楠木正成と闘戦経 前編
▽ごあいさつに代えて 〜日本における兵法の発達〜 

 日本兵法研究会の家村です。前々回(第8回)の冒頭で、源義家が大江匡房から最初に孫子と闘戦経を学んだ経緯について述べました。義家の嫡流が鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが、この家系は実朝で途絶えてしまいます。 

 源平合戦では、源頼朝の異母弟である源義経が大活躍します。一の谷、屋島、壇ノ浦といった合戦で天才的な戦術・戦法を披瀝した義経は、鬼一法眼という人物から伝授された「虎の巻」により、その奥義を極めたのだと伝えられています。鬼一法眼(本名:今出川義円)は、京都の堀川において軍学と刀術を指南しており、京八流(又の名を堀川流)の元祖を自称していました。 

 鬼一法眼が義経に伝授した「虎の巻」とは、「六韜」「三略」あるいは「訓閲集一巻」と云われています。「六韜」「三略」は、大江家初期の祖である大江維時が930年頃に唐から持ち帰った兵法書ですが、維時はこれらの兵書を「人の耳目を惑わすもの」として秘して伝えず、別に唐からもたらした「兵家陰陽の書」を和訳し、後世に伝えました。これが「訓閲集」百二十巻です。したがって、「虎の巻」が「六韜」「三略」であれば、本来は大江匡房家伝として口伝していたものを、鬼一が故あって皆伝を受けたものと思われます。 

 当時はまだ、日本古来の独特の戦い方が残存していましたが、これが未だ兵学的な形体を整えていないのに先立ってシナからの伝法があり、これらを吸収し、咀嚼しながら実戦場裡において実用化し始めた時代でした。 

 次いで武家執政時代(封建時代)に入り、兵法は自然的に発達し、南北朝時代を経て、戦国時代に日本の兵法は最高峰を迎えます。この間、吉野朝時代においては楠木正成(楠公)こそが日本における兵法の第一人者でした。楠木正成は幼少にして河内の観心寺の中院に参じ、大江時親に就いて孫子と闘戦経を表裏で骨と化すまで学び、その教えを実戦場裏で遺憾なく発揮してきた「兵法の天才」です。この楠公の遺訓を後世に伝えるために著された兵書に「河陽兵庫之記」「楠正成一巻之書」「南木武経」等があります。 

 室町時代には、大内氏の大内流、赤松則村の円心流などがありましたが、これらは兵法としては見るに足らざるものでした。 

 応仁の乱を契機として「特種の足軽」即ち、不正規軍あるいは匪賊的雑軍が現出することになります。「足軽」の誕生は既に源平合戦の時代にあったと云われていますが、世に「足軽戦法」と侮蔑されているものは、この時代のいわゆる「即製足軽」で、その無統制は実に乱暴狼藉の限りを尽くし、惨憺たる状況を呈しました。即ち応仁の乱という長期にわたる戦乱に乗じて寺院であると民家であるとを論ぜず隙をうかがって放火略奪し、戦闘員であると非戦闘員であるとを問わず虚に乗じて暴行剥掠する等、言語に絶するもので、全く夜盗も同然の有様でした。 

 それゆえに初期の「足軽戦法」とは統制も何もない「無茶苦茶戦法」であり、これを見た一條兼良という人は「軍法は一体どこに行ってしまったのか」と憤慨し、嘆いていました。それでも、当時の細川家には、細川勝元が組織した「細川家四国軍制」という相当に整備された軍法があったとされています。こうした「即製足軽」を早急に統制の取れた「戦力」とするための新たな戦法の必要性は、鉄砲の伝来と相まって戦術・戦法に大変化を来たします。 

 戦国時代の出現で群雄割拠し、朝に夕に作戦や謀略に脳漿を搾り、肝膽を砕いてきた結果、名将や謀臣が雨後の筍の如く現れ、戦略・統帥は必然的に異常なまでに発達し、躍進を遂げました。関東の太田道灌、北條一家、甲越の両雄、織田、豊臣、徳川の三英将らが出現するに及び、日本独特の戦術、戦略は黄金時代を現出するに至ります。それ でも当時、何らの具体的な兵法書があったのではなく、ただ天から与えられた資質と百戦錬磨による貴重な体験をもって人心の機微を把握し、奇正百出、機に応じ変に処して、その宜しきを制したのでした。このことは、万巻の兵書を読破するよりも、体験がさらに偉大な価値があるということを証明しています。 

