は安泰であり、戦に勝てば、凶暴な輩どもが鎮定されて、仁義の政治が行なわれる。 

 仁とは、相手を慈しみ、博く人を愛することであり、義とは、その行為が宜しきにかない、正しい道を守り、己の利害得失を顧みずに行動することである。 

 仁義は倫理道徳の基幹をなし、仁義の道が行なわれて始めて全ての人々に衣食足る太平の世が保証される。この仁義が行われるためには、まず仁義の勢力が正義に逆らう勢力を破って勝利しなければならない。「戦を以て戦を止むれば、戦と雖も可なり」(司馬法)なのである。 

 悪逆非道の者が天下を支配すれば、仁愛の道とは程遠い暗黒の社会となり、諸民は蹂躙され、自由独立を奪われ、塗炭の苦しみに陥る。それゆえ、国家は戦いに勝つことが根本である。 

 必勝の備えと必勝の戦略・戦術とは、常に怠ってはならない。

2007/5/26