楠木正成と闘戦経 後編
▽ごあいさつに代えて 〜楠流兵法について〜 

 日本兵法研究会の家村です。前回と今回の2回にわけて兵法の天才・楠木正成(楠公)について解説しています。そして前回の冒頭あいさつ文では、この楠公の遺訓を後世に伝えるために著された兵書に「河陽兵庫之記」「楠正成一巻之書」「南木武経」等があることを紹介しました。これらの兵書を著した兵法の流派を「楠流」といい、この楠流兵法には、兵法学(軍学)として三つの系統があります。 

 室町幕府により「賊」とみなされ、著しく名誉を失墜していた楠公でしたが、戦国末期には「恩赦」され、武士たちの間で『太平記』(南北朝の戦いを描いた戦記物)が盛んに読まれるようになりました。同時に楠公の戦術・戦法の研究も盛んになり、ここに楠流兵法の萌芽が見られます。 

 桃山時代の日蓮宗本国寺(京都)の僧・陽翁は、諸国修行中に肥前唐津において名和長年の子孫である名和正三に会い、「太平記評判秘伝理尽抄」(以下「理尽抄」)を伝授されました。名和長年は、隠岐から脱出した後醍醐天皇を迎え、船上山での挙兵に協力した勤皇心の厚い武将でした。陽翁は、この「理尽抄」という兵法書を主軸とした兵法を興しました。この後、陽翁は加賀の金沢藩主三代・前田利常に仕え、自らの兵法を『陽翁伝楠流』と称して、金沢藩士の間に広めました。 

 『陽翁伝楠流』は、金沢藩に早くから楠公崇敬の精神を芽生えさせるとともに、周辺の富山藩や大聖寺藩にまで広まり、一時は岡山、小田原、下総関宿、常陸土浦の諸藩にまで伝流しました。しかし、延宝年間(1673〜1681)になって甲州流兵法が金沢藩における兵法学(軍学)の主流を占めるようになると、この最初の楠流兵法は影をひそめる ようになりました。 

 『陽翁伝楠流』の兵書は、「理尽抄」の他に「楠正成一巻之書」「楠公桜井書」など多々ありましたが、特に「理尽抄」は正保2(1645)年から版を重ねて流布され、兵法 の流派を超えて大いに普及しました。山鹿流兵法の祖・山鹿素行は、この「理尽抄」を最も愛読した人物であり、楠公の兵法は素行の兵法思想に多大な影響を与えました。 

 『陽翁伝楠流』とは別に、江戸において楠木不伝(楠木正辰)を中興の祖とする『南木流』兵法学が興りました。楠公の末裔を自称する正辰は、かつて上杉家に仕える侍でしたが流浪し、菊水の旗、正成相伝の短刀及び楠氏の系図を所持して江戸・牛込で細々と楠流兵法を教えていました。当時の江戸では、軍学といえば甲州流の小幡勘兵衛とその一派である北條流の北條氏長の二人が兵法の最高権威者とされており、軍学を学ぼうとする者は、この両者の門下に入らなければ兵法を論じる資格なしとさえ云われていました。したがって、楠木不伝正辰の名声は全く振るわず、日々の生活にも窮している状態でした。 

 駿府の紺屋の子・由比正雪は、17歳で江戸の親類の元に奉公に来ましたが、やがて志を抱いて楠木正辰の門人となりました。幼い頃より才気煥発で智略に富んだ正雪は、子弟の礼はもちろんのこと、衣食の資に至るまで厚く正辰を孝養しながら、『南木流』兵法学を熱心に学んで皆伝となります。この頃は三代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていましたが、関ヶ原以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、巷には多くの浪人があふれていました。 

 楠木正辰の『南木流』を継承した正雪は、優れた軍学者として名を馳せ、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来ました。しかし、正雪はこれに応じず、神田連雀町に張孔堂という軍学塾を開いて多数の塾生を集め、楠流兵法の普及に努めました。その門人は、御三家の一つである紀伊藩主・徳川頼宣や備前岡山の名主・池田光政等の大名旗本を始めとし3千人に及んだといわれています。 

