小勢を以て大敵を討つ
▽ごあいさつに代えて〜 

 日本兵法研究会の家村です。残暑が厳しかった今年の9月もようやく終わりつつあり ます。この月は、全国各地の神社でお祭りが盛んに行われました。私も中旬の土日は近所の神社の例祭に崇敬会青年部の一員として参加し、その準備や片付けも含めてめまぐるしい4日間が続きました。 

 年に一度、神に収穫の感謝を捧げる秋のお祭りで最大の盛り上がりは、やはり神輿の巡行でしょう。昔から秩序正しく、普段はめったに大騒ぎをしない我ら大和民族も、この神輿巡行の時だけは大いに騒ぎ、活気に満ち溢れ、まさに「日本の底力」のようなものを発揮します 

 一人ではびくともしない重さの神輿が、皆の力で持ち上がり、心を一つにした威勢のよい掛け声にあわせて前に進み、ゆっくりと皆が住む町の中を巡行します。お囃子(はやし)の演奏に先導され、老若男女を問わずたくさんの人たちが神輿を囲み、担ぎたい人が担ぎ、疲れたら誰かと交代する。担がない人も神輿のうしろをゆっくりと歩いて続きます。半纏(はんてん)に袴、地下足袋姿で神輿を担ぎながら、素直に日本文化を体感して楽しむ外国人のグループも増えているようです。 

 こうして揺れながら、ゆっくりと、しかし着実に神輿は前に進みます。金色に輝く鳳凰は美しく、その神輿の中には皆の安らかな暮らし、幸福と繁栄を願う神がおわせられます。日本では昔から政治のことを「まつりごと」と言いますが、まさに日本の政治の原点はこの「祭り」の中にこそ見出すことができるような気がします。 

 人の智や力を超えたもっと大きなものに対する畏敬の念や、一人ひとりが全体の一部であることを自覚して自らその分を尽くし、皆が力をあわせて日々の幸福と繁栄のために世の中を動かしていこうとする意思と行動、これ無くして「まつりごと」はなりたたないのでしょう。 

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、少ない兵力で大敵を討つための心構えなどについて解説いたします。 

 (平成23年9月26日記す) 

 ▼螫(せき)毒の一手 

 小虫の毒有るは天の性か。小勢を以て大敵を討つ者も亦た然るか。(闘戦経 第三十章) 

 小さな虫が毒を持っており、渾身の力を揮って大きな獣を刺し倒すのは、天から与えられた能力である。どんなに微小な虫であっても、それが激しい毒を持っていれば、人も猛獣も怖れて近寄らない。螫毒(せきどく=虫の毒)は天が弱きものに与えた惠である。 

 小さな虫が大きな敵を刺すときには、自らの体が潰されることは意に介せず、決死の覚悟で襲いかかり、しがみついて猛毒を放ち、必ず敵を倒すまで止めようとしない。このような小さな虫にさえも、強烈な防衛本能があることがわかる。 

 このように、物の大小多寡は、必ずしも勝敗を決定する絶対条件たりえず、むしろ天から与えられた烈しい本能の力こそが、物量の差を超えて勝を制するのである。戦において小数の勢力で大敵を討ち倒すのもこのようなものである。楠公が千早城で大敵の猛攻撃に持ちこたえたように、乏しい兵力を以って無尽蔵の物量に勝つためには、この螫毒の法に習うべきである。 

 現代戦においても、核・化学兵器や長距離・中距離ミサイル、最新鋭の戦闘機、大規模な水上艦艇や潜水艦、上陸用舟艇、戦車、多連装ロケット等の各種兵器を揃え、圧倒的な物量と兵士の数を恃んで進撃して来る敵に対し、我も同様の備えを以て対することができれば望ましい。しかしながら、たとえ我にそれだけの備えが無いからといって戦わずして屈してはならない。ゲリラ的な抵抗を重ねながら最後の最後まで祖国を守り、我が身を護るための方策は「螫毒の一手」のみである。 

