河陽兵庫之記 参 その3
▽ はじめに 

 日本兵法研究会の家村です。皆様にご愛読いただいております「楠流兵法 ―孫子と闘戦経の実践―(河陽兵庫之記)」も今回をもって終了いたします。本題に入る前に、前回から引き続いて私の戦車小隊長時代の忘れられない話をいたしましょう。 

 私が三等陸尉に任官して2年目の昭和64年1月、昭和天皇が崩御され、同年2月に大喪の礼、そして元号は平成へと変わりました。世界の情勢は東西冷戦が大きなターニングポイントを迎えつつありました。前年の4月にアフガニスタン和平協定が調印され、この年2月にはアフガニスタンからソ連軍の撤退が完了しました。6月には北京の天安門で民主化を求める若者たちが人民解放軍により虐殺され、8月には東ドイツの市民が西ドイツに集団で脱出、10月には共産主義陣営のハンガリーとポーランドで民主化改革がなされました。 

 この平成元年10月、我が第72戦車連隊は、二週間にわたる日米共同訓練に主力部隊として参加しました。場所は北海道大演習場、共同相手は米陸軍第25軽歩兵師団(ハワイ)の第1旅団でした。軽歩兵師団は、輸送機やヘリコプターでの空輸によりどこへでも短期間で展開できるように編成された部隊です。そのため戦車、装甲兵員輸送車や自走砲などの重装備は保有していません。 

 この共同訓練の間、我が第4戦車中隊は、米第1旅団C中隊とパートナーを組みました。訓練開始に先立ち、C中隊の兵士たちに74式戦車を展示説明したところ、彼らが是非乗せてほしいと言うので、希望者を戦車に乗せて演習場内を走りました。生まれて初めて戦車に乗った彼らはエキサイト(興奮)し、うれしそうにはしゃいでいました。 

 その後は、日米共同の射撃訓練や戦闘訓練、そして三夜四日にわたる連続状況下での総合訓練など、盛り沢山の日程でした。常夏の島ハワイから初冬の北海道に来た米軍兵士たちは、慣れない気候と初めての戦車との協同訓練にもかかわらず、すぐに環境に適応し、真剣かつ積極的にそれぞれの訓練に臨んでいました。 

 米軍の兵士たちは皆、自分の任務に対して旺盛な責任感をもっており、又、止まったら姿勢を低くし、あるいは、少しの時間でも穴を掘り、鉄条網を直ちに設置するなどの基礎動作・基本的行動が徹底されていました。彼らの頭髪は例外なく丸坊主に近いぐらい短く、服装は端正であり、しかも上官に対しては礼儀正しく、自分より階級が上であれば自衛官にも必ず敬礼を行っていました。こうした精鋭な下士官・兵たちの姿は、かつての大日本帝国陸軍の軍人を髣髴(ほうふつ)させるものがありました。 

 米軍は、訓練でも常に実戦と同じ状況を最大限に追及して行動していました。陸自のように荷造りテープなどで鉄条網を、又、丸太を薄く切った木片で地雷を設想(仮設)して訓練するようなことはしません。すべてが本物かそれに類似した訓練用ダミーによる実設でした。米軍にはそれだけ、訓練に費やす人・物・金と時間が潤沢にあるようでした。 

 これらの訓練の合間を縫うように日米間でのソフトボール大会、餅つき大会、や幹部同士の懇親会などがありました。最後の総合訓練が終了した晩には、野外での合同パーティーがありました。いずれも言葉の違いなど何ら支障なく大いに盛り上がりました。こうした楽しいイベントに引き続き、日米の隊員相互に宿営地を訪問してビールや焼酎を飲み交わす機会も何度かありました。 

 私たちの宿営地では、小隊毎に7m四方ほどの大きさの天幕で宿泊していました。小隊長を中央にして、15名の隊員が一人あたり1畳ほどのスペースで寝たり食べたりしていました。小隊長の食事の上げ下げは、第一車(小隊長の乗る戦車)装てん手の任務でした。 

 合同パーティー終了後、小隊の隊員が仲良くなった米軍兵士たちを我々の天幕に連れてきたので、皆で歓迎して大いに飲み、語り合いました。一人の米軍兵士が酒に酔いながら「I can die for Freedom!(俺は、自由を守るために死ねる!)」と何度も叫んでいました。又、ある兵士は、私がこの天幕で小隊員たちと寝泊りしているのを知って、「米軍では将校と下士官・兵がこのように同じ天幕で寝泊りすることなど絶対にありえない」と大変驚いていました。 

 この日米共同訓練は、私の自衛官人生の中で最も楽しく、思い出深く、かつ多くのことを学んだ訓練でした。何よりも、米陸軍とはどのような組織か、それを構成する将校や下士官・兵たちがどんな連中なのかを肌身で知ることができたのです。彼らは皆、日本を好きになり、自衛官を「共に闘う仲間」であると本気で思っており、我々陸自の実力を心底から信頼していました。 

 当時、共産主義陣営の結束が揺らぎ始めているのは明らかでしたが、それでも、わずか2年後(平成3年)にワルシャワ条約機構が解体され、ソビエト連邦が消滅するなどとは思いもよりませんでした。極東ソ連軍による最大規模での侵攻を想定すると、北海道の戦車の数はまだまだ不十分であり、さらに増強する必要がありました。そこで、第7師団の各戦車連隊は、それまでの4個中隊編成から5個中隊編成に改編されることになりました。 