 こうした正雪の生き様は浪人たちの共感を呼び、張孔堂には幕府の政策に批判的な浪人たちも多く集まるようになります。このことが、やがて慶安事件(1651年)という尊皇倒幕クーデターの未遂事件へと発展し、正雪は自刃(享年47歳)します。「南木拾要」を根本伝書として、数々の兵書を版行していた『南木流』兵法学は、由比正雪亡き後も一般に広く流布され、幕末には尾張藩にも広まりました。 

 『陽翁伝楠流』『南木流』とは全く別の第三の系統が『河陽流』兵法学です。戦国末期に発祥の萌芽があったとされる『河陽流』は、その始源を楠木正成に求めながらも、その後は前述した2つの系統とは異なり、楠氏の家系を経ることなく恩地氏・赤松氏等の諸氏十一代を経て、河宇田氏三代に伝わり、伊南芳通という人物に至って会津藩に定着した兵法学(軍学)です。 

 河宇田氏の一代目・河宇田義夏は、泉州(現在の大阪府南部)細川氏に仕え、天文15(1594)年頃に『河陽流』を伝えていましたが、乱を避けて江戸に移住しました。義夏の子・永白叟は文禄3(1594)年に「河陽兵庫之記」を著し、『河陽流』を学問的に総合整理しました。 

 河陽流十八世を継いだ会津藩士・伊南芳通は、少年時代から武芸に優れ、江戸で数々の流派の軍学を学んでから、寛文元(1661)年に会津に戻り、藩主・保科正之に仕えて『河陽流』兵法学を講じました。その教えは藩士を通じて伊達藩にまで広まりましたが、天明8(1788)年に会津藩が公式兵法学として長沼流に切換えたため、会津藩における『河陽流』は衰退してしまいました。 

 『陽翁伝楠流』『南木流』そして『河陽流』は、楠公の偉業を偲(しの)びながら祖述された楠流兵法学(軍学)の学統ですが、楠公の戦術・戦法は甲州流、越後流、長沼流その他の諸流にも大きな影響を及ぼし、軍学者たちの研究対象となりました。そして、この楠流兵法には一貫した教えがあります。それは、『兵法の修学は「心性を悟り、諸民を親愛する」を上とし、「計謀によりて学ぶ」を中とし、「戦術をむさぼり習う」を下とする。それゆえに、徳義・才智・勇能が万人に秀でた将軍であれば、神通の謀により戦術も奇妙を尽くすことができるのだ。』というものです。つまり、楠流兵法とは、まず「正心修身、治国平天下の大義」を本とし、次いで賊徒を討伐するための「智謀・戦術の妙道」を教えるものなのです。 

 この楠流兵法の基本理念は、まさに「清く直く明けき心」を根本としつつ「剛毅」と「真鋭」を説く『闘戦経』の教えそのものといえるでしょう。 

(平成23年11月1日記す) 

▼非の打ち所のない完璧な作戦・戦闘 

 凡将・新田義貞によって京都奪回作戦は余りにも滅茶苦茶な戦になり、無益な損害を受けたことから、後醍醐天皇は「今後、楠木正成の計らいにより戦をやるように」と仰せられ、これにより洞院実世(どういんさねよ)、義貞、顕家ら将軍クラスの武将たちを、せいぜい中佐格の楠公が指図することになった。しかし、厳格に命令を下せるような指揮権を与えられたわけではなく、権限も曖昧なものだったため、その後、楠公を大いに苦しめることになった。 

 1月27日、楠公は官軍を三つの縦隊に区分し、北畠勢を以て大津街道、洞院勢を以て東山を通じる道、新田勢を以て鹿ヶ谷の道をそれぞれ前進させ、三経路からそろって京都東方の山地を通過させた。山地の進出は、一本道ではなくあらゆる道を経て、ろ過するように進め、というのが戦術上の原則である。さらに楠公は、この東山の諸山系の隘路出口を制する地形上の要点・神楽岡を奪取するため、自らその軍勢とともに官軍の先頭を前進した。神楽岡には、すでに宇都宮公綱の軍勢が築城していたが、楠公は自らの部下や叡山の山僧に加え、功名心に駆られて突進する北畠及洞院の縦隊の先頭をも指揮し、神楽岡から宇都宮勢を撃退してこの高地を奪取した。この頃、尊氏は大軍を率いて二条河原まで進出していたが、既に戦場の要点は官軍に取られており、東方の山地から同時に出て来た官軍の諸縦隊による包囲攻撃を受けて敗走した。 