 関ヶ原合戦や大阪夏・冬の陣を経て、太平の世である徳川時代に至り、逐次戦国乱世の貴重な体験者が尽きてしまうようになると、その体験や遺法を祖述しようとして盛ん に兵法書が著されることになります。このようにして、日本の兵法は戦国時代の偉大な体験を踏まえた学問的な帥兵術として総合整理され、甲州流軍学、越後流軍学やその他 の諸流(道灌流、楠流、長沼流、山鹿流、荻生流など)が生まれました。 

(平成23年10月26日記す) 

▼41代・大江時親より兵法を伝授 

 右「闘戦経一部」は日本無双の書なり。・・・七書の内兵術の骨髄は「孫子」なり。漢朝千歳の手本となるは「孫子」なり。而してこの「闘戦経」は「孫子」と表裏す。 

「孫子」は詭道を説くも、「闘戦経」は真鋭を説く、これ日本の国風なり。これ和軍の道筋は格別に立つを知るべきなり。 

 これは、闘戦経を入れた箱に金文字で書かれていた文面である。「孫子」は優れた兵書であるが、必ずしも日本の歴史・文化や風土に根ざした国民性に合致したものではない。自然との一体感、正直、勤勉、誠実、勇気、協調と和、自己犠牲の精神などのような古来日本人が尊重してきた精神文化を損なう虞(おそれ)すらある。それゆえに、「孫子」を学ぶものは、同時に「闘戦経」を学ばなければならない。このように述べているのである。 

 大江家41代の大江時親は、金剛山麓に館を構えて土地の豪族に兵法を伝授した。この一族が、後に鎌倉幕府を倒して建武の中興を成し遂げる中核の戦力となり、さらには足利尊氏らの賊軍を相手に滅亡するまで戦い続けた楠公こと楠木正成(以下、楠公と記す)や、その子、正行(まさつら)らである。楠公は、38歳まではその準備の時代、修養の時代であり、この間に時親から「孫子」と「闘戦経」を伝授されている。正中の変において一時期は影で動いたとも云われているが、歴史の表舞台に現れることは無かった。 

 楠公が39歳になった1331年(元弘元年)の9月に笠置に召されてから、43歳の1336年(延元元年)5月25日に湊川で戦死するまでの5年の間に、それまで学んできた「孫子」と「闘戦経」の兵法に花が咲き、実を結び、ついに永く世に名を遺して護国の神となったのである。楠公の戦史こそが、南北朝動乱の歴史の主体になっている。38歳まで徹底して修業に励んだ甲斐があり、楠公のこの5年間の戦い振りには一つも「そつ」がない。 

 楠公の優れた兵法家としての実力は、周到な準備により難攻不落の千早城を築き、数々の奇抜な戦法を駆使して、五十倍の鎌倉幕府軍による攻城を七十余日もくい止めたことで有名である。この戦いは、楠公の優れた地形判断力と機略、統率力による完全勝利であった。しかしこれだけではなく、建武中興前後の動乱期を通じての楠公の判断・決心とその作戦・戦闘は全て、兵法の原理原則そのものであると言っても過言ではない。 

▼秀逸なる千早城の戦い 

 1331年(元弘元年)9月中旬、全国の諸豪族の勤皇心を喚起して笠置山で挙兵した後醍醐天皇をたすけるため、楠公は金剛山北麓の下赤坂城で兵を挙げた。籠城する楠木軍500は、鎌倉幕府軍2万を相手に抗戦したが、幕府軍の意外に早い進攻に城の準備、特に水の備蓄が間にあわず、10月21日に城を手放して金剛山麓に撤退した。わずか四日間の守城戦であった。 

