河陽兵庫之記 壱 その3
▽ はじめに 

 日本兵法研究会の家村です。関東地方でもようやく本格的な冬の寒さが訪れてまいりました。この頃になると、私は毎年、厳寒の北海道での積雪地訓練(スキー機動訓練)を思い出します。これが自分の自衛隊人生の中で、肉体的に最も苦しめられた訓練でした。その当時19歳の私は、北海道の大雪原の中に「白い地獄」を見た思いでした。今でも忘れられません。 

 昭和55年5月下旬、武山での新隊員前期教育を終えた私の赴任先は、北海道の滝川に所在する第10普通科(歩兵)連隊でした。3ヶ月の新隊員後期教育を受けた後に、第1中隊に配置になったのが8月下旬、北海道の短い夏が終りかけている頃でした。 

 秋には連隊の訓練検閲に向けての演習が然別や島松の演習場で何度か行われていました。10月には日本で一番広大な矢臼別演習場で、連隊が訓練検閲を受け、4月から続いた夏季訓練が終りました。 

 この間、9月には私にとって二度目の防衛大学校受験(一回目は高3の時で、結果は不合格)がありましたが、その感触は「今回も、だめだろうな・・・」でした。 

 そして、10月からは積雪時に備えて、冬季訓練に移行していきました。普通科部隊の冬季訓練の主体は、スキー機動訓練です。スキーと言っても、リフトで山の頂上に上がってゲレンデを優雅に滑り降りるような楽しいものではありません。ヘルメットを被り、64式小銃を背負って両手に竹のストック。両足にはつま先だけが固定されている木製のスキーを履き、これで積雪地のあらゆる地形を踏破(とうは)しなければなりません。平地も、緩斜面も、急斜面も全て自分の両手両足だけで走ったり、降りたり、登ったりしなければ前に進みません。状況下の演習では、さらに鉄のヘルメットを被り、腰には銃剣、水筒、弾のうを装着し、背のうを背負って数十Kgの完全武装で、延々数十Kmにわたる雪中行進や、攻撃・防御などの戦闘行動をします。しかし、本当にきつかったのは、こうした雪中での戦闘行動ではなく、スキー機動コースでのタイム・レースでした。 

 11月に入り雪が降り始め、地面もしばれて(凍って)くると本格的な積雪期となります。駐屯地も演習場も真っ白な雪景色になる頃、連隊の各中隊は、2月に行われる中隊対抗のスキー競技会にむけて、駐屯地や演習場に作ったスキー機動コースで猛訓練しました。 

 第1中隊のスキー訓練では、私の所属する第2小隊の○○1曹が陣頭に立って全隊員を率いていました。○○1曹は、少々口は悪いが人情味に溢れ、いつも冗談を言っては大声で笑っている“道産子隊員”でした。言うべきことがあれば、陸曹を代表して幹部にはっきりと物申す胆のある人物でしたが、それでも幹部からの信望は厚く、古いTV番組「コンバット」のサンダース軍曹を彷彿させる、かつての自衛隊には珍しくなかったタイプの上級陸曹でした。 

 競技会の種目は、「階級別リレー」、「アキオ(3〜4人ぐらいで曳く平たいソリ)曳航リレー」、そして「部隊機動」でした。二つのリレー種目には、各中隊でも選り抜きのスキー技量に優れた隊員が選手になり、それ以外の隊員はほぼ全員が「部隊機動」に参加することになっていました。 

 「部隊機動」は、中隊員80人ぐらいが一斉にスタートし、最も遅くゴールした隊員のタイムが、そのまま中隊のタイムになるという種目です。そして、走るのが「遅い隊員」を「速い隊員」1〜2名でアキオ曳航用のロープを用いて引っ張ることが認められていました。ただし、遅い隊員の尻を後からストックで突いたり、ヘルメットを叩いたりすることは、競技会の実施規則上は禁じられていました。・・・しかし、各中隊の練成訓練は、これが「常態」でした。 

