河陽兵庫之記 参 その1
▽ はじめに 

 日本兵法研究会の家村です。昭和57年4月、私は陸上自衛隊を陸士長(上等兵)で除隊して防衛大学校に入校しました。一旦、依願退職の手続きをとったのは、防大生の身分が同じ特別職国家公務員たる「自衛隊員」ではあっても、階級を有する「自衛官」ではないからでした。ここから、第30期生・人文社会科学専攻として、小原台(防衛大の所在地)での四年間の生活が始まりました。 

 学校長は、第四代・土田國保(つちだくにやす)校長でした。剣道で鍛えられたがっしりとした体格と天を突くような太い眉毛、鷹のように鋭いながらもその奥に慈愛心を醸しだすような眼が特徴的な、識見に富み、優れた人格の「紳士」でした。 

 学生たちをこよなく愛され、教育や訓練の現場にもたびたび訪れては、無言で学生たちの姿をじっと見つめておられました。剣道、柔道や柔剣道の朝稽古にも参加されて学生たちと共に汗を流され、週末にはいつも校長官舎に学生たちを招いて大いに飲ませ食わせて、楽しく歓談しておられました。このような素晴らしいお人柄でしたから、学生たちは皆、土田校長を心底から敬愛していました。 

 土田校長は、当時すでに60歳を超えておられましたが、それまでには実に苦難に満ちた人生を歩んでこられた方でした。 

 土田國保氏は、大正11(1922)年に東京でお生まれになり、旧制東京高校を経て、昭和18(1943)年、東京帝国大学法学部をご卒業後、内務省に入省されました。 

 大東亜戦争の最中、昭和19(1944)年9月に召集され、海軍主計中尉となられて空母「雲鷹(うんよう)」に乗船されました。「雲鷹」は船団護衛の任務を遂行していた際に雷撃を受けて沈没しましたが、土田主計中尉(当時)は、幸いにも僚船によって救助されました。 

 戦後は警視庁で勤務され、昭和50(1975)年には警視庁のトップである警視総監になられましたが、その4年前の昭和46(1971)年、新左翼過激派による「土田・日石・ピース缶爆弾事件」で奥様を亡くされました。 

 当時、警務部長であられた土田氏のご自宅に、お歳暮に擬装された爆弾が郵送され、その爆発により奥様が即死、13歳のお子様(四男)が重傷を負われたのです。事件当日、土田警務部長(当時)は記者会見に応じられ、マスコミ報道を通じて次のように犯人たちに訴えました。 

 「治安維持の一旦を担う者として、かねてからこんなことがあるかもしれないと思ってはいた。・・・犯人に言う。君等は『卑怯』だ。家内に何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察官の身代わりと思えば・・・、しかし二度とこんなことは起こしてほしくない。君等に一片の良心があるならば・・・」 

 この事件以降、土田警務部長(当時)は新左翼過激派に対して強硬な姿勢で臨まれ、警視総監時代には連続企業爆破事件の主要メンバー7人を検挙しました。 

 昭和53(1978)年2月、世田谷区内で現職の警察官(巡査)が女子大生宅に侵入し、暴行して殺害にいたるという前代未聞の事件が発生しました。土田警視総監(当時)は、この事件の責任をとって辞任されました。 

 その半年後の9月に防衛大学校の第四代校長となられ、私たち防大30期生が卒業した翌年の昭和62(1987)年3月まで小原台でお勤めになられました。8年半にわたり、将来の陸海空自衛隊の幹部自衛官を育てるお勤めに全人格を以てあたられ、ご尽力されたのでした。そして、21世紀を目前にして平成11(1999)年7月4日に膵臓癌のため、77歳で逝去されました。 

 私の在学中、土田校長は講話されるたび、学生に二つのことを要望されました。それは、『モチベーション(動機)の純粋さ』と『本物と偽物を見分ける眼』でした。 

 およそ一人の人間として、ここまでの悲哀を乗り越えて生きなければならなかった土田國保校長の運命とは何だったのでしょうか。私はいつも考えさせられます。しかし、このような土田校長なればこそ、明日の祖国日本の防衛を担う若人たちを育てる防衛大学校長としての使命を「天職」として与えられたのだということだけは、間違いないでしょう。 

