河陽兵庫之記 参 その2
▽ はじめに 

 日本兵法研究会の家村です。皆様にご愛読いただいております「楠流兵法 ―孫子と闘戦経の実践―(河陽兵庫之記)」も今回と次回をもって終了いたします。これまで、冒頭では私の自衛官時代の思い出を述べてまいりましたが、最後の二回で私が幹部(三等陸尉)に任官して間もない頃、北海道の戦車部隊での忘れられない話をいたします。 

 昭和61年3月に防衛大学校を卒業した私は、陸曹長に任官して幹部候補生となり、同年4月から9月までの間、九州の久留米駐屯地に所在する陸上自衛隊幹部候補生学校において幹部候補生としての教育を受けました。 

 卒業直前、幹部候補生全員に対して職種と所属先が通知されました。私の職種は「機甲科」、所属先は北海道の北恵庭駐屯地にある第72戦車連隊でした。幹部候補生学校では、学生隊舎と食堂を往復する道路の脇に74式戦車が教育用に展示してありました。私は、この展示戦車を見るたび、幹候校卒業時には機甲科隊員になり、この74式戦車に乗ってみたいものだと毎日思っておりました。この思いは日々強くなり、いわば熱望にまでなっていたので、職種と所属先部隊の通知を受けた瞬間、これは夢ではないかとさえ感じた次第でした。 

 戦車連隊は、陸上自衛隊で唯一の機甲師団である第7師団の基幹部隊です。一般の師団では、3〜4個の普通科(歩兵)連隊が基幹部隊であり、それらを1個の戦車大隊が中隊単位で支援するのですが、第7師団だけは、この普通科と機甲科の関係が逆です。つまり、戦車部隊を主体にしたコンバットチーム(戦闘団)を組めるのです。戦車も全て最新型(当時)の74式でした。こうしたことは、同じく機甲科職種に指定された同期生たちからも大変うらやましがられました。 

 この年9月から翌年(昭和62年)2月まで、第72連隊の第4中隊で隊付幹部候補生として幹部勤務の実習を行い、3月からは陸自富士学校に入校し、機甲科幹部初級課程を履修しました。機甲科幹部初級課程では、戦車小隊(自らの戦車を含む4両の部隊)の指揮や射撃術、車両整備などの基本的な事項を学びました。この間の7月に三等陸尉に任官し、10月頃に卒業して中隊に還ってからは、いよいよ新品少尉としての幹部勤務が始まりました。私が25歳の秋のことでした。 

 私は第3戦車小隊長として、隊員15名※(解説参照)のリーダーとなり、大雪原で戦車小隊を指揮して戦闘訓練や戦車砲の射撃訓練など多忙な日々でした。スキー訓練では、昔とった杵柄(きねづか)で、連隊競技会「階級別リレー」種目の幹部選手として走りました。若さだけで何事にも全力投球できた充実した毎日でした。 

※(解説) 戦車1両は、車長、砲手、操縦手、装てん手の乗員4名で構成されており、小隊には第1車から第4車までの4両があるので、4名×4両=16名。小隊長は、同時に第1車の車長でもあり、自分の戦車と小隊全体の両方を同時に指揮する。 

 当時は東西冷戦たけなわで、北恵庭駐屯地にも第72連隊を含めて3つの戦車部隊が駐屯しており、駐屯地は2百両を越える戦車と隊員達で溢れんばかりでした。隊員の中には防大時代から知っている先輩や同期生もおりました。又、防大卒や一般大卒の若手幹部は部隊の垣根を越えて勉強会や飲み会などを企画して親しく交流していました。特に独身幹部たちの夜の交流は盛んで、毎晩のように繁華街の飲み屋にくり出しては、大いに飲んで熱く語り合いました。 

 こうした私の「独身貴族」の優雅な日々も半年で終り、昭和63年5月の連休中に郷里の東京にて結婚式を挙げ、自家用車で北海道一周の新婚旅行の後、そのまま駐屯地近くの官舎にて新居を構えました。 

 当時の私は、中隊での初級幹部としての勤務をこなしながら、連隊の陸曹候補生を集めての履修前教育(陸曹教育隊に行くための事前教育)の教官を担当させられ、さらに自らも方面隊の化学係幹部集合教育(化学戦防護などの特技者になるための教育)を受講しているという「狂人的多忙なる日々(当時の日記より)」でした。 