 各中隊は、競技会優勝に向けて連日、猛訓練をしていました。当時、北海道の部隊は充足率を上げるため、半分以上が関東以南から転勤してきた隊員でした。特に四国や九州から来た隊員は、北海道に来て初めてスキーを履いた者ばかりで、訓練による技量向上の程度にも個人差がありました。どこの中隊にも、階級を問わず、いくら猛訓練を重ねても「遅いままの隊員」がおり、たとえ幹部や1曹・2曹でも、「遅い隊員」は下の階級の隊員にロープで引っ張られ、ストックで突かれ、罵声を浴びせられながら、自分の能力上の限界をはるかに超えた速さで走ることを要求されていました。ある「遅い隊員(幹部)」が、このときの苦しさを「はらわたが何度も飛び出しそうな・・・」と表現していましたが、それはけだし至言でありました。 

 このように、当時の北海道の普通科連隊では、「部隊機動」という種目の練成訓練の場に限り、明らかな「下克上」が存在していました。 

 入隊するまでスキーなどやったことの無かった「家村2士」も、この「遅い隊員」の一人でした。連日、M3曹にロープで引かれ、N2曹に尻をストックで突かれながら、5Km程のコースを何度も走らされました。下着に戦闘服だけの軽装で1周走るだけでも全身汗だくです。私を引くM3曹のヒーヒーと漏れる苦しそうな息の音を今でも覚えています。私が転倒するとM3曹も後に引っ張られて倒れます。怒ったM3曹がストックで私のヘルメットを激しく叩きます。N2曹にストックで突かれて新品の戦闘服のズボンがビリリと破れたこともありました。 

 ある時、こうして走っている最中にだんだんと雪が激しくなり、視界も悪くなって意識が朦朧(もうろう)としてきました。呼吸も一層苦しくなり、そして一瞬意識を失い、顔面から新雪の積り始めたコースの上に倒れこみました。鼻や口から冷たい雪が入り、息苦しくすぐに立ち上がることも出来ないまま、わずかに耳から会話が聞こえてきました。 

 M3曹「どうします?」 

 N2曹「ほっとけ。自分で帰ってこさせろ。・・・行くぞ。」 

 そして、最後に通りがかりの○○1曹の強烈な一言でした。 

 「家村、なーにやってんだ、お前は・・・・。死ね!」 

 立ち上がると、もう誰も見えなくなっていました。吹雪でコースがかき消されていく中をゴールに向かい、一人で再び走り始めました。涙を流しながら・・・・。私が訓練中に泣いた唯一の経験、まさに「白い地獄」でした。 

 ○○1曹については、もう少し紹介したい思い出話がありますが、長くなりますので次回にいたします。 

 さて、それでは本題の楠流兵法『河陽兵庫之記』に入りましょう。今回は、第一章の後段部分を現代語訳で紹介いたします。 

▽ 智 能 

 本当に智恵のある者は、邪心を抱かないものであることを思え。将たる人は申すまでもないことであるが、事業の草創(新しく物事を始めること)に携わるような者についても、いかなる場合も無智であっては成就することが難しい。 

心を明鏡の如くに磨いて物事に疑いを持たないこと。博く衆人を愛して親疎なく、その扱いが偏っていて公正を欠くようなことがなく、等しく馴れ親しんでいながらも、その人々が優れているか、そうでないかをも量り知れるようでなければならない。 

健康で勇気があり正義感と英智に富んでいながらも思慮深く、事に当たっては意図を決し、上級者を敬い下級者を慈しみ、邪険(じゃけん:相手の気持ちをくみ取れずに、意地悪くむごいこと)な言葉遣いをしない人物、これこそが「上の武士」である。 

厳正な態度で勤め、一見して勇気があり、芸才に富んでいるかのように見える者がいたとしても、多欲であり、或いは智恵に乏しく、道理にくらく愚かであって、義に従うことを当然と心得ていないようであっては「中の武士」である。 

勇気は血気に随い、或いは果敢にしてその身を顧みない者であったとしても、君命を拝受するに臨んで、潔く死を決心することができず、未練にして不覚をとるようであっては「下の武士」である。 

己のことのみを貪って、廉直な(心がきれいで私欲が無く、曲がった事をしない)朋友を嫌い、偽りが多くて利欲に暗く、義を疑い、功を妬み、恥を知らないようであっては、「人に非(あら)ず」ということを知らねばならない。この「人に非ざる者」であっても見捨てることなく、牛馬を用いるようにしてその能力を引き出すように用いるべきである。 

 主将の心が悪ければ、人に非ざる者を臣とし、親しんで愛し、立派な人物を遠ざけて、我心のほしいままに振る舞う。このようなことを邪智という。邪智によって国が滅び、家が破壊されるだけではない。万人の嘲りを受けて後代に恥をさらすことになる。 

