箭の弦を離るるものは衆を討つの善か
▽ごあいさつに代えて 〜最初に闘戦経を学んだ人物・源義家〜 

 日本兵法研究会の家村です。「闘戦経」は大江匡房(おおえのまさふさ)が著した日本最古の兵法書ですが、これを最初に学んだ人物が源義家(八幡太郎義家)です。この源義家は、文武両道の武将として古くから尊敬されてきました。 

 前九年の役(1051〜62年)では、朝廷に叛旗をひるがえした陸奥の安倍頼時、貞任(さだとう)父子が率いる安倍一族の軍が、現在の岩手県南部の北上川に沿って、延々80 キロにわたる縦深に10個の柵(防御陣地)を築いて守っていました。これを攻略しようとした鎮守府将軍・源頼義は、10年にもわたり悪戦苦闘しましたが、攻め落とすこ とができませんでした。頼義の息子である源義家は、少年のころからこの戦に参加していましたが、この難局を打開するために父・頼義の命を受けて京都の大江家から兵法を 学ぶことになりました。 

 代々朝廷の書物を管理していた大江家では、唐から入ってきた「六韜」「三略」や「孫子」「呉子」といったシナの兵法書を管理していましたが、これらの兵書を「人の耳目を惑わすもの」として秘して伝えず、閲覧も大江家に限定し、門外不出としていました。しかし、義家はあきらめることなく、大江家からの兵法伝授を後冷泉天皇に歎願し、これを受けた大江家三十五代の匡房は、やむをえず「孫子」及び「軍勝図」を義家に伝えました。 

 当時の日本で「孫子」その他の兵書に最も精通していた匡房は、「兵は詭道なり」とするシナ兵書が和の精神を基調とする日本の国柄に合致せず、やがてはこれらの兵書を 生み出した古代シナの春秋戦国時代のような群雄割拠、戦乱の巷をもたらしかねないことを危惧し、「孫子」を義家に伝授するにあたっては、古来から日本人が大切にしてき た戦い方や、戦における心構えなどを簡潔にまとめ、これも併せて伝授しました。これが今、皆様に紹介している「闘戦経」なのです。 

 この時、教える側の匡房も、教わる側の義家も、ともにまだ数えで21〜22歳の若者でした。 

 兵法を伝授された義家は戦地に復帰し、孫子の兵法の特徴である「火攻」や「囲む師は欠く(完全包囲をせず、逃げ道を与えて敵を心理的に動揺させる)」といった戦術・ 戦法を用いて戦うことにより、難攻不落と思われていた安倍軍の縦深陣地帯をわずか11日間で一挙に突破し、大勝利を収めました。 

 この戦いにおいて、義家は第四線陣地である衣川の柵で安倍貞任(さだとう)の軍勢を破りました。この時、義家は逃げる貞任を追って50m程まで追いつき、弓で矢を射 かける際に、「衣のたては ほころびにけり」と和歌の下の句で呼びかけました。「衣のたて」とは衣川の柵のことで、「この衣川の防御陣地はすでに破られたぞ。」という 意味でした。 

 安倍貞任は逃げながら、後ろを向いてすかさず「年を経し 糸の乱れの苦しさに」と義家の下の句に応じて上の句を返しました。これは、「11年の長きにわたる戦い(前 九年の役を指す)で疲れ果て、将兵の足並みも乱れてしまった挙句に」といったような意味でしたが、これに感心した義家は、貞任を射ち殺すことなくことなく逃がしました。このように、源義家という人は、非常に思いやりのある武人でした。 

 前九年の役は厨(くりや)川の柵が攻略されて、貞任が戦死し、安倍軍が降伏して終りました。貞任の弟である宗任(むねとう)は捕虜になりましたが、義家は自分より十歳近く年上の宗任を生かして京都につれて帰りました。これは、東北の鎮定は前九年の役だけでは治まらない。必ずどこかで再び戦いが起こるであろうと考えてのことでした。 

 京都に帰った義家は、宗任を常に自分の居室で生活させ、寝室の近くで寝かせたので、源氏の武将達は宗任が夜中に義家を暗殺するのではないかと心配しました。多くの人が宗任を別室で監禁しておくべきだと忠告しましたが、義家はこれを聞き入れず、絶えず信頼をもって宗任を遇しました。このため、安倍宗任は源義家に非常な恩義を感じることになりました。 

 その後、宗任は四国の伊予国に流され、次いで九州の筑前国宗像郡の筑前大島に流されましたが、そこで日朝・日宋貿易に重要な役割を果たすとともに、大島の景勝の地に 自らの守り本尊を安置するために寺院を建て、77歳で亡くなりました。 

 京都における義家の宗任に対する処遇を通じて、東北地方の人びとに「源氏は捕虜になった人びとを愛護する」という話が広まりました。前九年の役が終ってから約20年 を経て、後三年の役が起きましたが、義家は全力をもってこれを戦い、清原武衡(たけひら)・家衡の乱を比較的短期間に征伐するとともに、今の秋田・青森地区を早々と服 従させました。これらは全て、義家が安倍宗任を大変大事に扱ったことが東北地方に伝わっており、朝廷は捕虜に対して残忍なことはしない、ということがわかっていたから でした。 

