河陽兵庫之記 壱 その4
▽ はじめに 

 日本兵法研究会の家村です。先日は、「小原台クラブ」という会の忘年会に参加してまいりました。小原台とは、防衛大学校が所在する場所です。この会は、「現役自衛官でない防大在籍経験者(同会会則より)」の連携と親睦を図る会です。つまり、防衛大を退校したり、卒業後に自衛官の職を辞して民間で働いている人たちの集まりです。 

 今年の8月、防大時代の一期後輩で、この会の副幹事長を務めるO君から、この小原台クラブが年一回発行する会報誌の「自著を語る」というコーナーに記事を書いてほしいとの依頼を受け、私がこれまで書いてきた本の紹介記事を投稿し、12月上旬にその最終ゲラを確認した際、事務局長のY君から小原台クラブ役員会の忘年会に是非ご参加してほしいとお誘いを受けてのことでした。 

 私が防衛大に行こうという思いを抱いたのは、高校1年の終わりごろでした。理由は極めて単純です。学校の帰りに、国鉄の戸塚駅で防大生数人とすれ違ったとき、その制服姿に「かっこいい・・・。」と思ったからです。それが防衛大の制服と知り、「よし、俺もあの制服を着るぞ。」そう決意しました。祖国防衛の念に燃えて・・・とか、心・技・体を鍛錬するため・・・といった理由は、後からくっついてきたものに過ぎません。 

 私の身内に自衛官は一人もおらず、父親は大手企業のサラリーマン、母は自宅でピアノ教室をやっているという家庭でした。私の両親は、よもや私が防衛大に進学して自衛官になるなどとは夢想だにしておりませんでしたので、何とか説得して父と同じような一般の大学に行かせようと何度も試みました。 

 大正15年生まれの私の父は、昭和20年7月から1ヶ月だけの軍隊経験がありました。本土決戦に備えて集められるだけの人員を招集し、臨時編成の部隊をどんどん作っている時でしたが、当時既にポツダム宣言を受諾する運命の日が目前に迫っていたことから、生前の父はこの頃の自分を「ポツダム二等兵」だったなどと自嘲気味に語っていました。父は九州の最南端である指宿あたりで塹壕や地下壕を構築中に終戦を迎えました。入営間に小銃など撃ったことはおろか、触ったことも無かったと語っておりました。いよいよ米軍が上陸するときに父を始めとする「ポツダム二等兵」たちに与えられる武器は「爆薬」でした。 

 そして、戦後すぐに鹿児島から単身で東京に出てきて大学に進学しました。この頃の大学では、ごく普通の若者であれば左翼思想に染まるのが「常識」でしたので、私の父も少なからずその影響を受けていたようでした。今の私と同じ五十代前半までは、朝日新聞を読み、祝祭日に国旗を掲げるでもなく、大日本帝国陸海軍や自衛隊の話題には全く興味を示しませんでした。 

 高校3年の秋に防衛大を受験した結果は、一次試験で見事に不合格でした。そして、私はそれ以外の大学を受けることなく、卒業式直後に陸上自衛隊に入隊しました。自衛官をやりながら勉強して防大へ行くという「無謀」ともいえる決意を抱いて、大きなバック一つで武山駐屯地の正門を入っていきました。昭和55年の冬のことでした。 

 新隊員教育の期間は、毎日22時の消灯後、24時までの2時間しか自分の勉強時間はありませんでした。北海道の普通科連隊に行ってからは、それに加えて課業終了後に日夕点呼までの2時間程度が可能になりましたが、それでも二度目の防大受験も不合格でした。一次試験を9月に受け、その発表があったのが12月上旬のことでした。 

 隊舎内の公衆電話から横浜の実家に試験の結果を伝えました。父は落ち着いた声でこう言いました。 

「無理なことがわかっただろう。意地を張らなくていいから家に帰って来い。予備校に通いながら来年も防大を受ければいい。・・・」 

 私が答えに窮して沈黙している時、駐屯地に消灯ラッパが鳴り響きました。この時、父と一緒に電話口にいた母は、電話の向こうからわずかに漏れ聞こえてくるこの消灯ラッパの物悲しい音色がいまだに忘れられないと言います。 

 自分の覚悟が大きく揺らいでしまった私は、この先どうしたらよいのか完全にわからなくなってしまいました。防大をあきらめて、このまま自衛隊に残るべきか。両親の言うとおりに自分の無謀さを認めて、防大合格への確実性を取るか・・・。高校を卒業して間もない2等陸士の私には、判断をするにもその先どうなるのか、余りにも読めなかったのです。翌日、営内班長のT3曹にこのことを相談しました。この話は若いT3曹には、少々重荷だったのでしょうか。いきなり、こう言われてしまいました。 