 楠公は、神楽岡と諸隘路の出口にそれぞれ一部の部隊を残し、官軍の主力は全て坂本に帰るように指図した。これは前回、勢い余って京の市街に吸収されてしまった新田勢の失敗を繰り返さないための処置であった。ようやく戦に勝ったと思った官軍の将兵は皆、京の都を目前にしてしぶしぶ前進開始地点まで後退させられたのである。 

 翌28日、楠公は尊氏を油断させるため、京都の市街に泣男を放って大々的な欺騙行動を行った。すなわち、「昨日の戦に義貞も正成も死んでしまった、その骨を捜して居るのだ。」と言いながら泣男が市中を廻ったのである。さらに、その晩には、炬火(きょか:かがり火、たいまつ)の隊列により官軍が北白川口から北の方向に山上を退却する状況を現示したので、これに騙された賊軍は、闇夜の中にほぼ全力で追撃を行った。こうして尊氏がすっかり安心して東寺の本営で寝ていると、翌29日朝になり官軍の大縦隊が堂々と隊伍を揃えて粟田口から京都の街に進入して来た。 

 追撃でまともな兵力が手元にない尊氏は、官軍により本営を突かれるや直ちに総退却を命じ、自らは丹波、息子・足利直義は摂津へと退却した。楠公は斥候を放ってこれを追わせるとともに、全軍で追撃しようとするが、義貞も顕家も共に京都の魅力に引きつけられて、これに呼応しなかった。このため楠公は手勢を率いて30日に京都を出発し、八幡(京都の南南西15キロ付近)まで進出して賊軍の一部と戦った。 

 新田義貞及び北畠の軍勢は2月4日まで京都で休養していたが、足利の賊軍が再び西国街道を東進して来たことから、ようやく重たい腰を上げて山崎まで進出し、楠公と合流した。その後、中佐格の楠公はこれら動きの鈍い将軍たちを指図し、豊島河原の陣地攻撃、越水の遭遇戦などを戦ったが、いずれも戦術的に非の打ち所のない完璧な作戦・戦闘であった。 

▼悪しきシビリアン・コントロールと湊川の戦い 

 1336年(建武3年)1月、京都から九州へ敗走した足利尊氏は、光厳院の院宣を得て建武の新政に不満を持つ諸豪族を味方に付け、4月3日、京都に向かい大宰府を発進した。途中、四国の水軍を加え総勢5万の軍勢で陸路と海路の二手に分かれて進撃した。姫路で足利方の白旗城攻略中の義貞はこの進撃を阻止するため要害の地である摂津(兵庫)に退き、朝廷に急を報じた。 

 5月15日、当時、京都にあって朝廷に召された楠公は、後醍醐天皇に「京は守り難く、攻め易い地形なので、帝は義貞の守護下で比叡山に避難していただき、足利勢に京を無血占領させた後、その糧道を断ち、騒乱を起こして弱らせ、南北から挟撃する」ことを献策した。これは、足利尊氏の軍勢を京に入れ、ゲリラ戦によってその兵糧を断つという作戦である。京都は、補給ラインが脆弱であるため、そこを突かれたら大軍を維持することが困難になる。当時の足利軍は、関西以西を根拠地としており、瀬戸内海から淀川を経て京都に至る水路を主要な補給ルートにしていたため、これが分断されたら、京都に居座り続けることすら難しかった。しかし、こうした楠公の献策は、京を離れたくない公卿の猛反対に合った。後醍醐天皇は、公家の坊門宰相清忠の猛烈な反対を受け入れ、あくまで足利軍の京都侵入を阻止するために兵庫へおもむき、新田勢と合流して朝敵を討つよう命ぜられた。 