 このように、日本で最初に「孫子」と「闘戦経」を学んだ源義家という人は、単に武勇だけの武人ではなく、文の道にもたしなみがあり、思いやりも深く、戦術・戦法に秀 でていた上で、さらに戦略レベルの大きな考えを持った武人だったのです。 

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、小部隊が大部隊に勝つ秘訣、指揮官の統率の重要性などについて解説いたします。 

(平成23年10月12日記す) 

 ▼速やかに敵の恃む所を討つ 

 単兵にて急に擒(とりこ)にする者は、毒尾を討つなり。(闘戦経 第四十三章) 

 単兵とは主力部隊から離れて行動する小さな部隊のことである。単兵をもって敵から戦う意思を奪い、敵兵を捕虜にするには、毒のある尾のように脅威が大きく、かつ比較 的攻め易い部位を一挙に討つことである。 

 蜴(とかげ)や蜂、蝮などが持つ毒は激しいが、それらの尾や針や牙そのものは小さく脆いものであるから、先ず最初にこれらの害毒の根元をとり除けば後は恐れるに足ら ない。又、火事は小火のうちに消火すれば大火に至らず、雑草も芽のうちに摘み取れば大きな力で引き抜く必要がないように、どんなことでも先手をもって未発を討ち、事が 大きくなる前に処理し、状況が固定化する前に処断すれば、労少なくして成果を得られる。これらと同様に、戦においてもその初動で敵の勢いを制し、最も脅威となるものを 潰してしまえば敵は無力化される。 

 単兵を持って敵の大兵を倒す秘訣は二つある。その第一は、「急襲」である。敵が我と決戦する企図を有しながらも、その備えが未完で、勢いが弱ければ、我から先に攻撃 してこれを倒すべきである。また広域にわたって分散している敵に対しては、その戦力が合一する前に攻撃して迅速に各個撃破すべきである。この場合、敵部隊の一部を捕獲 しただけで油断すると残りの敵にやられてしまうので、敵全体を完全に制圧するまで反復して攻撃を継続しなければならない。 

 第二には、「情報」である。万難を排し、敵にとって重要な時期と場所を明らかにすることである。敵の司令部、製造・貯蔵施設、重要港湾、航空基地、補給幹線等は、人 体における心臓、大脳や動脈血管のように重要な機能、即ち敵の急所であり、これらを優先して叩くべきである。又、渡河中や上陸中の部隊、空から降下中の空挺部隊等は、 すぐに戦力発揮できないという弱点を有している。これらを完了した強大な敵と戦って我が戦力を消耗するよりは、明智を以てこの弱点となる時期と場所を解明し、一挙に叩(たた)く方が良策である。 

 このため、あらゆる敵の動向を推察し、情報の耳目を展開して兆候を察知し、その急所・弱点がいつ、どこに在るかを知りつくす必要がある。 

 いずれにせよ、我が行動を覚らせず、神速果敢に攻撃して、敵に対応のいとまを与えないように、平素からの弛まざる訓練により十分な実力を養っておくことが極めて重要 である。 

 ▼寡兵を以て大敵を討つ 

 箭の弦を離るるものは、衆を討つの善か。(闘戦経 第四十四章) 

 矢が烈しい勢いを以て弦を離れるのは、寡兵を以て大敵を討つべき術そのものである。矢が玄を離れてしまえば、的に中(あた)るか中らないかを論じても意味が無い。矢が的に中るか中らないかは、矢を射ち放つ以前の結節において決まる。 

 弓を引き絞る時、射主(弓を射る者)は全身が英気に満ち、その英気が弓矢に移り、心と矢が一体の境地に至る。この状態を「心弦一致の焦点」という。寡兵を以て大敵を 討つ場合にも、弓を引き絞るように、将兵の気力が全軍に充実していなければならない。 

 矢が弦を離れることを「離弦」という。狙って射るのでも、力で射るのでもない。技巧で射るのではない。それは心と矢が一つに帰する真鋭の機が満ち、射主の命じるとこ ろに従って矢が自ら的に向かって弦を離れてゆくのである。この射主の命令を弦が受ける瞬間を「離弦の刹那」と云い、真鋭が最高潮に達する究極最高の境地である。大敵を 討つ寡兵が攻撃を発起する瞬間が、この「離弦の刹那」に該当する。 

 寡兵を以て大敵を討つ時は、攻撃発起以前によく敵情を知り、作戦上の要点を抑え、任務を徹底しておくのみならず、「心弦一致の焦点」の如く主将は全身が英気に満ち、 その英気が兵たちに移り、全軍一心同体の境地に至っていなければならない。 