 私は最も恵まれた時代の防衛大学校で、貴重な四年間を過ごしたのです。 

 さて、それでは本題の楠流兵法『河陽兵庫之記』に入りましょう。今回から第三章に入ります。この章から先は、「孫子」などの古代シナ兵法を基に、「闘戦経」の教えを加味しつつ解説していくこととなります。今回は、第三章の前段部分を現代語訳で紹介いたします。 

(平成24年1月10日記す) 

▽ 五 事 

 孫武曰く、兵は国の大事、死生の地、存亡の道なり。察せずんばあるべからず。故にこれを経(はか)るに五事を以てし、これを校(くら)ぶるに計を以てして、其の情を索(もと)む。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法なり。道とは、民をして上と意を同じくせしむる者なり。故にこれと死すべくこれと生くべくして危(うたが)わざるなり。・・・(孫子兵法 始計第一の文) 

これこそが真実である。兵とは、いとも簡単に凶器(暴力装置)となりうるので、いい加減な気持ちでこのことを口にしてはならない。たとえば、漢の光武は一回出兵させる毎に、その心労がひげや髪の色に現れたと云われている。 

この教えを自ら慎むのは仁将である。この教えを知る者は知将である。この教えを重んじるのは礼将である。この教えに勇気を覚えるのは義将である。この教えを将たるのゆえんとする者は信将である。 

それゆえに、「道」の教えを優先して天地を計(はか)り考え、その国の将軍や法律を正しいものにしようと心掛ける者は、皆この始計第一「兵は国の大事・・・」を尊重しているのである。そうであればこそ、国に「道」が有る時は勝ち、国に「道」が無い時には敗れる。 

「道」というものは、上下相互に正しくあって、人としての忠義を尽くす事である。人は誰しも生まれたときから、自らの中に天から与えられた善なる心を有さないものはないのである。上に立つ者に仁義の道があれば、下の者がどうして帰服しないことがあろうか。(必ずや服従する。) 

 そもそも上代(飛鳥〜奈良時代以前)には、人の心も素直にして純朴であり、世の中に聖賢の君主も多かったので、四海の内(国内)にもその徳化の恩恵を受けて「道」を知る士(さむらい:武芸をもって貴族や武家に仕える者)も少なからず存在したのであった。 

昨今、道徳の薄れた人情軽薄な末の世になったので、上に賢く能力のある君主も稀であり、下に廉直(心が清らかで私欲がなく、正直)な士もいなくなったので、兵の「道」を志す唯一の後継者も途絶えてこれを執(と)る人もいなくなり、凶器(暴力装置)という名称も何でもなく士が口ずさむようになって、これを慎む人もいない。しかし、今でも仁愛に富んだ賢明な主が上に存在して、兵の大事(国の存亡を賭けた戦争)を行おうとするならば、必ずや義戦に馳せ参じる者が現れるであろう。 

 そうであればこそ、「道」を実践するのに「天」を以てするというのは、常に寒暑・時制・陰陽・吉凶・天候・日時・方角等を勘案し、万民の労をわきまえ、民衆や兵卒の命を大切にし、尊重することにより、これをいい加減な気持ちで扱わないことであり、これが即ち将たる者の礼である。 

上に立つべき将軍が民の命を軽んじて土や芥(あくた)の如く扱えば、下の者たちは市中のただの人の如く危険に臨んで自ら命を差し出す者はいなくなる。これを人罰と呼ぶ人がいるが、これほど怖しいものはない。勝敗はここに有ることを知らねばならない。 

 「道」を実践するのに「地」を以てするというのも又、同様である。「地」は嶮易(けわしい、たやすい)・通絶・死生等である。一般的には大部隊を出動させ、戦闘する場合の勝ち負けや得失というものは、地形によることが多い。もしも地形を偵察して地の利をよく知っていなければ、多くの兵卒の命を堕とすことになる。後方に賢明な将軍がいたとしても、救うことはできない。前線に勇士がいても、十分に能力を発揮して戦うことができない。したがって、良将は嶮しく、踏破(とうは)困難な地形を熟知し、「無強を図制する」と云われる。 

