兵法問答集(読者からのおたよりと返事)
【抜刀マンさんからのおたより】 

 日本人による日本国民のための兵法書ですね。期待してます。 

 今まで生半可にかじった兵法ものには読解力のせいか、なにかしっくりきませんでしたが、日本人に咀嚼させる何かが欠けていたのですね。安心しました。 

 楽しみにしています。 

【家村会長よりお返事】 

 ありがとうございます。 

 昔から、日本人にはシナ・西欧万能主義のような考え方が蔓延しており、兵法に限らずあらゆる分野で日本人本来の良き文化・文明を覆い隠してきました。 

 しかし、大江匡房をはじめ、聖徳太子や大伴家持、本居宣長、頼山陽など、そうした日本人の舶来万能主義に敢然と立ち向かって日本人の持つ優れた一面に光を当てることに生涯を費やした方々のおかげで、今の我々に遺された日本独自の文化・文明があります。 

 私も微力ながらこうした方々の後に続く一人になれたらと思う次第です。これからもよろしくお願いします。 

【Yさんからのおたより】 

 大変興味深く読んでおります。 

 兵法とはいままで中国源流であり、それを日本で独自にと思っておりました。ですのでどうしても納得いかないことがありましたが、今は雲が晴れたような気持ちです。 

 剣道・銃剣道・短剣道を修業させていただいておりますが、闘戦経の説く所と武道の説く所が全く同じであることに、今までの修業とこれからの修業への確信が益々なります。また自衛官の皆様との武道交流で自衛隊の精鋭度には万全の信頼をしております。 

 どうか、この精神が国民レベルまで膾炙されることを望み、微力を尽くしたいと思うものです。 

【家村会長よりお返事】 

 孫子の兵法は、優れた兵法書であり、日本の武将達の思想や彼らが行った合戦に多大な影響を与えてきました。同時に儒教も文武一元の我が国では、古来から武人の教養として学ばれてきました。 

 兵法にせよ、儒教にせよ、シナで生み出された教えは理論としては素晴らしいものでしたが、これを生み出したシナで、これらはあくまで「あるべき理想の姿」を描く理論書であったのに対して、日本の武士たちはこれらを骨と化すまで学び、自ら実践してきたことが大きな違いです。また、そのために数々の優れた解説書が作られてきたことも特筆すべきでしょう。(江戸時代に様々な流派により書き残された兵法書の多くもこうした類のものです。) 

 しかしながら、その背景にある武士道精神について言えば、どう考えてもシナの兵法や儒教から導き出されたものとは思えません。ここに、日本独自の兵法書「闘戦経」が存在した意義を見出すことができます。 

 闘戦経こそが、日本が世界に誇るべき「武士道精神」の原点であると言えます。 

【抜刀マンさんからのおたより】 

 武が文に優先しているとは初めて知りました。 

 文と武は少なくとも表裏一体とは思っていましたが、武が先にあったとは。 

 これも「天の沼鉾」を、単に「竿の先に刃物をつけたようなもの」のイメージでしか捉えていなかったことによるものと恥じています。 

 また、シナでは武を文の対局の下賤なものとしてとらえているとのこと、あの殺戮大陸のシナではさもありなんと納得がいきます。 

 しかし、そのシナの悪い影響を受けているのが防衛省における漢字表記の「文民統制」だとしたら、これはゆゆしき大問題と思います。 

 本来の「シビリアンコントロール」とは、専門家(軍人)の意見を聞きシビリアン(文民、政治家)が決断し、その責任をとるものと解釈しますが、どうも「文民統制」と書くとシナかぶれの小役人が偉ぶって、(下賤な)軍人をこき使うというイメージがあります。 

 その端的な例が今回の震災時におけるカンの思いつき動員や海江田の侮辱発言なのでしょう。 

 早く本来の「シビリアンコントロール」に戻して、国民の軍隊としての機能を発揮できるよう環境を整えてもらいたいものです。 

【家村会長よりお返事】 

 戦後日本の一般的風潮が軍事は「悪」であり、それに携わる自衛官は卑しい人種であり、任せておいたら勝手に戦争やクーデターをやりだす輩である・・・といった極めてシナ的なものでありました。 

 近年、様々な場面での自衛隊の活躍で、ようやくそうした風潮が見直されつつあります。しかし、この度の一川保夫防衛相の「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」といった発言からも、軍事・国防は全て自衛隊に一任(丸投げ)の風潮はいまだ根強いようです。 