 楠公は戦死を装って幕府軍を慢心させつつ、翌1332年暮までの約一年間という十分な時間をかけて地形を戦力化し、資材を準備し、糧秣・水を備蓄して、上赤坂と千早での本格的な築城を完成させた。この間、荷駄隊に扮した部隊を下赤坂城内に潜入させ、襲撃によりこの城も奪回した。そこで楠公は、1333年(元弘三年)1月中旬、自軍の士気高揚と本格的籠城戦に先立つ敵戦力の解明を目的として、約2千の兵を率いて堺付近に進出し、淀川の障害を利用して待ち受け、六波羅軍5千の撃破に成功した。これが我が国の戦史上最も優れた河川防御とされる渡辺橋の戦いである。 

 鎌倉幕府は堺付近に進出した楠木軍を討伐するため、六波羅軍を京都から堺へ進軍させた。敵指揮官が凡将であることを承知していた楠公は、六波羅軍が「川はできる限り敵と離れた所で渡れ」の原則どおりに枚方(ひらかた)、宇治から渡河するのではなく、必ずや最短経路の渡辺橋から渡河するものと判断し、300の小勢により敵を誘致して全軍を渡河させてから、橋を破壊して退路を遮断し、楠木軍主力で三方向から反撃した。六波羅軍はたちまち混乱に陥り、渡辺橋方向へと退いたが、楠木軍はこれを猛追撃し、六波羅軍を淀川南岸に圧迫して、せん滅した。 

 こうした楠木軍の抗戦により、「楠木いまだ生きて世にあり」と覚った鎌倉幕府は、同年2月に楠公の拠点を討つべく千早・赤坂に大軍勢を差し向けた。2月22日からの十日間で赤坂城を落とした幕府軍は、閏2月22日から兵力5万で千早城を包囲したが、楠木軍1千は各種戦法を駆使して5月8日まで城を堅守し、幕府軍を釘付けにした。これは、幕府軍の行動を全て予測して対応策を準備していた楠公の優れた戦術能力によるものであった。幕府軍7千による千早城総攻撃は、頂上からの落石群による大打撃を受けてとん挫した。次いで幕府軍は千早城北東の水源地を押さえて水攻めを図ったが、楠木軍の襲撃を受けて撃退され、逆に軍旗を取られてしまった。軍旗を奪回するための攻撃も、頂上から落下する丸太群により破砕された。このように、力攻めでは損害が増えるだけだと悟った幕府軍は、城を完全に包囲することにより、兵糧攻めに移ったが、これも楠木軍のわら人形などの奇策により翻弄(ほんろう)された。 

 北条氏から一刻も早い楠木軍打倒をせかされた幕府軍は、城の東側の堀に巨大な木橋を架けて城内に突入しようと試みたが、楠木軍が放った火により橋は焼け落ち、大損害を受けて失敗した。万策尽きた幕府軍は、山腹に坑道を掘って城内へ突入するが、楠木軍の必死の防戦でこれも阻止された。長引く戦いで威信を失墜した北条氏は、新田義貞、足利尊氏ら各地に蜂起した反幕勤皇の軍により5月7日に滅ぼされ、同時に千早城の包囲網は解かれた。 

▼楠公の戦策上奏と京都防衛作戦 

 鎌倉幕府滅亡により1334年(建武元年)建武の中興により天皇親政の世となるが、その実権は兵法を一切知らず、戦(いくさ)の采配もできない公卿(くぎょう)たちに握られてしまった。これに叛旗をひるがえした足利尊氏は、1335年(建武2年)12月に箱根竹下の戦いで新田軍を破り、さらに京都に向かい進撃してきた。楠公は、敗走する新田軍を救援するために東方に出撃することを進言したが、楠公が京都を離れることにより京の守りに不安を感じた公卿たちにより上奏を許されなかった。新田軍が尾張まで逃げてきた時に、再び楠公は義貞救援の出撃を上奏しようとするが、これも公卿により妨害されてしまった。新田軍がついに鈴鹿山地を越えて近江(おうみ)まで追い込まれ、義貞から直々に救援を要請してきた時点で、初めて公卿たちは楠公に出撃を願い出たが、千載一遇の戦機はすでに失われていた。 

 鈴鹿山地という天然の要害を生かして足利軍の進撃を阻止する、というのが楠公の作戦戦略上の判断であったが、軍事音痴の公卿たちにはこれが理解できなかったのである。楠公は、今出撃しては、むしろ京都が危ないとの判断からこれに賛成しなかったため、宇治、瀬田、淀・山崎方面、すなわち宇治川の線で京都を防御することになった。 

