鼓頭に仁義無く、刃先に常理無し
▽ごあいさつに代えて 〜桶狭間合戦の真実〜 

 日本兵法研究会の家村です。昨日(10月3日)とある雑誌の日露戦争特集に掲載される対談記事で、漫画家の江川達也氏と3時間ほど話し合う機会を得ることができました。対談のテーマは日露戦争に関してでしたが、話は日清・日露を超えて満州事変・支那事変や古戦史にまで及び、大変有意義な時間を過ごすことができました。 

 「日露戦争を国家総動員戦の始まりと捉えることができるか?」との江川氏の問いかけに対し、私は「日露戦争とは、国家総動員戦以前の、すなわちナポレオンに始まる近世後期型の大規模な地上会戦を伴う戦争の集大成である。」との持論を述べました。 

 この「地上会戦」までは、砲兵と歩兵が戦場の主役でした。その後、第一次世界大戦で戦場に航空機と戦車が登場してから戦争の様相は一変します。航空機と戦車・装甲車が本格的に投入された第二次世界大戦で、戦場はますます広域化し、立体化します。これら新たな戦場の主役たちは、その損耗も激しく、各参戦国は国をあげてこれらの開発と生産にあたることになります。この航空機や戦車の「生産力」の優劣が、戦場での勝敗、さらには戦争そのものの勝敗を大きく左右し始めたことから、世界は国家総動員体制とならざるを得ない時代に突入しました。 

 しかし、この物理的な国家総動員戦も核ミサイルの現出と、その均衡の上に成り立った冷戦、そしてベトナム戦争に見られたゲリラ戦、思想戦などにより徐々にその形を変えていくことになります。今や、衛星や高精度レーダーで敵の位置を正確に捉え、精密誘導兵器がその目標(ターゲット)に百発百中する時代となり、一方ではサイバー攻撃で敵国の中枢機能を瞬時に麻痺させることも可能になりました。さらには、政治戦、外交戦、経済戦、法律戦なども複合的に行われる「超限戦」の時代です。これを石原莞爾が「戦争史大観」で述べていた「4次元の世界」で戦う時代ということもできるかもしれません。そして、この戦いにおける勝敗の秘訣は「敵に心を奪われないこと」です。 

 さて、話は変わりますが、対談した江川達也氏が今年出版された漫画本に「〜織田信長物語〜桶狭間合戦の真実」(リイド社)があります。奇襲か?急襲か?未だに戦国史上の謎に包まれた桶狭間合戦ですが、江川氏は、戦国期の武将・太田牛一によって記された織田信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』の首巻「今川義元討死の事」の合戦部分を、原文に忠実に漫画で再現しました。もちろん、江川氏は自ら現地を踏破して地形的にも間違いないとの確信を持たれたそうです。 

 雨を突いて山中から回り込み、奇襲的に義元を討ったというこれまでの通説を覆し、深田の一本道に今川の大軍を誘い込んで、先端でぶつかり合う将兵たちの奮戦力闘で一本道の今川軍を押し返し、さらに圧倒してパニック状態に追い込み、果敢な追撃の果てに義元を討ち取った。江川氏は漫画という手法を用いて、この信長の天才的な戦術・戦法を見事なまでに解説しています。そして、実際に信長の家臣としてこの戦いに従軍した人物が書き残した唯一の書『信長公記』にこそ、桶狭間合戦の「真実」が記されており、それ以外の書物を読んでもしょうがないとさえ言い切っています。 

 兵法を学ぶ上で大変ためになる、お勧めの一冊です。 

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、敵と戦闘を交えたときの心得、同時に複数の敵にあたる際の鉄則などについて解説いたします。 

(平成23年10月4日記す) 

 ▼遠を制するは近よりすべし 

 先づ脚下の蛇を断ち、而して重ねて山中の虎を制すべし。(闘戦経 第三十七章) 

 己れの身に近い脚下に小さいながらも毒を有する蛇がおり、それよりは遠い山中には大敵たる虎がいる場合、蛇と虎もいずれも処断すべき敵であるが、ここではその前後の優先順位、すなわち「遠を制するは近よりすべきこと」を明らかにしている。 

 同時に複数の脅威に対処するときには、「最も危険な敵」、あるいは「斃すのが容易な敵」を優先して斃していくことが鉄則である。したがってこの場合、脚下で咬みつこうとする蛇の脅威を先ず断ち切った後に、山中の大敵である虎を制すべきなのである。 

 蛇の脅威は急迫しており、これに対して山中の虎には多少なりとも対応に時間的な余裕がある。この時点で「最も危険な敵」は蛇である。一方で虎に比べて蛇ははるかに小さく、一撃で潰してしまうのも不可能ではない。「斃すのが容易な敵」である。したがって、迷うことなく蛇を一撃で倒し、その脅威を先ず断ち切っておかねばならない。 