 今こそ、国民一般が軍事的常識を身につけ、真っ当な国防意識を持たなければならない時代ではないかと考えます。 

【YSさんからのおたより】 

 今までよく知らなかった日本の歴史の大事なことを、大変興味深く教えていただいていて、ありがたく思っております。 

 熱心に読めている訳ではありませんが、とてもためになります。もう少し若いうちから学んでいたいような感じもあります。 

 でも、今回よい機会を得させて頂きまして、心の中に蓄えまた平和のために生かしていけたらと願っています。 

 ありがとうございます。今後もどうぞよろしくお願いいたします。 

【家村会長よりお返事】 

 強い力と正しい心を兼ね備えた国や国民こそが、正義と秩序を基調とする真に平和な国際社会を築く原動力となることができます。 

 そして、日本の歴史を学び、先人たちの偉業を知れば知るほど、我が祖国・日本こそが、その役割に最も相応しい国なのだということがわかってきます。 

 YS様におかれましても、この機に「日本と日本人」について大いに考え、自分なりの何かをつかんでいただければ幸いです。 

【ベーさんからのおたより】 

 いつも楽しく読ませていただいております。明快かつ有益なお話と思います。 

 ところで、「軍なるものは、進止有りて奇正無し」(第十七章)ですが、不明にして以下のように解釈してしまいました。 

 「軍は進むか留まるかが重要なのであって、奇策か正策かを問題にするものではない」 

 つまり、勝つか負けるかのための決断が進むか留まるかであって、その戦術が正当であるか奇策であるかは関係ないことだ。 

 よろしければ、いま少し詳しいお話をいただけないでしょうか・・・。よろしくお願いいたします。 

【家村会長よりお返事】 

 ここで言う「軍」とは、複数の師団(1個師団は1〜2万人)あるいは軍団(1個軍団は2〜4個師団)を束ねる最大の編成単位を指しています。現代では、さらに数個軍をもって方面軍とする場合もありますが、闘戦経が書かれた当時の感覚で言えば、最大の規模、すなわち「総軍」といったようなものです。 

 連載4回目の「ごあいさつに代えて 〜兵法とは何か〜」で述べた戦略・戦術・戦法で言えば、「戦域」(複数の「戦場」を包含した広大なエリア)における「戦略」レベルの大作戦を主催するのが総軍の司令官です。 

 戦争に臨んで総軍司令官のなすべきことは、それぞれの「戦場」における「戦術」レベルの作戦や戦闘の大前提となる大作戦全般の目的と方向性(軍全体としての行動が攻勢作戦か、守勢作戦かなど)を明確に示し、あわせて作戦の物的基盤である「兵站」を準備することです。そして、適宜必要な情報は提供しながらも、各戦場での具体的な戦い方は、軍団や師団のような作戦単位部隊の指揮官に一任します。 

 このように、軍(総軍)のような「戦略」レベルの部隊には、大目的(何のため=大義名分)と「進止」、すなわち攻勢か守勢かがあるだけで、それぞれの戦場での「奇正」、すなわち戦機(チャンス)を生かし、敵を欺騙(ぎへん)して奇襲的に戦うか、十分な戦力を集中し、周到に準備して正攻法で戦うか、それに応じてどのような戦術行動を選ぶか、といった戦術レベルの話は直接的には関係ないことなのです。 

 そして、総軍が示す「戦略」レベルの大目的(大義名分)が、道義的であればあるほど、軍団や師団以下の第一線の将兵たちの士気は高まり、精神的な強靭さを発揮します。人間は本来、正しい目的のために殉じるものであり、嘘・偽りは、人の精神を弱くするものだからです。 

 詳しくは、拙著「図解雑学 名将に学ぶ世界の戦術」(ナツメ社)第1章をご参照ください。 

 総軍司令官が「戦略」レベルの大作戦に、まるで戦術・戦法レベルのような感覚で「奇正」ばかり追求すると、大義名分の無い、道義に反する戦(いくさ)ばかりやりたがることにもつながります。困ったことに、そんな国も我が国周辺にはたくさんありますが・・・。 

【K.Hさんからのおたより】 

 孫子の理想としている方法を今の中国が、日本やアメリカに対して行っていると思いました。 

 中国の本当の敵は、アメリカだとよく解りました。 

【家村会長よりお返事】 

 まさにご指摘の通り、今も昔もシナは常に「兵は詭道なり」そのものです。偽り欺き、相手の裏をかくといった「詭」を、過去も現在も国家戦略のレベルで行っています。「戦わずして人の兵を屈するは善の善なり」も現在「超限戦」という形で行っているところです。 

 K.H様の「中国の本当の敵は、アメリカだとよく解りました。」という認識も、シナ人特有の「詭」そのものかもしれません。なぜならば、シナは隋・唐の昔から、近・現代の中国(中華民国、又は中華人民共和国)まで、自分より弱いと判断した相手としか本気で戦っていませんから。 