 その秘訣は、敵にとって最も重要な、あるいは弱点となる部位はどこかを見極め、その部位を一刺し、一挙に螫毒を放つことである。それが頭であろうが、指先であろうが、大敵といえども必ずどこかに弱点はある。一九三九年一二月、ソ芬戦争「スオムサルミの戦闘」において、小規模なフィンランド軍は、強大な戦力で侵攻するソ連軍を積雪した森林・沼沢地に巧みに誘致導入して奇襲攻撃し、分断・撃破した。 

 核ミサイルのような十分な軍備を欠くような国であっても、国民がことごとく螫毒の極意を心得ているならば、凶暴巨悪な軍事大国といえども懼れをなして侵攻して来ないものであることを銘記すべきである。 

 ▼猜疑心を捨て権威を高める 

 戦国の主たる者は、疑を捨て権を益すに在り。(闘戦経 第三十二章) 

 戦国の世とは、国と国との関係が「弱肉強食」の原理に支配された世の中であり、常に国の内外が戦いの準備や戦いそのものに振り回され、忙しい状態にある。民心は戦や内乱におそれおののいて不安定になり、国内に反乱の兆があれば、それを阻止し、警備を固くして治安を維持しなければならず、同時に国外からの侵略に備えて護りを堅くしていなければならない。 

 すでに隣国との間で戦塵の挙がっている国では、国の存亡を賭けたこの一戦にただちに応じてよく戦い、万難を排して勝たなければならない。 

 こうした乱世を勝ち抜くため、戦国において主君や将軍は常に四方に目を配り、事の処理を敏速適切に行なわなければならない。めまぐるしく変転する情勢に応じて戦略・戦術を練り、作戦を計画、実施すると同時に、国内の法を整え、治安を維持し、産業を継続させ、民心を安定させることに努めねばならない。このように一時の気の緩みも許されない中で最も重要なことは、主君と家臣が一枚岩となって団結し、民心を惹きつけ、全ての国力を外敵に向けて発動することである。そのためにも、戦国の主君は、その配下の疑念をなくし、信頼を高めて、その権力を有益なものとすることが大切である。 

   呉子が「三軍の災、狐疑より生ず」と説くように、疑う時は天地の間皆疑わしくなり、用いるべき人も無く、取るべき法も無くなるものであるから、主君は先ず自らが家臣に対する疑念を捨て、我が赤誠を人の腹心に置かなければならない。 

 次いで、決断力を発揮して時宜に投じた公正明大な信賞必罰を断行し、社会を安定させて民心の背反を塞ぎ、その権威を大いに高めなければならない。 

 戦国の世にあっては、家臣の中にも野心を抱く者がいるため、主君には清淘併せ呑むような大きな度量が必要である。特に、欺瞞や陰謀に長けた危険人物をも心服させ、よく使いこなすには、偏見や猜疑心を捨て、自らは私腹を肥やすことなく、功あらば恩賞を重くして皆の前で賞することにより、信を得ることが先決である。 

 これと全く逆のことをして、下の者が不平不満を抱けば、上下間の心が一致せず、この心の隙を突いて外部から謀略の魔手が進入し、不満ある家臣は懐柔され、民衆は乗ぜられる。その結果、この愚昧な主君は、蜂やさそりのような思わざる強烈な一撃を与えられ、俗にいう「飼犬に手を咬まれる」ような災禍に陥ることになる。 

 太陽が天に照り、慈雨が大地を潤すように、将たる者は公正無私の精神と誠心を以てその権威を確固たるものとし、人々の心を悦服させるように努めねばならない。 

 ▼物事の本質を知る 

 変の常たるを知り、怪の物たるを知れば、造化と夢を合するが若し。(闘戦経 第三十四章) 

 あらゆるものごとは常に変化するものであることを知れば、突発的な異変や事変にも戸惑うことなく、平常心を以てこれに対処することができる。 

宇宙・天体は停止することがない。それゆえ、天地自然は不断に変転し、推移し、進化し続ける。それゆえ、盛衰治乱は天道の常である。こうした「変動=絶対の真理」をよくわきまえ、時々刻々に起こり来る異変を平常のことと覚悟し、事前に備えていれば、実際にいかなる異変が起きても驚くことはない。 

