兵の本は禍患を杜ぐにあり
▽ごあいさつに代えて 〜闘戦経の根底にある思想〜 

 日本兵法研究会の家村です。8月末から続けてきた各章の説明は今回で最終回となります。次回から2回にわけて、孫子と闘戦経を表裏で骨と化すまで学び、その教えを実戦場裏で遺憾なく発揮してきた「兵法の天才」、大楠公こと楠木正成について解説いたします。 

 さて、これまでの解説を読まれた方から、闘戦経とは兵法書なのでしょうか?むしろ人生哲学の書では・・・といったご意見も伺っております。もちろん、この書を兵法書として読もうと、人生哲学の書としようと、ビジネスに生かそうと、それは読書の皆様次第です。大事なのは、この闘戦経にこそ、「日本とは、日本人とは何か?」という問いに対するはっきりした答えが濃縮されているということです。先人が遺してくれたこの貴重な教えの数々を日々の生活や仕事で実践していこうと務めることにより、グローバル化の波に揉まれて混沌とした現代の日本に生きる私たちも、真の「日本人」に立ち返ることができるような気がします。 

 初めの頃に、闘戦経の根本理念は「文武一元」であると述べましたが、さらにその根底には古来から日本人が抱いてきた「万有一元」の思想があります。これは、宇宙を一つの生命体と捉え、その中にある生命の根源は永久不滅であり、そして、あらゆる生命は、この根源から幾億・幾兆々・・・と無限に枝分かれし、いま現在、この限りある身体・物体に宿っているのだという考えです。 

 美しい山々と海、温暖な気候、そして四季折々の自然に恵まれたわが国土では、無数の生物が共生しながら一つになり、あるがままの生命共同体を形成してきました。そこに生きてきた私たちの祖先は、水、空気、土、太陽の四つが調和することにより自分達が生かされていることを悟るとともに、あらゆる生命は、永遠の循環を繰り返していること、つまり、永久不滅の根源に発している全ての生命は、循環して終わりがないということを直感していたのです。(これを「循環無端の哲理」といいます。) 

 例えば、伊勢神宮では、今から約1300年前、持統天皇の御代に式年遷宮が制度化されてから、二十年に一度、御社殿を造り替え、御装束や御神宝も新しくするという儀式を今日までずっと継承してきました。この式年遷宮が始められた当時、法隆寺や四天王寺などのような永久建築様式がすでに大陸から伝わっていましたが、先人たちはこれを用いずに、掘立柱に萱の屋根という素木を活かした社殿の壮厳さを保ち、それによって御神威の若返りを願ったのでした。 

   日本は木の文化であり、日本人は木を愛する民族です。木は一度切り出しても、人が植林すればまた次の木が育ちます。人もまた生き、やがて死んでいっても、次なる新たな生命に次の世を託していくという意味では全く同じ「生命の循環」の中にあるということ、そして木も人も、春夏秋冬、酷暑寒風に耐えて年輪を重ねながら強くたくましく生きていかねばならない、ということさえも日本人は大昔からわかっていました。 

 また、古来から日本人の社会生活の中心には、水田稲作がありました。稲は連作ができる唯一の栽培植物であり、水田耕作により、同じ場所で畑作の穀物とは比較にならないほどの高い収穫率で作物が得られ、しかも年々その収穫を増やしていくことができます。水が自然に栄養を運んでくる水田では、畑作のように連作を重ねるほど収穫が減る(土地が枯れる)ということが無いため、土地の争奪も起こらず、互いに平和のうちに集団的な協同作業が営まれてきました。 

 こうした万有一元・循環無端の哲理を識ることにより、日本人は自然に対する感謝の念と、他人に思いを致す優しい心(慈しみの心)が強い民族性を有しています。そして、これが日本人の道義心の中核を形成してきました。 

 一方で、海に囲まれた島国に住み、海に慣れ親しんできた日本人は、大陸性の専制支配体制や保守主義、伝統主義、階層社会といった閉鎖的・内向的なものとは無縁であり、むしろ海洋性の民主主義、平等意識といった開放的・外向的なものに親しんできました。清潔で、正直で、明るく、変化を好み、好奇心が旺盛な日本人の特性については、江戸時代中期から明治にかけて日本を訪れた多くのヨーロッパ人が、その紀行文の中で異口同音に述べています。例えば「庶民は豊かではないが、こざっぱりとした身なりで表情が明るい」「自然科学の話をすると目を輝かして聞き入る」といったようにです。 

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、軍隊の目的・役割、軍を用いる上で最も重視すべきことなどについて解説いたします。 

(平成23年10月18日記す) 

▼術は剛にあらずんば成らず 

石を擲ちて衆を撃つものは力なり。矢を放ちて羽を飲むものは術なり。術は却て力に勝るか。然りと雖も兵術は草鞋(わらじ)の如し。其の足健にして着すべし。豈に跛者の用うる所となさんや。(闘戦経 第四十九章) 

 投石により敵の大軍を撃つためには力がなくてはならない。人が投擲するにせよ、投石機を用いるにせよ、重い石を遠くへ飛ばすには、瞬時にある一点に力を集中する必要があり、緩慢な惰力では役に立たない。 