 しかしながら、脚下の蛇よりもっと大きな敵が我が身の近くにある。それは内心にわだかまる恐怖心である。この内心の敵である恐怖心に打ち剋つことが何よりも先決である。恐怖心に駆られて心身が硬直すれば、小さな蛇といえども一撃で斃すことはできず、逆に足を咬まれることになる。たとえ咬まれることはなくとも、蛇を斃すのに多くの時間をかけてしまうと、闘って疲弊しているところに大敵である虎が現れるという最大の危機的状況に陥ることにもなりかねない。したがって恐怖心を払拭して闘うことを恐れず、蛇に劣らぬ一心と一気で速やかに決着をつけなければならない。 

 虎のような大きな脅威でも、我が身から離れている間はあわてる必要はない。時間の余裕を得て充分に準備し、その弱点を解明し、安全確実にこれに迫って最終的に斃すことができれはよい。先ずは身近な脅威を取り除き、重ねて外方、遠方のより大きな脅威に対処するのが正しい順序である。この際の「重ねて」という意味は特に重要である。 

 当面の小敵を倒して一難を除いても、それに安心して気を緩めることなく、重ねて進み、主敵を斃してその大患を截断しなければならないのである。 

 これらを国として捉えれば、却下の蛇は佞奸邪曲の内臣であり、山中の虎は外敵を意味する。外から迫り来る敵を制するには、先ず邪臣を倒して内なる禍患害悪を断ち、しかる後、重ねてその他の脅威を排除すべきである。こうして国家が安穏に治まるようにさせるものこそが、『武』の務めである。 

 ▼戦場には仁義も常理も無い 

 鼓頭に仁義無く、刃先に常理無し。(闘戦経 第三十九章) 

 進軍の太鼓が打ち鳴らされ合戦が繰り広げられる最中にあっては、敵に対する仁義などは無い。 

 仁義は人の踏み行なうべき道徳の基本であり、武人の道をなす重要な徳ではあるが、戦においてはこの仁義さえあれば万事にかなうというわけにはいかない。ひとたび戦が始まり、雌雄を決しようと互いに激しく攻め合う段階にあっては、斃すか斃されるか、殺すか殺されるかという厳しいせめぎ合いであり、敵に対して仁義をもってその困っているところや弱点につけこむことを遠慮したり、逆に相手からの仁義を期待したりするような態度は、敗北を喫することにつながる。仁義を守って戦いに負けることがあって は本末転倒である。 

 戦場では進軍太鼓を聞くや一挙に敵の機先を制して圧倒し、快勝を博すべきであるが、戦いが終わった後には敵兵に対しても博愛の精神を持って接し、敵愾心から来る捕虜虐待などの報復行動は厳に戒めなければならない。 

 お互いに刃を交えているような戦闘の最中に常理などは存在しない。 

 常理とは、常に通用する道理や理論、理法のことである。刀法においても一定の理法があり、これに基づく攻防の準則や形がある。人は平素の鍛錬を重ねてこれらを身につけるが、いざ戦に臨み、死生を賭して切尖を合わせるに及ぶと、敵は日頃の練習相手のようには動かず、我が意表に出て千変万化の技を仕掛けてくるものである。こうした状況においても平素の理法を固守するだけで、それを応用したり、自ら創意工夫したりし得ない者は、仁義なく常理なき実戦場において敗者となる。 

 既に戦いが始まれば、敵に因り自ら変化して奇正の陣法も無く、変化自在の勢いに従うべきものである。つまり、戦いの本質は偶然性にあり、戦いは意外性の連続である。それ故に、戦場は流動的で、地形や敵・我の戦術・戦法によりきわめて多様な状況を呈する。一方で、人間の知性というものは流動的なもの、不安定なもの、多様なものを避け、普遍的なもの、固定的なものを求めようとするため、平時においてはこうした戦場の実相を軽視し、簡単に行動方針を決定してくれるドクトリン(教義)を確立しようと努める風潮を生み出す。しかし、本来の戦い方に普遍的なものなど存在せず、作戦や戦闘の偶然性を無視・軽視した固定的、教条的な理論は、戦場では一切価値が無く、有害ですらある。知性や理性的なものは戦場では弱く、人間の中に潜む野性的、本能的なものが戦いに勝つ根源である。「理論は戦場にまで携行すべきでない」(クラウゼウィッツ)のである。 

 孫子が「水に常形無く兵に常勢無し」と説くように、戦場においては理外の理こそが常理であり、変の変こそが常形である。機に臨み、変に応じて唯一心を主とすべし。 

 ▼兵の根本は剛に在り 

 体を得て用を得る者は成り、用を得て体を得る者は変ず。剛を先にして兵を学ぶ者は勝主となり、兵を学んで剛に志す者は敗将となる。(闘戦経 第四十章) 