 「おい、お前・・・辞めるなんて言うんじゃねえぞ・・・。」 

 私が言葉を失って塞ぎ込んでいると、傍らで聞いていた○○1曹がこう語りかけてきました。 

 「家村、今日は俺のうちに晩飯食いに来い。」 

 この日は平日で、2等陸士には外出が認められていませんでしたが、○○1曹が当直幹部に話をすると、すぐに外出許可が下りました。17時の課業終了後、戦闘服から制服に着替えた私は、○○1曹と駐屯地の営門を出て、雪道を歩きながら○○1曹のご自宅である市営住宅へと向かいました。 

 ○○1曹の家は、昔の漫画「巨人の星」に出てくる星飛雄馬の家によく似た古い木造長屋でした。そう言えば、○○1曹の外貌や風格もなんとなく星一徹に似ていました。 

 外は雪が積っており、軒や窓にはツララが垂れ下がっていましたが、家の中はストーブで大変暖かく、早速○○1曹の奥様の手料理でもてなしていただきました。仕事場では、幹部連中も一目置き、若い防大出の幹部には恐れられてさえいた○○1曹でしたが、家に帰れば厳しいながらも慈愛心に富んだ、良き夫、良き父親なのであろうことが感じられる、そんなご家庭の雰囲気でした。 

 ビールが入って少し赤ら顔の○○1曹が話を切り出してきました。 

  ○○1曹「お前、これからどうするんだ?」 

   家村2士「このままでは、たぶん来年も厳しいかと思いますので、親父が言うように、予備校に行って防大を受験しなおそうかとも考えています・・・。」 

  ○○1曹「そうか、そして幹部になるのか。間違っても10連1中隊には来るな。俺はそんな幹部にはついて行かないから・・・。」 

 私は言葉を失いました。○○1曹は話題を代え、中隊でのこれまでのよもやま話や自分の子供達の自慢話をしました。そんな中でも、一言だけこんな話をされました。 

  「俺が、いざという時についていくのはO2尉だけだ。」 

 O2尉は、2等陸士から陸曹を経ての部内選抜幹部ですが、年齢的には防大出身幹部と数歳しか違わない若い幹部でした。部下への思いやりが深く、人格も体力も優れた方でしたので、中隊の陸曹・陸士でO2尉を悪くいう人は誰もいませんでした。 

 その後、○○1曹宅で焼酎をガンガンと飲まされ、そろそろお暇(いとま)する時に言われた○○1曹の言葉がその後の自分の人生を大きく支えました。 

  「家村、・・・幹部は男の夢だ。俺はお前見たいに頭よくないけど、俺の代わりにお前、幹部になれ・・・。」 

 この晩、私はかなり酔いました。酔いつぶれる寸前で、雪道をふらふらとかろうじて駐屯地に到着しました。もったいないことに、せっかくの○○1曹の奥様の手料理も、途中でほとんど道端に戻してしまったようでした。涙と共に・・・。 

 さて、それでは本題の楠流兵法『河陽兵庫之記』に入りましょう。今回で第一章を終わります。 

(平成23年12月14日記す) 

▽ 将 礼 

 兵卒たちにとって将軍とは、理性の面で卓越した上官であるのだから、人としての欲望から離れて礼を厚くし、色欲を禁じなければならない。将軍が礼を欠くということでは、色欲におぼれることほど甚だしいことは無い。将軍が女色を好んで節制を失っているような時は、軍を構成する人びとの心は決して堅固なものにならず、それだけではなく陰気な雰囲気が芽生えて、戦になれば敗れて滅亡することは疑いないのである。城が傾き、国が傾くような話を耳にしたならば、誠実な心でこれを他山の石として畏れ、身を慎まねばならない。 

良い将軍と暗愚の将軍の違いでは、その「智」の甚だしい懸隔を補うために学んで知ることは、さほど難しいことではない。ただ将軍として立派に「勤める事」が難しいのであり、この違いこそが天と地ほどに開くのである。このことを十分に心得ておれば、どうして祖先の訓えに背き、自分の汚名をも顧みずに、国家に尽くす替わりに一時の娯楽にうつつを抜かすことが許されようか。 

 雨が降っても天幕を張らず、暑くても扇子で煽(あお)らず、疲労しても自分一人だけが休むことはせず、飢えても自分だけが食べるようなことはしない。善悪の基準を多くの人々と同じくし、生きるも死ぬもともにして、たとえば越王の勾践が箪醪(たんろう ※)のことを思い、楚の荘王が戦地での慰問や娯楽を与える心配りを決して忘れなかったようなときには、士卒も飢えや疲労を厭わなかったのである。 

皆が将軍のために死のうと思えば全軍に二心は無い。軍旅(指揮下部隊)の士卒全員の命を預かる司令官として、あらゆる人々に礼をもって接する事ができなければ、その罪は重い。このことをいい加減にしたり、忘れたりしはならない。 

ただ武家たちが恩を感じておのれの命を軽んじ、受けた礼に応えようとして各々の忠誠心が完全に発揮し尽くされるときのみ、将軍が士卒を率いていると言えるのである。もしも一言によって人の心が踏みにじられ、一つの行いで人々の心が離れていくということを知らなければ将軍たる資格は無い。飯に唾を吐かれ、汁に髪を入れられることにさえなるのを忘れるな。 