 翌1336年(建武3年)1月、約十万にまで膨れた軍勢を率いて京都に迫る足利尊氏の侵攻から京都を防衛するため、公卿たちは楠公と名和長年の軍勢を主将・新田義貞の統制下に入れ、官軍を編成した。これは兵法能力の優劣ではなく、単なる官位の上下による処置であった。義貞は、名和勢約2千を瀬田に、楠木勢約5千を宇治に、そして新田軍の脇屋勢約1万7千を淀・山崎方面に、宇治川に接して配置した。 

 河川の防御には、河川を障害物として直接陣地を設ける方法と渡辺橋の戦いのように主力を河川後方に置き、敵の半渡を反撃する方法があるが、こうした河川の直接防御は古来成功した例がないことから、楠公は別の作戦を進言したが容れられなかった。このため楠公は、宇治川の方々に瀬を作り、杭を打って渡渉を極めて困難にし、槍隊を横一列に配置して万全の防御態勢をとった。しかし、尊氏は「川はできる限り敵と離れた所で渡れ」の原則どおり、瀬田正面に約1万、宇治正面に約2万の兵力を充て、主力約7万で淀、山崎方面から大きく回りこんで京都へと侵攻してきた。 

 楠木勢は宇治正面で奮戦し、十余日にわたり足利方の賊軍を阻止したが、楠公の判断どおり脇屋勢が淀、山崎方面の大渡で足利軍に突破されて官軍の防御線は崩れ、さらに京都を占領された。これに対して楠公は、宇治から山科(やましな)谷地を経て琵琶湖畔の坂本に向かう退却行軍により、部隊を安全確実に坂本まで後退させた。この際、楠公は前衛、後衛を設けるとともに、山科谷地と京都の間にある山脈の諸山径に側衛部隊を配置して逐次に押さえ、側面と背面の安全を確保しつつ退却した。こうして楠公は、防御線は突破されても、じ後の作戦のために戦力を温存させたのであった。 

 1月25日、坂本に集結した官軍は、新たに到着した北畠顕家(あきいえ)の軍勢と合流して京都奪回作戦を開始、その第一が大津附近の戦であった。三井寺の下にある大津街道の入口付近の地形は、両方が山で、東は湖水に連接していた。賊軍は、細川定禅の軍勢を先頭に京都方向から大津まで進出してきた。北畠勢と新田勢は、互いに先を争いながら細川勢を攻撃しようとしたが、楠公は隘路口の左右にある山の戦術的価値を説き、官軍に南方の山と三井寺の台を取らせた。これに対し、細川定禅は大津の陣地を捨てて正面から突進して来たので、官軍はこれを両翼から包囲して大打撃を与えた。 

 細川勢は混乱して隘路を京都に向かい逃げたが、新田義貞は先頭に立ってこれを迫撃した。新田勢の猪突猛進を大いに危惧した楠公は、義貞に同行して隘路を通過し、粟田口まで進出した。そこへ足利尊氏の軍勢が細川勢の救援に駆け付け、隘路通過直後の官軍を敵が包囲的に攻撃するという、大津における戦と全く反対の形勢になった。尊氏は大軍を率いてきたが、その隊形は非常に混乱していたため、義貞はこれをチャンスと捉えて逆に足利勢を攻撃した。 

 楠公は「敵に一撃を与えたならば、京都に入ることなく引き上げるように」と釘をさしたにもかかわらず、足利勢を破った新田勢は、その勢いに乗じて京都に入ってしまった。元来、市街地というものは海綿が水を吸うように軍隊を吸収すると言われる。それゆえに、市街地内には大兵を入れるな、市街を障害物と考え、決戦はその外においてやれ、というのが戦術上の原則であるが、それを無視して市街中にばら撒かれた状態に陥った新田勢は、どの隊がどこにいるのかも分らなくなり、到るところで掠奪や飲酒などをやり始めた。ところが、尊氏は退却した兵を京都の西でまとめて逆撃して来たので、義貞は自分の身辺の兵のみを僅かにまとめ、身代わりを置いて命からがら逃げた。楠公は、やむなく自分の部下を出して義貞の兵を収容した。

2007/5/26