 先ず本体がしっかりと具わってからそれを活用すれば成功するが、活用方法を考え出してから本体を形作ろうとすれば、その成否は時々で変わる。 

 体は本性、本質、本体のことであり、用は適用、運用、活用といった体の顕現である。常に体が本であり、用は末であるとともに、体は幹であり、用は枝葉である。したがって、まず本体を強大にしてから、その良好な活用を図ることが肝要である。本体が不十分なまま、適用、運用に技巧をこらし、幸いに成果を得ることがあっても、それは一時の僥倖(偶然に訪れた幸運)に過ぎず、その次には異なる結果が出ることになり、常続的な成果は期待できない。すなわち、根本があって後に枝葉が備わるものは順にして成就するが、枝葉から根本に至るものは逆にして成就しないのである。 

 兵の道においても、その本質が剛毅であって兵法を学ぶ者は勝利をもたらす将軍となるが、兵法を学んでから剛毅な人物になろうと志す者は敗軍の将となる。すなわち、将の本体は剛であり、この剛なくしては軍を指揮することが出来ない。 

 剛は幹、兵(兵術)は枝葉である。先ず自らの心身を鍛えて剛毅な精神を涵養し、重ねて実用に役立つ知識と技能を身につけなければならないのであり、その逆はありえない。 

 天性による剛毅であって鋭気に満ち、迅速で正しい状況判断ができ、しかもその部隊指揮が巧妙である者はいかなる作戦を企てても全て成功するのは当然である。 

 このような天賦のいくさ名人ではないが、たとえ凡夫であっても志が篤く、常に自己の向上に努めて心胆を錬り、誠の道に励み、鍛錬を怠らなければ、次第にその本体が磨き上げられてくる。こうして体を得た者はさらにその用を得るための精神努力を重ねなければならない。苦難の道に志を鍛える者だけが自らの力で剛毅な本性を確立し、戦に役立つ生きた兵法を修得できるのである。 

 凡夫であり、しかも生まれつき怯懦な者は、厳しい心身の鍛錬を避けて自ら精神を培うこともせず、技巧のみを習い覚え、末節を記憶することによって兵法を学んだとしても、徒らに空理空論をもてあそぶだけで戦の本質は何一つ理解できていない。このような口舌の徒が軍隊で高い地位にすえられても、実戦場ではものの役に立たず、その任務を果たすことが出来ないのみならず、負け戦により多くの兵の命を奪うこととなる。 

 兵の根本は剛に在ることを深く銘記すべきである。 

 ▼勢いと力 

 龍の大虚に騰るものは勢なり。鯉の龍門に登るものは力なり。(闘戦経 第四十二章) 

 竜が高い天空に騰る(あがる)のは風雲の勢いによる。想像上の動物である竜は、自由自在に大空を翔けまわりながら風を呼び、雲を起こし、雨を降らせ、稲妻を放つ。未だ天に昇っておらず、水中深く潜んでいる竜を蟠竜(ばんりゅう)という。蟠竜は幾百年も静かに深淵に潜んでいるが、時が至り、機が満つればその機を捉え、天の勢いに乗じて一気に天空に騰がっていく。この時、風雲が俄かに起こって竜を迎えるのである。 

 しかしながら、このような天機は幾百年に一度あるかないかであり、頻繁に訪れるものではない。長い時間をかけて実力を蓄え、体勢を整えている者のみが、隠忍自重して気長にこの機を待つことができる。これを間と機の関係という。好機に乗じた勢いは迅速な飛躍をもたらすが、間と機の関係を誤れば失敗を伴う。 

 鯉が龍門に登るのは己れの力によるのである。龍門とは黄河上流にある三段の滝であり、この滝を登った鯉は竜になると言われる。このため、数多くの鯉がこの滝の下に集まり、これを飛び越えようと挑戦するが、簡単に超えられるものではない。自分の力のみを恃んで激流に逆らい、傷だらけになり、幾度も危険な目にあって、ほとんどの鯉が断念して去っていく。そのような中で渾身の勇気を揮い、幾度失敗しても最後まであきらめない鯉だけが、遂にその目的を達するのである。これは、天運でも勢いでもなく、 自力による不断の努力の結果である。 

 龍門の滝を登った鯉が依然として鯉であり、夢想した竜にはなり得なかったとしても、断念して去っていった鯉たちとは比較にならない優れた実力、特に精神力と体力を身につけたのである。このように力とは自分で一歩一歩踏みしめて高めるものであり、勢いのような迅速な飛躍は無いが、堅実であり、いかなる環境にも左右されないもので ある。 

 戦においては、敵に対して主として力で勝つか、主として勢いで勝つかを当時の状況から適切に使い分けることが重要であるが、いずれにせよ軍隊が常に戦に勝つためには、たゆまぬ努力により蓄えた実力の上に、好機に乗じた勢いがなければならない。

2007/5/26