 こうして、戦略・戦術を知らない公卿の介入により楠公の「必勝の戦策」は潰されたのであったが、それでも楠公は、新田勢を無傷で京都へ後退させる作戦を密かに立て、最小限の兵力のみを率いて決死の覚悟で湊川の最前線へおもむく決意を固めた。 

 直ちに軍勢を率いて京を発した楠公は、途中の桜井で嫡男正行と残りの軍勢を根拠地である河内へ帰し、弟正季と一族郎党七百騎のみで兵庫へと向かった。多勢に無勢ではあるが、正季と7百騎を伴い捨身で戦えば、新田勢を京に後退させて帝の守護にあたらせることは可能であると判断したのであった。5月24日、楠公は湊川に到着すると義貞の本陣を訪れ、楠木勢で山側の要点である会下山に本陣を構え、新田勢で海側の平地部に布陣するよう申し入れた。 

 翌25日朝、足利の軍勢が海路と陸路から同時に湊川の陣に迫ってきたが、楠公の本陣である会下山からは兵庫の平野部と沖合が見渡せたため、足利軍の動きが手に取るようにわかった。足利軍の作戦は、直義率いる陸路3万の軍勢が正面から官軍の陣を圧迫し、細川定禅率いる海路2万の水軍が官軍の背後に上陸して包囲するというものであった。海路から包囲されかけた新田勢は、生田の森まで後退して新たな阻止線を設けたため、会下山の楠木勢は敵中に孤立し、完全に包囲された。それでも全精力を発揮し尽くした戦いで足利軍全てを釘付けにし、最終的に新田勢を戦場から無事離脱させた。 

 新田勢が京都へと撤退するのを確認した楠木勢は、会下山の陣を捨てて攻撃に打って出た。午前10時、正季率いる先鋒3百騎が夢野台から直義の本陣に突入し、続いて楠公を先頭に楠木勢主力が大喊声(かんせい)を轟かせて会下山を駆け下った。不意を突かれた直義勢は潰走し、直義は騎馬を倒されて危うく討たれるところを辛うじて逃れた。足利軍は四周から楠木勢に攻めかかるが、楠公率いる精鋭無比の軍勢は、尊氏の本陣を求めて縦横(じゅうおう)に突進し、奮戦した。敵陣に切り込むこと十六回、六時間にわたる激戦で残った楠木勢73騎は、全員満身創痍で湊川近くの民家に集まった。 

 楠公と一族郎党は「七度まで人間に生まれ、朝敵を滅ぼす存念」を確認し合った後、自害した。 

▼孫子と闘戦経を表裏で学んだ唯一の武人 

 このように、楠公はわずか五年間における総ての戦において、我が国の戦史上類(たぐい)稀なる立派な戦例を残してきた。その秀逸さは戦術行動のみならず、戦法面においても、いかんなく発揮された。元寇における蒙古軍の集団戦法や「てつはう」といった飛び道具などについても熱心に研究していた楠公は、上赤坂や千早の山城にこもって、押し寄せる敵を十分に引き付けてから、一斉に丸太や岩石を落とし、敵兵の頭から熱湯や糞尿をかけ、板壁ごと敵側に倒れ落ちるような様々な奇手・奇策へと繋げている。 

 こうした楠公の柔軟な思考や独創的な発想は、孫子でいう「彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず。・・・(謀攻第三)」や、「凡そ戦は正を以て合し、奇を以て勝つ。・・・(兵勢第五)」そのものであり、さらに京都での泣き男や、千早城でのわら人形など、戦略、戦術、戦法全てのレベルで欺騙や陽動を用いて敵の判断を誤らせたことは、「兵は詭道なり。・・・(始計第一)」を忠実に実践しているものである。 

 楠公の武人としての卓越した能力のほとんどは、長年にわたり孫子を学び、それらの教えが全て自らの骨と化していたことによる。しかし、それだけが楠公の全てではなかったのである。 