【抜刀マンさんからのおたより】 

 家村先生から、老子の「無用の益」等は乱世における文人の処世術にすぎないと喝破され、文人がなぜ山水画をあれほどめでるか納得がいきました。 

 「あれは、騙し騙され、裏切り、裏切られ疲れ果てた文人があこがれるつい住処だ。」と読んだ記憶がありますが、納得です。 

 それと、鎌倉以降の武士が禅宗に凝るのも、中身のある者が凝れば明鏡止水の心境になれましょうが、中身のない(我々同様の)凡俗が凝るよりは、「座禅して悟りを開く阿呆もの、釈迦も阿弥陀も昼寝なりけり」と説教されて追い返された方が、まだ、ましなようです。 

 いずれにせよ、シナ人やシナかぶれの言葉は、その時代背景や特有の歴史を頭に入れて聞かないと、騙されてしまいそうです。 

【家村会長よりお返事】 

 万有一元・循環無端の哲理を識れば、一つの根源から幾億・幾兆々・・・と無限に枝分かれし、いま現在、ここにある生命(これを「分け御霊(みたま)」といいます)、さらに言えば、限りある身体に宿っている永遠の命というものが、天の性により、元来は大自然と同様に「清く、直く、明けき」ものであることがわかります。時にその御霊は汚れ穢れることがあっても、大自然が常に春夏秋冬を繰り返すように、禊ぎ祓う(みそぎはらう)ことにより、いつでも清浄なものにもどすことができます。自然は嘘をつきません。そこには、人間と大自然を切り離して論じる「性善説」も「性悪説」も入り込む余地などないのです。 

 禅宗につきましては、北条時宗の資質、特に胆力と思考力の養成に多大な影響を及ぼしたことは言うまでもありません。寛元元(1246)年、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)というシナ人の禅僧が、元軍の南宋侵攻を恐れて来日しましたが、時宗は幼少の頃からこの禅僧の元で修行し、禅問答を通じて真理を悟ることになります。蘭渓道隆の教えの中でも、「須弥山の公案」(道は自己の中に窮めよ。生きたまま解脱して阿羅漢となれ。)はその後の時宗の生き様そのものになりました。 

 さらに、弘安元(1277)年、南宋が元の侵攻により滅亡しましたが、その2年後に無学祖元(むがくそげん 五四歳)という禅僧が、時宗(二九歳)の招きで来日し、建長寺に入ります。無学祖元の「電光影裏春風を斬る」(ぎりぎりの状態に追い込まれてこそ、「空」の境地を悟ることができる。)や「莫煩悩」(無私・滅私に徹すれば、懼れるものは何も無い。)といった教えを骨と化すまで学んだ時宗であればこそ、弘安の役(1281年)という我が国最大の国難を乗り切ることができたのです。 

 しかし、当時、すでに10年以上も執権職に就き、文永の役(1274年)で元軍を撃退していた時宗にとっては、禅宗の修行以上に、元による侵略の様相や、元により滅亡された南宋の実態を無学祖元を通じてつぶさに知ることができたという「情報収集」としての価値が大きかったようにも思えます。 

 抜刀マン様がおっしゃられるように、日々の生活に追われる我々凡俗には、悟りを開けるまで座禅しているような時間もゆとりもありませんが、日々の仕事や日常生活の中にふと見つけ出す悟りこそが我々日本人の求める「本物の悟り」なのではないでしょうか。 

【マー坊さんからのおたより】 

 大変面白かったです。 

 カダフィ大佐の死亡が報じられて驚いています。リビアは本当に内乱なのでしょうか。 

 NATOの介入の方が反政府軍よりも軍事力は大きかったと思います。アフリカは暗黒大陸のままでよいという欧米の植民地思想がカダフィ大佐のアフリカ独立思想がじゃまになってきたのではないかと思います。アジアの日本と欧米の戦争が大東亜戦争で欧米のアジア植民地思想が日本のアジア独立思想がじゃまになったのとよく似ていると思います。 

 家村様の考えを聞きたいです。 

【家村会長よりお返事】 

 カダフィ大佐の死亡にいたるリビア国内での紛争は、内乱と考えて間違いないでしょう。もちろん、これにNATOが軍事的に介入したことはありましたが、その主体はリビア空軍の自由な活動を妨害するものであり、地上部隊を投入したものではありませんでした。地上で戦ったのはあくまでもカダフィ大佐に忠誠を誓う『暴力装置』と、それに対抗する反乱軍・民兵の連合部隊でした。 

 本来、軍隊には『国軍』と『暴力装置』の二面性があります。『国軍』とは「国体」を守るものであり、その主敵は侵略により「国体」の存在を脅かす外国軍です。これに対して『暴力装置』は「政体」を守るものであり、その主敵は国内外を問わず反政府勢力です。台湾二・二八事件での国民党軍や、天安門事件での人民解放軍の残虐な行動は、『暴力装置』の典型といえます。そして、昨今の中東における政変でも、『国軍』と『暴力装置』の違いを我々にはっきりと示してくれました。 