 次いで攻撃発起の瞬間は「離弦の刹那」であり、まさに矢が弦から放たれる瞬間のように真鋭の機が満ち、全将兵に燃えるような鋭気が漲っていなければならない。 

 一たび攻撃発起すれば、一切の疑念もなく、あたかも矢が弦を離れた時のように鋭く突進し、一心不乱に敵と戦うのみである。 

 ▼勝敗は神気の張弛による 

 人、神気を張れば則ち勝ち、鬼、神気を張れば則ち恐る。(闘戦経 第四十七章) 

 戦いの勝敗は、双方が兵力均衡し、あらゆる条件もほぼ同等の時には、神気の張弛によって決まる。神気とは、精神、魂や内心の勢い、さらには不思議な霊気のことである。 

 古今東西の戦史を見ても、同等の兵力や地形条件でも勝者があり、敗者があるのは、ほとんどの場合、神気が張っているか、弛んでいるかの違いによるのである。したがっ て、軍というものは、戦に臨んでは、必ずや神気が張っていなければならない。 

 軍の神気の張弛は、指揮官の統率に左右されるといっても過言ではない。孫子は将たる者に必要な資質として、「智・信・仁・勇・厳」、すなわち智恵、信頼、仁愛、勇気、厳格さを説いているが、これは有能な統率者の条件である。これらを兼ね備えた指揮官が闘魂を奮い立たせれば、全軍に神気が張って将兵の意気も高まり、全軍一丸となって勇猛果敢に進撃して戦いに勝つ。 

 このように、軍の神気が張ればその戦力が遺憾なく発揮され、その威勢が最高潮に達すれば、いかなるものをも恐れなくなる。一方で、信頼と厳格さを欠く指揮官の場合に は、平素から精神が鍛錬されていないため、戦に臨んで全軍の神気が弛みがちである。 

 鬼は姿形は見えないが、神気を張ることにより、人は皆これに恐怖を感じる。しかしながら、仁愛に欠けて厳しさだけが突出した、鬼のような心の指揮官が闘魂を奮い立た せても、全軍に異様な霊気を漂わせて人々を恐れさせるだけである。この時、恐怖と緊張から将兵の精神は張り詰めるが、そこには闘志も団結心も湧いてこないので、戦には 勝てない。このように威圧と恐怖だけに頼る統率は、平時には成り立っても、戦場では一挙に瓦解するものである。 

 このように、軍の勝敗は、気が張っているか、気が挫けているかの違いによるのであり、それはひとえに指揮官の統率の優劣に負うのである。 

 ▼攻守自然の理あり 

 水に生くる者は甲有り鱗有り。守る者は固きを以てす。山に生くる者は角有り牙有り。戦う者は利きを以てす。(闘戦経 第四十八章) 

 水の中に生きている生物には甲羅や鱗がある。すなわち亀や貝は固い甲羅や貝殻によって軟かい身を覆い、魚は隙間の無い鱗で体を包むことにより、外からの攻撃を防いで身の安全をはかっている。このように外敵を攻める力を持たずに守るだけの生物は、堅固なもので身の安全を確保するしかない。 

 戦においても、専ら防御に徹する側は、敵の攻撃による損害を回避するために地形を活用して工事を施し、堅固な陣地を構築して防護力を増大することに努力を傾注するの で、攻撃力を盛んにすることは難しい。 

 山の中に棲んでいる動物には角や牙がある。すなわち比較的温厚な牛や鹿にも硬くて大きな角があり、これにより敵を威嚇して危険を遠ざける。さらに獰猛な虎やライオン には利い牙や爪があり、進んで敵を攻撃して、我が身を護る。このように常に外敵と戦う動物は、鋭利な武器で他の動物を攻めることにより生存を維持する。 

 戦においても、攻撃力をいかんなく発揮するには、機動を重視してできるだけ軽装とし、身の危険を顧みず、武器の威力を敵の弱点に集中して発揮するので、防護について はある程度犠牲にしなければならない。 

 潜るものには甲羅や鱗があり、走るものには角や牙があるのは、自然の中で物に侵されるものと侵すものとの違いである。この自然の理に則れば、守るには堅陣を以てし、 攻めるには利剣を以てすることが解る。 

 最も万全な方策は、堅固な防壁を以て外敵から守りつつも、鋭利な武器による攻撃力をしっかり持っておくことである。堅い陣地で防御するような備えだけでは、敵の攻撃 を幾度か破砕できたとしても、最後まで守り抜くことは難しい。一時的にその目的を達成して自らの生存を維持できても、敵もまた残存して攻撃を繰り返したり、新たな作戦 を立てて行動したりするため、我が身に対する脅威は永久に取り除かれない。 

 戦に勝つためには、防御に徹するのではなく、敵を攻め滅ぼすまで積極果敢に進撃し続けることにより禍根を完全に除去しなければならない。このため、平時においても、 敵を斃(たお)すのに十分な攻撃力を持つことを主眼として、用兵、練兵、そして造兵に万全を期さねばならないのである。

2007/5/26