 湊川に赴く前、楠公が宮中に召されて、必勝の戦策を上奏したにもかかわらず、これが採用されず、坊門清忠の言った策のとおりに大命が下った。孫子には「君命に受けざる所あり」という一文があり、たとえ君命であっても、それによって敗れ、戦死することが必定であるならば、それに従う必要はないと説いている。しかし、楠公は唯々として君命に従い、戦死を覚悟して兵庫に赴いた。「君命は山より重し」、これが楠公の「君命」に対する信条であった。結局のところ、敵を懼れ、死を怖れる考えから免れることはできない孫子にはこのような死生観はどこにも書いていない。楠公が従容として死を受け入れながら後醍醐天皇の命令に従順に従ったのは、楠公の精神の底流に孫子ではなく、闘戦経の教えが存在していたからである。 

 「死を説き生を説いて、死と生とを弁ぜず。而して死と生とを忘れて死と生との地を 説け。(第十二章)」 

 闘戦経には「死とは何か、生とはなにか」を考えることよりも、「いかに生き、いかに死すか」を実践のうちに悟ることの大切さを説いている。これに関連して、一つのエピソードがある。建武中興の翌年、すなわち1335年(建武2年)に足利尊氏が楠公に使いを遣わし、「義貞がどうも邪魔になって仕方がないので、義貞を倒したい。貴方が私に味方して下さるならば、貴方に畿内、南海、近江、伊賀、伊勢を領地として与えよう。」と伝えてきたという。 

 これに対して楠公は、「日本全国、唐天竺までもらっても、正成一代というものは暫(しば)しの人生である。この使は斬るべきであるが、許して遣わそう。」と言い、歯牙にもかけなかった。楠公には私欲というものが一切無かったのである。 

 一生は極めて短い、義を千歳に留めることを第一として生きる。これこそが楠公の人生観であった。日本人にとって、最大の大義とは何か。それは、建国以来連綿と続く日本の国體(国体)を護ること、すなわち天皇陛下を中心として、君民一体となり、「和」の精神をもってお互いを尊重し合いながら生成発展させてきた人間社会の絶対性・統一性という価値ある国柄を、これらを破壊しようとする賊徒から守ることである。それは究極的には「天皇陛下をお護りすること」に他ならない。それゆえ、8世紀に孫子が入ってから250年ほど後の平安時代末期に、闘戦経という純日本の兵法書がすでに生まれていたのである。そして、楠公こそが、この闘戦経を骨と化すまで学んだ数少ない武人の一人であった。 

 大義に殉ずる誠心があれば、敵を懼れ、死を怖れることなくただひたすら戦うという日本人の精神を顕現した「湊川の戦い」こそは、闘戦経でいう「兵の道にある者は能く戦うのみ。(第九章)」、「四体未だ破れずして心先ず衰ふるは、天地の則に非ざるなり。(第十四章)」や「小虫の毒有るは天の性か。小勢を以て大敵を討つ者も亦た然るか。(第三十章)」等の教えそのものであり、あらゆる手段を駆使して大軍を引き止めた「千早城の戦い」は、「鼓頭に仁義無く、刃先に常理無し。(第三十九章)」を忠実に実践しているのである。 

 このように我が国の長い歴史の中で、楠公こそが孫子と闘戦経を表裏一体に学び、それを戦場で実践できた唯一の武人であった。この楠公の武人としての生き様こそが、闘戦経に云うところの「武」の道であり、それゆえに後世の人々にも深い感銘を与えてきたのである。この闘戦経に根ざした楠公の精神は、戦国時代の乱世を経て、江戸時代以降も武士道精神として生き続け、幕末の国家的危機に立ち上がった勤皇の志士らに脈々と引き継がれて、やがて維新回天の大業へと繋がっていく。 

 江戸の平和な時代、戦がない時代に、戦を職業とする武士たちが戦国時代よりもさらに気高き精神を保ち、戦場に在るのと同様の緊張感を保持して日々鍛錬しつづけるために我々日本人が創りあげた武士道精神は、正義感、忠節心、強くかつ優しい、己を捨てて公に尽くす・・・等、人間が作り上げた最高の「理性」である。平和な時代にこそ、戦というものを常に考え、それに備えていないと、やがて国家は滅びてしまう。そこに武士道の価値があり、その精神の根底をなすものは、孫子ではなくあくまでも「闘戦経」なのである。 

(楠木正成と闘戦経 おわり)

2007/5/26