数多くの武士に俸禄を支給して臣下にしていようとも、皆が心を開いて服従しているなどと推察したり思ったりしてはならない。代々仕えてきた郎等(主家との血縁関係も無く、領地も持たない家来)など多くの家来たちの中にも、友として交わり愛すべき人も必ずいる。師として尊ぶべき人も必ずいる。その智能は新しいか古いかにこだわるべきではない。 

人の上に立つべき全ての者は、頑(かたく)なであっては成り難い。智はより博いものであることを欲し、たった一人の志士をも無闇に捨ててはならない。ましてや、千万人の志士については言うまでもない。人の怨みが押し寄せるようなところ(事象)こそが、我が智を集中して発揮すべきところでもある。 

 智士と勇士と義士とは国の宝である。智士が遺恨を抱くような時には国家の能力は皆尽きてしまい、勇士が遺恨を抱くような時には国が傾き、義士が遺恨を抱くような時には国中が乱れる。こうした国の宝を棄ててしまい、(智士、勇士、義士の)三士が皆背いたならば、諸人は皆(己の)敵だと思わなければならない。 

諸人の心をよく察して、国家を治め、軍隊を保持し、君室をも輔弼(ほひつ:支えてたすけること)すべきである。一言の好みによって命を捨て、一言の怨みによって害心をも起こすのは、兵の習性である。突然の軽はずみな一言で人の心を破るのは、実に浅薄な智の致すところである。ただし、不賞の賞、不罰の罰といったように、実際の賞罰行為を伴わないで相手を褒めたり、諌めたりするための一言は時によっては必要となる。 

▽ 賞 罰 

 主君が主君であり、家臣が家臣である所以のものは「礼」にある。上級者が上級者であり、下級者が下級者である所以のものは「柄」にある。柄とは、その人の立場にふさわしいかどうかという観点から見た服装・態度・行動のしかたなどであり、賞罰が公正であからさまに行われるための根拠となるものである。したがって礼に対する賞が公正であるときには、臣下の忠誠心が高揚され、義に反する者への罰が明らかであるときには、盗賊が逃げていくのである。これらにより、国家は健全で安全なものになる。 

もしも、世の中に逆柄(柄にもないことばかりをやること)が蔓延し、主将に礼がなければ、大水を防いで山に逆流させるようなものである。人の力が尽きたときには、たちまちに潰れて流されてしまう。そうであれば、逆柄によって一時的な威厳と民からの信望を達成したとしても、その人が去っていった後に、その余薫(偉大な先人として後々にまで残る業績・薫陶)が無いならば、それは将たる者の恥でしかない。 

 あらゆる場合にも一人を賞して万人が積極的に励むようになる者がいれば必ずこの者を賞せよ。一人を罰して万人が懲りるような者がいれば必ずこの者を罰せよ。 

賞は微賤(身分的に見ても人間的に見ても取るに足りない)な者であっても見逃してはならず、罰は身分の高い者であっても赦してはならない。又賞は時機を失することなく、罰は三度目にやったときに行うものとも言われている。賞は厚く人に施し、罰は軽くせよとも言う。しかしながら、このことは一概に決めつけてしまってはならない。 

軍隊が戦闘中の場において、事によってはごくわずかな規律さえも緩めてはならない場合もある。その中にあっても賞することは表に出して、罰することは裏で密かに行うように心掛けるといったように、軽重表裏の心得は、時に応じて減り張りをつけなければならないのである。又かつての悪事をとがめて、新たな功績を妨げてはならないとも言われる。 

将たる人は、常々漢の高祖・劉邦が武将・雍歯を封じた心(君主が過去の恨みにとらわれることなく、大きな功績に恩賞を与えたことを指す)を忘れてはならない。そうであれば、賞も様々であり、罰も様々である。 

一には礼賞、財産や土地を得たならば、これらを軍士たちに分け与えるというような類がこれである。二には忠賞、三には功賞、四には負罰、荷焦げを着て、斧を荷なわせるというような(重労働を課す)類がこれである。五には剥罰、六には斬罰、七には族罰である。又古代には王たる者が人を追放するには九伐の法があると云われている。 

時勢に随って、これらを用捨する心得を持たねばならない。

2007/5/26