 エジプトではムバラク政権という「政体」から独立した『国軍』が、国民の側に立って退陣を迫ったことから、政権は崩壊し、新たな「政体」が確立されるまで軍の最高評議会による暫定統治となりました。こうして無用な流血を回避できたのは、インドネシアのスハルト政権崩壊時とよく似ており、「無血クーデター」とも言われるゆえんです。 

 これとは逆に、リビアではカダフィ政権の『暴力装置』が、死者数千人にも及ぶ大々的な武力鎮圧に出ましたが、やがて国内全域が戦乱の巷となるや、陸軍部隊の多くが反体制デモ隊に合流するようになりました。あの天安門事件の人民解放軍でさえも、地元の北京軍区が武力行使を躊躇したので、他の軍区から派遣された機甲部隊により闇夜の中で大虐殺が行われたのが実情です。 

 このように、形の上では『暴力装置』を保持していても、実際にそれが機能するかどうかは別であり、命令には絶対服従を求められる軍隊でも、良心ある人間であれば、自国民に引き金を引くのは極めて難しいことなのです。結局、最後まで『暴力装置』として機能したのは外国人傭兵部隊、カダフィの身内で固めた空軍、カダフィに忠誠を誓う一部の精鋭部隊、そして大金につられた軍人だけでした。親族や身内で周辺を固めて、40年の長きにわたり独裁政権を維持してきたカダフィ大佐の末路については当然の帰結と考えます。 

 したがいまして、私はマー坊様のご意見にある「アフリカは暗黒大陸のままでよいという欧米の植民地思想」や「カダフィ大佐のアフリカ独立思想」というものが、実存していたとは思いません。大東亜戦争が生起した根本原因につきましても「欧米のアジア植民地思想が日本のアジア独立思想がじゃま」になったからではなく、スターリンの世界共産化の大謀略に欧米諸国が踊らされ、日本も巻き込まれた結果と考えています。 

 「窮鼠猫をかむ」状態の日本が、日ソ不可侵条約を後ろ盾にして対英米戦に立ち上がった時になって、初めて「アジアを欧米の植民地から解放する」ことを戦争目的(国策)としたのであって、それ以前から日本の国策として「アジア独立思想」というものがあったわけではありません。 

 アジア独立思想は、あくまでも日本の民間有志たちによるものであり、日英同盟下の日本政府は、逆に日本に亡命してきたラス・ビハリ・ボースというインド独立運動家を取り締まろうとさえしました。彼はアジア独立思想に共鳴する民間有志らによってかくまわれ、その後も日本に滞在できたのです。 

【Hatikenzan88さんからのおたより】 

 家村和幸様 

 映像も入っていないテキスト形式だけで32KBで送られてきます。 

 これだけ一生懸命1週間かけて 打ち込まれることに感銘を受けます。これを打ち込むための資料も膨大なものと推察されます。 

 小生の4代前が会津藩・・斗南・・江差・・札幌(屯田兵)とながれてきた者です。その間、墓石も背中に担いで移動したとのことです。いまも本墓標の横に会津藩士の墓 石があり、昔の人の忍耐強さには敬服しますね。 

 御身体をたいせつにつづけてください。            敬具 

【家村会長よりお返事】 

 暖かい励ましのお言葉をありがとうございます。 

 戊辰の役で降伏した会津藩は、領地を没収されて本州最果ての地である斗南に移封されましたが、過酷な冬には餓死者や凍死者も少なくなかったとのことですね。 

 第一次大戦中、徳島に開設された板東俘虜収容所の所長であった松江豊寿中佐(後の会津若松市長)も会津藩士の長男で、幼少を斗南で過ごされていたことを、数年前に「バルトの楽園(がくえん)」という映画で知りました。松江中佐の父親が、素手で雪の下の凍土を掘り起こし、木の根を掘り出してかじる場面が、今でも脳裏を離れません。 

 ドイツ兵捕虜たちを人道的に扱い、寛大に処遇し、さらに地域住民とも自由に交流させたという松江中佐の優れた人格の背景には、このような斗南での過酷な体験があったのでしょう。会津藩士の子として戦(いくさ)に破れた側の悲惨さが骨身にしみてわかっている松江中佐であればこそ、ドイツ兵捕虜たちの心に思いを致すことができたのだということです。 

 本州最果ての地で艱難辛苦に耐え忍び、さらに北の酷寒の地で屯田兵として国土の開拓と防衛にご尽力された Hatikenzan88 様のご先祖様には、ただただ敬服するのみです。こうしたご先祖様の尊い「歴史」を誇りとされ、ご健康に留意され、益々ご精進されますことを心より祈念いたします。 

(兵法問答集 おわり)

2007/5/26