「無強を図制する」とは、「強者無き軍団を意のままに図り、制する」ことであり、こうしたことが可能になるのは、人々が皆、将軍が民衆や士卒の命の痛みを感じているのだということを知り、たとえ死んでも全く恨まないという心があるからだ。このようにして、「地」の道をも又、これを得るようになれば、兵士たちの心も定まって、ここに勝気が実る。それゆえに、「良将の下に臆兵無し」と伝えられるのである。勝気の根元とはただ一つのものではなく、強者無き集団にまで到るものである。 

これまで述べてきたこと(「道」、「天」、「地」)が、必ず考察しなければならない三つの事である。 

 「道」を実践するのに「将」を以てするならば、何はさておいても軍の生き死にを左右する者をどうして厳選しないことがあろうか。(最適な人物を厳選しなければならない。) 

大部隊司令官の将軍たる人は申すまでも無いことである。旅や卒といった中・小部隊の指揮官一人ひとりであろうとも人選を誤り、適格性に欠ける時は、下級者が苦しみ、兵卒は親しまない。その悪評がついに上級の将軍や君主に及び、それでも止むことが無ければ、その咎(とが:罰されるべき行為、非難されるような欠点)を以てこれを斬ることになる。これでは誅殺(罪をとがめて殺すこと)が止むこと無く、上下の心が相互に離れて、万事が成功しない。このような状態を「孤軍」と名付けられ、弓などの武器を用いるにも、正しい道理に拠り用いること無く、弓馬の家業も未熟な者ばかりである。 

下級者に不忠の心が湧き出てきたり、風俗が善良へと移らない根源は、全て上級者にして長たる者の人選が悪いことに起因する。『三略』下略に「賢人帰する所は其の国強く、聖人帰する所は六合同す」とある。いつの時代でも、ことと次第により下級者は上司の情に依拠して、一時の恩でさえも感じるのであるから、最も適格な人物を選ぶことが重要である。 

 「道」を実践するのに「法」を以てするならば、我々の「道」はもとより、節制(規則正しく統制がとれていること)であるとともに、曲法(軍隊の編成区分を定めた法)を前提としたものでなければならない。 

ただ愛するだけで禁ずることが出来ないのは「法」が無いということである。兵が多数集まっても、隊列区分がなされないのも「法」が無いからである。勝つことだけを追求して止まることがないのも「法」が無いからである。譎詭(きけつ:うそを言ったりして人を欺くこと)ばかりで正しいことが無いのも「法」が無いからである。敵に全勝できないのも「法」が無いからである。 

法令がよく整い、我が先ずこれらを全うし、己を治めてから他を責める。こうすれば、どうして克服できないことがあろうか。「法」は「理」である。「理」の外に「法」は無い。法令が出ても、人がこれを信用して受け入れないのは、道理において未だに尽くされていない所があるからに他ならない。 

これまで述べてきたこと(「道」、「天」、「地」、「将」、「法」)が必ず考察しなければならない五つの事である。 

 こうしたことから、孫武が「之を経(ただ)しうするに五事を以てす(五つの事がらにより勝敗をはかり考える)」と謂われるものは、切に兵法家としての教え・戒めを示すところのものであり、「専ら己に克ちて而して敵無し」とする所以である。そうであればこそ、「良将は勝つことを難きに求めず」とされるのである。こうした言葉は、道理に外れたことによって勝敗をはかり考えない、という意味である。戦う前に勝敗をはかり考えることで、勝ち易きに勝つのである。 

「兵とは不祥(良くない、不吉なもの)である」というけれども、その道理を悟り、実践できる者がこれを用いれば、どうして兵を不祥などと云えようか。元より人には生まれながらに天与の五才(仁・智・礼・義・信)というものがある。凶器などというのは、干戈(武器)そのものを指すに過ぎない。 

吉凶は、人がこれをどのように為すかであり、聖人がこれを用いるときは即ち「吉」、愚劣な者がこれを用いるときは即ち「凶」となる。懲悪攘乱(悪を懲らしめ、乱を打ち払う)の徳こそが、最高の徳であり、これに及ぶものは何も無いのである。

2007/5/26