 怪奇な現象の実体が物質にすぎないことを知れば、これを何の不思議もない当たり前のことと見ることができる。 

 通常の知識や常識ではよく理解できない怪奇なもの、不可思議なものを恐れ、その対処を誤れば、愚策に走り、迷信が起こり、文化・文明の発展や進歩に悪影響を及ぼすことになる。しかしながら、怪奇なもの、不可思議なものには必ず正体がある。これを究明すれば、すべてが物事の道理から外れるものではないことがわかる。妖怪変化や怪力乱神と言われるものも、その実体は他愛も無い物体に人の創作が加えられたものに過ぎない。こうして怪奇・不可思議な世界の扉を開いてその神秘の実体を解明し、新たな知識を拡大してゆくことで、人智は絶えず進歩するのである。 

 このように、「変の常たるを知り、怪の物たるを知る」ことにより、異変や怪奇に際しても心を乱すことなく、変と怪とを快刀乱麻を断つが如く処断すれば、そこには惑いも恐れも生じない。 

 我々日本人の『武』本来の「生成発展、破邪顕正、誠清実在のはたらき」を理想(夢)とし、これを追及して絶えず自らの進歩向上に努める限り、その理想(夢)は造化(天地自然の理、天地を造った神の見えざる力)のはたらきと渾然一体となる。つまり、万物の根源にして百家の権輿である『武』のはたらきは、天地万物を創造し、化育する造化のはたらきそのものなのである。 

 物事の本質を知れば、天下に驚くべきこと、怪しむべきものは何も無いのである。 

 ▼天は万物を護る 

 胎子に胞有るを以て、造化は身を護るを識るなり。(闘戦経 第三十五章) 

 天の性は自然に万物を護るように出来ているものである。人が胎子として母体内に生を受ける時点で既に胞があることにより、この中で安穏に保護され、養われる。胞とは、「えな」ともいわれるもので、胎児を包んでいる膜や胎盤などの総称である。母が誤って有毒物を口にしても、この胞により胎児の身には被害が及ばない。これは自然の理であり、造化(天地を造り育てる神)の為すところである。新たな生命は産まれる以前から造化によってその身を護られているのである。 

 造化は、全ての生物に種の保存と繁殖に必要な能力を与えている。胞により保護されない単細胞動物は、単純で急速な分裂作用により増殖して、その種を存続させる。これより少し進歩した同体両性動物は、同種の異体と結合することにより生殖し、一度に大量の生命を宿す。こうして環境の変化に耐えられず、あるいは弱肉強食の自然の摂理により多くが死んでも、それ以上に多く繁殖することにより種の絶滅を防ぐのである。 

 陰陽結合して繁殖する高等動物の母体には、胞があり、この中に胎子が産まれると、造化による愛護が働き出すのである。万物の霊長である人間も産まれ始めの段階においては、小さく柔かく弱いものであり、手厚い保護を必要とするので、深い愛情と慈悲の心を以て護られ、育て養われねばならない。 

 このため、造化はあらゆる動物にその子を愛護し、愛育する本能を与えている。胞はこの天性を全うするための形体面での備えであり、これにより用意周到に胎子を迎えることができる。人の子が胎内に宿ると、母は身体と精神のあらゆる機能をはたらかせて胎子を愛育する。このとき、胞は内部的には胎子を養育し、外部的にはこれを護る。 

 いよいよ出生してその姿が目に見え、手に懐かれるようになると、親はその子を慈しみ、大切に育てる。新生児は、造化の最高の所産であり、万物の精華である。これに注がれる親の慈愛こそが、造化の大悲大愛の代行なのである。 

 我々日本人の『武』は胞と同様に、内にあっては人々を養育し、人の道を完うさせるとともに、その良民をあらゆる脅威から護るものである。人々が家や町、国を形成、維持、繁栄させるには、悪徳を許さず、非道を挫いて非理を排し、正しい道を施さねばならない。こうして、我が身を護り、祖国を護り、人類を永久に護り繁栄させることが『武』の使命である。それは同時に、造化の意志そのものでもある。 

 このように、天は我らを護るものであることを識り、天地自然のはたらきに感謝し、謹んで天地の則に違うことのないように心掛けねばならない。

2007/5/26