大将の居所をこそ「陣」と呼ぶのであるから、戦の大将たる将軍は、常に陣頭に在って指揮下部隊の事を忘れず、四六時中、寝ることや食べることに関して専ら部下達の心情を慮って、そのことを決して忘れない。そのような時にこそ、将軍の礼がそこに存在するのだと知らねばならない。 

 このように、君主が君主として立派である時に、立派でない家臣などはありえないのだから、一国一軍を守る身に限らず、全て人の上に立つ者の心がけは、我が一人の行いを正しくして、あえて部下の挙動を憎んではならない。 

真っ直ぐな形に曲形は無く、曲がった形に直形は無し、と言われる。君主は体であり、配下の人々はその影のごとくあらねばならない。そうであればこそ、水は四角や円形の器に随い、人の善悪は一人の心に左右されるのである。雲は竜にしたがい、風は虎に向かって起ると謂われるのもこのことである。 

仁徳の無い者の国には、(幸福をもたらす)麒麟や鳳凰が飛翔せず、礼を欠く国には、賢士は住まないとも言われる。国に賢士が進んで来る時には、我が行いを喜び、国に悪人が多い時には、我が行いを反省しなければならない。又、侍(さむらい)に至っては、不礼の礼(礼の形をとらない礼)も時によっては心得なければならない。口伝を受けてこれを知るべし。 

※ ひょうたんに入った酒。古代シナの兵書「三略」に、次のようなことが記されている。 

  将帥というものは、必ず士卒と慈愛の心を同じくし、安危をともにすれば、戦(いくさ)では全勝する。その昔、優れた将軍が兵を用いていると、箪醪(たんろう)を寄贈する者があった。将軍はこれを河に投げすて、士卒とその河を流れる水を共に飲んだ。ひょうたん一本の酒では、皆とともに一河の水を味わうようには出来ないからである。将軍の慈愛心を我が身に感じた全軍の士卒は、この将軍のために死を致さんと思った。 

▽ 勇 分 

 全ての「勇」は大きく分けて三つに区分できる。それは大勇、小勇、血気の勇である。 

大勇というのは、偉大な人の勇気であり、優れた将軍の心である。自らが武器を直接手に取って闘い、敵兵を打ち倒すことは無いにしても、常に勝利に導くことにより軍の実権を掌中に収め、十分に考慮し、何があっても怒りにまかせて刹那的に行動すること無く、疑ったり躊躇したりせず、一度決心すれば死生を超越し、その道義心は金石のように堅固にして輝き、数万の兵卒の勇気の消長は将軍の一身に懸かっている。これが大勇である。 

心が正直で常に勇気を持ち続け、悪口を言われても気に留めず、敵を見ればわが身を顧みず、筋金入りの骨身と鉄石の心ではあるが、しかしその器量は偏狭である。これを小勇という。 

血気は旺盛であり、勇猛さと鋭さは千人の敵に匹敵するが、信義が少ないために意志が変化し易く、死生観も定まっていないのを血気の勇という。 

 世の主将であるべき人が、もしも大勇の心を失い、中下の勇気ある人ばかりを好んで用いるならば、これは家を亡ぼして身をも失う基となるに違いない。私の子孫の中にも、後世でもしも家を興し、棟梁(武家社会の筆頭格)ともなるべき者が有るならば、先ずは配下の者たちの人柄を心得て、諸事の別当(官司の長官)、それぞれの役職をも、その器量に応じて申しつけ、大小や浅深など事態に応じて斟酌し、計算すれば、そこが唐の天竺であったとしても、どうして難しいことがあろうか。ましてや(人材豊富な)我が国で難しいことなどあり得ない。その中のわずか河内と泉の両国で、たとえ一人の賢人を得ただけでも、最高の敬意を払って治めなければならない。 

まして数万の中から、優れた人材を採ることについて怠ることが無ければ、天下の賢明な武士が雲のごとくに集まり、四海の勇士たちが剣を携えて来会し、各々その功績を挙げようと努めるであろうことは、全く疑う余地も無い。 

ただひたすら己を正しくして広く良く統治された国の姿を思い抱け。広く良好な統治というものは、天の心の去就に任せるものであって、あえて自ら求めてはならない。 

▽ 天 宦(てんかん) 

時日や天官(国政を総轄し、宮中事務を司る古代シナ・周での官名)等の善悪や従うか背くかという事は、人としての道理を以てすれば、従うも吉となり、背くも吉となる。反対に道理に外れながら従えば、従いながらも背いており、背けば元より凶(不吉)となる。ただ人が誠心誠意・一所懸命に従いさえすれば、天地も従い、祷(いの)らずして吉となる。 

そうは言っても、事機に先立ち、天に先立っての明智がなければ、この事は十分になすことが出来ない。人を用いたり捨てたりするということは、時宜によるところが大きいものである。

2007/5/26