 岩に矢を放って羽の処まで刺し通すには優れた弓射の術が必要である。昔、漢の李広という弓射の名人が夜中に林の中を通ると草むらの中に虎が伏せているのを見つけたのでこれを射た。翌朝その場所に行ってみると、矢は岩に突き刺さっており、深く羽まで没していた。これは真鋭の神通力とでも言うべき人並みはずれた優れた術によるものであり、普通の人が力任せにやってみても、到底できるものではない。 

 このような優れた術は一朝一夕にしてできるものではなく、長い年月をかけて苦心し、研究錬磨してきた賜物である。こうしたことから、術は力に勝るということが解る。 

   しかし兵術とは元来、草鞋のようなものである。草鞋は強健な足に着用して始めて役に立つものである。なぜならば草鞋そのものが歩くのではなく、草鞋を履く者が歩くのであるから、足腰が弱く、歩行できない者には役に立たないのである。これと同様に、いかに勝れた兵術を学んでも、これを活用する人の心や魂が賢明ではなく、剛健でもなければ、その効果をあげることはできない。したがって、兵術を学ぶ者は単なる知識としてこれを学ぶのではなく、同時に健全な心と体を培わねばならない。 

 又、駿馬に乗って疾走する者にも草鞋などは必要がないように、兵術を用いなくても、それ以上のけた違いの威力により一挙に勝利を収める場合がある。騎馬軍団が天を突く勢いで平原を駈け抜け、敵を圧倒撃滅してしまう場合には、兵術を用いる余地が無い。現代戦においても通常兵器による戦いでは、中・長距離ミサイルや核兵器等による大量破壊戦には全く太刀打ちできない。無差別な大量破壊を伴うような戦いに兵術など無用だからである。 

 兵術は戦力を効果的に発揮するための方策を生み出す術であるから、戦力そのものが強くなければ意味をなさない。真鋭の軍隊の一撃は、兵術の良否にかかわらず凡俗の軍隊を一蹴する。先ず力を養い(造兵、練兵)次いで術(用兵)を磨いて運用の妙を感得し、戦に臨んでは力のみに頼らず、術のみに囚われず、猛烈な勢いで突き進むのである。 

 剛毅なければ術も行われず、剛ありて後に術行われるべしと説くものである。 

▼天道に違うべからず 

斗の背に向はせ、磁の子を指さしむるものは天道か。(闘戦経 第五十一章) 

 北斗七星は常に自らの背中の方向に向かい、規則正しく旋回している。その中心にある北極星は真北に位置して動くことがない。北斗七星のみならず、大宇宙に存在する幾億万の天体も又、北極星を中心にして整然として一秒たりとも止まることなく旋回し続けている。 

 磁石は風雪により振れることはあっても、朝暮、明闇、晴雨に拘らず必ず北の方角を指し、永久にその方向を誤ることがない。それゆえに人々は暗夜、大洋や大空を迷うことなく進むことができる。 

 このように不動の北極星を中心に星座が規則正しく旋回し、磁針が必ず北を指すという大宇宙の法則は、天地の初めより未来永劫まで変わることなく、いささかの錯誤もない天の道のなせる業である。 

 すべてこの世に生を享けた者はこの天の道に従い、いかなる困難に遭い、迷うことがあっても進むべき方向を誤らず、一刻たりとも一所に停滞することなく時勢に乗って進み、天命に応じて活らき、自ら努力して成長し続けなければならない。 

 軍隊が行動する場合においても、まず方針(作戦の目的及び一般方向)を確定する。作戦計画はその実行中に状況の変化により適時修正を加えることがあるが、その場合にも最初に決めた方針(特に作戦目的)は不動であり、修正はこの方針から逸脱しない範囲で行わなければならない。 

 兵法の主眼とするところも、その骨髄となる部分に至っては、天の道と何ら変るものではない。その不動の本心を得ることが最も重要なのである。 

▼用兵の本義 

兵の本は禍患を杜ぐにあり。(闘戦経 第五十二章) 

 兵(軍隊)の本来の役割は、国内における暴動や賊の割拠、国外からの敵軍の侵略等による災いや不幸を未然に防ぎ、あるいはこれを杜絶することにある。これ以外の目的で兵を用いてはならないのだが、歴史を見渡せば、事に望み、物に触れてこのことを忘れがちであるので、兵の根本は唯一「天下の禍患を防ぐ」にあることを常に顧みなければならないのである。 

 武と文を不離一体のものとする「闘戦経」の教えによれば、兵とは天地を創造し、あらゆる物事を修理固成し、人畜を生成し、国の礎を定め、民族を化育する『武』本来の使命を実現する手段である。この使命を完うするために、内憂外患の厄難と天変地異の災禍とを防ぐことが用兵の本義であり、その実行は兵の真鋭に拠るものである。 