 そんな中で一週間ほどの野営訓練があり、家にも帰らずに演習場での訓練が続きました。野営訓練を終えて帰宅し、妻と数日ぶりに夕食を共にしていると、妻が涙を流しながら食べています。私と同郷の妻には、北海道に親戚・縁者が誰もおらず、結婚して数週間がたっていましたが、よく考えてみると引越し荷物も積んだままでした。部隊勤務に忙しい毎日の中で、家のことも妻のこともほとんど眼中に無かったのでした。「忙」の字の如くに「心を亡くしていた」のです。この時は、自分の不甲斐なさを深く反省しました。 

 それから数日後の土曜日の夜8時ごろ、同じ官舎に住む○○二尉から電話がありました。○○二尉は防大の二期先輩でしたが、学生時代は自他ともに何事にも厳しく、妥協しない方であり、後輩の学生たちから恐れられていました。私と○○二尉とは学生時代の接点もあまり無く、戦車連隊の勤務でも中隊が違うため、日頃はほとんど付き合いがありませんでした。そんな○○二尉からこんな時間に何の用件だろうかと不思議に思いましたが、電話でこのように言われたのでした。 

 「今から、うちに飲みに来ないか?」 

 私が了解すると、「それじゃあ、奥さんを連れて来いよ。・・・」とのことでしたので、すぐに妻を連れて隣棟の○○二尉のお宅に伺いました。 

 それから3時間ほど、○○二尉ご夫妻と私、そして妻の4人で飲みながら話をしました。日頃さほど親しくもない先輩幹部のお宅で飲みながら何を話したのか、正直なところ今では全く思い出せません。当時の日記にも一行「2000ごろから妻と○○さん宅へ行く。お子さんが大変可愛かった。」と書いてあるだけです。それでも、2歳ぐらいの小さな男の子と女の赤ちゃんがいたこと、そして○○二尉ご夫妻が、ご両人とも九州のご出身だということだけは、今でもはっきりと覚えています。 

 この時以来、妻は○○二尉の奥様とすっかり仲良しになり、旦那の勤務中も官舎でお互いに行ったり来たりできるような友達付合いが始まりました。官舎での日常生活に係わることや、子育てについてなど、いろいろなことを教えていただき、東京を遠く離れた北海道生活の不安もすっかり解消したようでした。 

 さて、それでは本題の楠流兵法『河陽兵庫之記』に入りましょう。今回は「孫子」などの古代シナ兵法を基に「闘戦経」の教えを加味しつつ解説している第三章の中段部分を現代語訳で紹介いたします。 

 (平成24年1月18日記す) 

▽ 五 兵 

 兵法では、五つの兵(この場合の「兵」は、いくさ、軍隊の運用という意味)があるとされている。 

一には「公兵」である。公兵というのは上古(大化の改新より前)の聖神真武・天理応行とでも言い表すべき、最も優れたものである。すなわち千の敵を殺して一の救世をなすための便宜的な手段であり、殷の湯王や周の武王の軍のように、天をも欺(あざむ)かず、人をも欺かずというのがこれである。 

二には「正兵」である。正兵とは覇者の兵であり、我が身を修めて部隊の戦力を振るわすことを根本とし、武の威厳を以て天下を鎮めるものである。斉の桓公、晋の文公、日本における源頼朝のように、困難を乗り越えて学びかつ戦う者たちが行ういくさがこれである。 

三には「義兵」である。義兵とは、朝敵や父祖の仇(あだ、復讐)、或いは国家の為に止むを得ないものであり、敢えて自他を省みることも無い。父の仇であれば「?(とも)に天を戴かず(どうしても生かしては置けないと思うほどに深く恨むこと)」、兄弟の仇では、「朝して兵還らず」等の類のものである。 

四には「断兵」である。断兵とは、他の弑逆(しぎゃく:君主や親を殺害すること)、内乱によって、敵国が安定しないときには常に、速やかに軍を出してこれを平らげるものである。これにより、不義を断じて人倫の法を正しくするものである。 

五には「匡兵(きょうへい)」である。匡兵とは、天下四海が久しく乱れて戦闘が止むことなく、万民がこれに苦しむ時、聖将が世に出て、民の信頼を集めて匡済(悪をただし、乱れを救うこと)するものである。漢・唐の太宗のようなものである。 