 これに対し、武と文を全く異なるものと捉えるシナにおいては、兵は凶器を以て凶事を行なう不吉な殺人集団である。それゆえに徳のある人は文人となり、武や兵には拘らないのを常とし、かの孔子も兵事についてはまったく無関心であった。こうした思想による大義名分無き兵は、権力の獲得・維持や領土的野心を満たす目的で用いられてきたため、常に暴威を振い、弱者を蹂躙し、他民族を圧迫搾取して利権を拡大し、私腹を肥やしてきた。兵書においても、兵を用いずして戦いの禍患をふさぐことを上乗と教えながら、その策は兵の真鋭によるものではなく、主として謀略等の詭譎に拠ってきた。 

 天地がもと一体であり、万有がもと一如であるという理法を弁えないシナの兵書で学んでも、文と武の二つが車輪や翼のように一体にして始めて有益であることも悟らず、その結果、天地自然の理法に反して必然的に衝突や摩擦が起こり、文武の一体一如を諭らぬ兵が徒らに争乱を起こし、安寧や秩序を乱して禍患は絶えなかった。 

 古代の日本においては、先ず兵の真鋭の威力により暴動を禁じ、まつろわぬ賊を討ち、外敵の侵寇があればこれを撃退した。こうして禍患を根本から除き去り、次いで仁義の政治が行われ、天地一体、万有一如の理法をもって民を教化し善導することにより禍患の再発を杜絶した。文と武を一体に兼ね備えた優れた指導者の存在がこれらを可能ならしめたのである。 

 古事記や日本書紀によれば、大和朝廷の基を築かれた初代の 神武天皇は、幼少より賢明で意志強固、しかも強運の持ち主であられた。又、戦争指導力と実行力があり、戦略的には目的意識が強く、戦術的には奇襲、挟撃、囮作戦等が得意であられた。同時に政治指導力にも優れ、民をこよなく愛され、そのお人柄は、剛毅にして智・信・仁・厳・勇の全てを兼ね備えられた比類なき統率者であられたとされている。 

▼用兵の神妙 

用兵の神妙は虚無に堕ちざるなり。(闘戦経 第五十三章) 

 用兵の極意神妙は虚無に堕落することではなく、実に努めることである。ここで言うところの虚無とは、仏教の説く寂滅為楽、老子の説く無為や、孫子の詭譎を指しているが、これにより剛毅の精神を失ったり、策に流れて実力を養うことを怠ることは厳に戒めなければならない。 

 この闘戦経の中でも「兵の道は能く戦うのみ」(第九章)、「軍なるものは、進止有りて奇正無し」(第十七章)と述べているように、我国における古来からの用兵は、実力をもってする正々堂々たる決戦である。兵は剛毅を本分として実力を磨き、常に備ありて変に応じ、実在するものに随い、敵を致して敵に致されることがなければ、自然の中に用兵の極地に達することができるのである。このように永遠に実在する兵の真鋭を清明正大に顕現する、これが我国の『武』における不朽実在の真理である。 

 こうした日本における『武』の理想は、肇国の昔から皇謨(こうぼ 天皇の国を治める計画)を仰ぐ大和民族として 天皇自ら軍を率いた戦いと統治の体験を経て、神の御代から仕えてきた大伴氏や物部氏らにより顕現され、具現されてきた。しかしながら、大和朝末期から奈良朝にかけて仏教及び儒教のような外来思想が流入してその影響を受け、平安初期には文武の制度を全て唐に模倣したことから軍制も大きく変ることになった。さらに平安朝末期に土地を領した地方の豪族が荘園を私有し、そこから私兵集団とも言うべき武士階級が生まれる頃には、すでに浸透していた儒教や仏教を下地として孫子や呉子といった古代シナの兵法が急速に広まり、我が国の純然たる兵の道は変曲を余儀なくされた。 

兵馬の権を武士階級が独占し、次いで政治の大権も朝廷から幕府に移った鎌倉武士以降、戦国時代を経て江戸時代まで、孫子の兵法は武士階級の基本的な教養として、哲理のみならず、用兵、兵器、武技等あらゆる面で強い影響を与え続けてきた。 

 孫子によれば、戦いとは敵を欺く駆け引きである。近くを遠くに、遠くを近くに見せかけ、利益を見せて誘い出し、混乱させ、武力で脅し、下手に出て驕らせ、謀略を用いて疲れさせる。敵の同盟国と親しくして、敵国と離間させ、敵の備えのない隙を攻め、敵の思いがけないことをする。これらを理想的な勝ち方としているが、小部隊同士であればいざ知らず、国家間であれば群雄割拠、戦乱の巷となるのを免れない。つまり孫子とは戦国の世における覇者のための兵法なのである。一方で老子は、無為の益は天下之に及ぶものなしと説いているが、これは戦乱の世における文人の処世術に過ぎない。 

   仏教の影響を受けた武人には、その死生観として無念、無想、無我の境地に至り、「虚無にして応変自在なること明鏡の物を映し、止水に影ある如く」と説くものも有るが、明鏡が物を映すのはその中に実があるからであり、決して虚によるものではない。 

 我国の数多武将の中には、質実剛健の気質に欠けて悲運の末路を辿った者も多い。

2007/5/26