 儀礼には、「九伐の法を以て邦国を正す」と云われる。 

弱者を侮(あなど)り、少ない勢力であれば阻害するようなときには、これをわざわい(「生」の下に「目」)する。「わざわい」というのは、例えば太った肥満の人をして痩せさせるようなものである。 

賢明さをそこない、民を害するようなときには、これを伐する。伐というのは征伐のことである。 

国内や領内で暴動がおこり、国外や領外からの苦難や苦境に耐え忍ばねばならないようであれば、これを弾(ただ)す。弾というのは「空弾の地(=弾す必要がない状態)」にこれを復旧させることである。 

野が荒れて民が散っていくときには、これを削る。削とは削ってこれを小さくすることである。 

頑固に抵抗して服さないときは、これを侵す。侵というのは、兵を発してその国を侵攻することである。 

その親を賊殺するときは、これを正す。 

その君主を放殺するときは、これを残(そこ)なう(=捕らえて殺す)。 

法令を犯して政治を侮るときは、これを杜(ふさ)ぐ(=防止する)。 

外内が乱れて鳥獣のような行いがあるときは、これを滅する。 

このように、用兵家の方途は、いずれもそれにより「不義を警める」ことを旨とするもので、非礼にして(兵の)利用を私的なものにせよなどと云う事は、未だに有ったためしがない。この世の兵備が存在するのは、乱臣賊子を禁ずる鎖としてのみである。どうして、権力者が自己の欲に執着して公の天下を煩わすことが許されようか。それゆえに、「百戦百勝も善の善なるものに非ず、ただ小善の無善に勝つ所以なり。」と云われるのである。 

 このように兵法においては、いつでも自己を省みて、まさにこれに勝つべくして勝つものは『理』の外にはない。 

理とは彼と我とを知ることを云う。そうであれば、彼を知るときは我を知らず、我を知って彼を知らないときには、すなわち一戦は勝ち、一戦は負けると云われる。孫武は、「未だ戦わずして廟算するに、算を得ること多き者は勝ち、算を得ること少なき者は負ける。然もいわんや算無きに於いておや。」と云っている。この算するというのは、すなわち理を算することである。 

もしも理の外に勝つことを求めれば、それは銘刀を以て莫耶(春秋時代の名剣)を斬ろうと思い、卵をぶつけて堅い甲を砕こうと思うのと似たようなものである。天地の間に存在するいかなる物も、理の外に出ることはない。よくその道理に帰して、我を捨てて行動するときこそが兵というものである。例えば君と臣と、父と子と、天下のためと我一己のためとで何かをするのであれば、君と父と天下のためにすることを選び、臣と子と己のためにすることを捨てるのが道である。理である。 

いかに末世の風俗が浅ましく成り下がったといっても、もしくはあのような闘争(南北朝の争乱を指す)で、君と父とを捨て、わずかに己個人のために従うことが、どうして人としての理であろうか。あらゆる心の動きの中でも、人を尊いとするものは、ただその道理を知ることをもって尊いとするのである。 

それに加えて、人の命はせいぜい六十年、寿命長くても七十歳、百歳に及ぶ者は古今稀である。暫時の身命であるのに、不道不義の者となってしまうことは、無念の次第である。我が子孫たるもの、もしもその生涯に南北朝の争乱のような事態があれば、いかなる時も自らの命を君のために奉げて、できる限りの謀計を回らし、それが叶わなければ屍を義の路に曝(さら)そうと思うのであれば、道理は必ずその中にあるのだと知らねばならない。 

 また、兵法理論の講習には常に参加し、信実に貴重なことを学び取ろうとして熱心にこれを聞け。これは当道のみを特に貴重なものだとするのではない。兵法は人命、死生に繋がることであり、孫武のいわゆる「国の大事」としてこれ以上のものは無いからである。 

諸々の兵器等もまた、同様である。かりそめにもこれを軽易にすることがあれば、当道の士ではない。負版者に軾(ひざつき)すとは、(神事や宮中の行事などで、地面にひざまずくとき、半畳ほどの敷物を地上に敷いて汚れをふせぐ)古者の礼である。ましてや兵器にこうした敬意を払わないことがどうして許されようか。このことを察するべし。

2007/5/26