 日米共同訓練を多大の成果で終了した我が連隊でも、第5中隊を新たに編成する事業が本格化してきました。このため、翌年(平成2年)3月末までに1個中隊分の戦車18両を始めとし、所要数の装甲人員輸送車、トラック、ジープや武器などが逐次、連隊に納入されてきました。 

 車両や武器といった「モノ」を集める以上に困難を伴ったのが、「人員」でした。各戦車連隊では、第5中隊の基幹要員の差出しを第1から第4の各中隊に配分しました。このため、各中隊長はどの隊員を自分の中隊から新編中隊に差出すかで悩んでいました。私の戦車乗員(砲手)であったM2曹は、射撃や銃剣道の達人で、たいへん優秀な隊員でしたが、彼も第5中隊の基幹要員に指定されました。各中隊長は、建前上は、連隊の精強化のために自分の中隊の優秀な隊員を惜しまず差し出さねばなりませんでしたが、自分の中隊のことを考えると優秀な隊員ばかりを差出すわけにも行かないというのが実情でした。 

 これら連隊内の基幹要員と本州や九州からの転入予定者を合わせても、まだ新編中隊を構成するだけの人員は不足していました。これに対応するため、師団では普通科(歩兵)や特科(砲兵)などの他職種部隊から隊員(陸曹のみ)を集めて職種転換教育を施し、新たに機甲科隊員となった者で不足分を補充する計画でした。この職種転換教育を、我が連隊の○○二尉が担任しました。 

 平成元年から同2年にかけての冬、雪の降り積もる駐屯地や演習場で職種転換教育が連日行われました。長年にわたり、普通科や特科など機甲科以外の職種部隊で勤務してきた陸曹たちを短期間で戦車乗員にさせることは、けっして容易なことではありませんでした。個人差はありますが、やはり長い年月をかけて培ってきた感覚的なものが、職種に応じて違うのは仕方のないことでした。それでも、人一倍責任感の旺盛な○○二尉は、自分に与えられたこの厳しい任務を真摯(しんし)に、そして積極果敢に遂行しておられました。自分たちの新たな仲間を育てるために・・・。 

 そして、あの悲しい事故が起きました。 

 ある雪の日の単車訓練(戦車1両を対象にした訓練)でのことでした。○○二尉は、教官として走る戦車の砲塔の上に腰掛けて座りながら「車長」役の職種転換要員を指導していました。(「車長」と「装てん手」は、砲塔内に位置し、ハッチから顔を出しているだけでした。)この訓練の最中、林内の道を猛スピードで躍進(やくしん)する戦車の砲身が斜め前を向いたままでした。このため、砲身の側面が道路わきの太い立ち木に激突し、直進する車体の上で砲塔だけが急速に回転、その瞬間の激しい遠心力で○○二尉だけが車外に放り出されました。○○二尉は、頭部を激しく打って亡くなられました。 

 一瞬の出来事でした。 

 事故の知らせを受け、病院で○○二尉の死亡を確認された連隊長は、すぐに官舎を訪れ、断腸の思いで○○二尉の奥様にこのことを伝えました。そして、驚くべき言葉を耳にしたのでした。 

 「主人と一緒に戦車に乗っておられた方たちは、ご無事でしたか?」 

 これが、夫の死亡を知らされた二十代の妻の最初の一言でした。奥様を通じて発せられたこの言葉は、真の武人として常に己に厳しく、他人に優しくあった○○二尉の「生き様」そのものでした。 

 「もしも俺に何かあっても、俺よりもまず部下たちのことを気遣え。・・・」 

 ○○二尉は常々、そのように奥様に教えてこられたのでしょう。 

 即日、駐屯地体育館で特別昇任された○○一尉の部隊葬が執り行われました。棺の中には、訓練に疲れながらも日夜熱心にご勉強されていたことがうかがわれる、沢山の線が引かれた陸自戦術教範「野外令」が添えられていました。 

 部隊葬では、最後にご遺族を代表されて○○一尉のお父様が、次のようなお話をされました。 

 「息子が防衛大学に入学した最初の夏休み、真っ白い制服を着て九州の実家に帰省しました。久しぶりに息子を囲んで家族皆で夕食を共にしましたところ、息子がいきなりこう言いました。 

 『お父さん。もしも僕に何かあったときは、靖国神社に来てください。』 

 その時は、突然何を言い出すのか・・・、と皆で笑い、あとは楽しく歓談しました。しかし、昨日、私と家内とで九州から北海道に来る途中、羽田で飛行機を降りまして、・・・私と家内で・・・靖国神社を参拝してまいりました。・・・」 

 ○○一尉のお父様は、ここまでおっしゃられると泣き崩れられ、後はもう言葉になりませんでした。 

 体育館での葬儀が終り、棺は○○一尉が所属されていた第○中隊の隊員による儀仗隊に護衛されながら駐屯地正門へと向かいました。○○一尉が駐屯地を去って行かれるその時、儀仗隊が空に向けて一斉に64式小銃の空包射撃を行いました。これを「弔銃」と言います。 

 ダダーン、・・・ダダーン、・・・ダダーン、・・・ダダーン、・・・ 

 北海道の冬空に、乾いた銃声が響き渡りました。私の自衛官人生で最も悲しく、そして、生涯忘れることの出来ない光景でした。 

 さて、それでは本題の楠流兵法『河陽兵庫之記』に入りましょう。今回は、第三章の後段部分を現代語訳で紹介いたします。なお、これをもちまして皆様にご愛読いただきました『楠流兵法 ―孫子と闘戦経の実践―(河陽兵庫之記)』の掲載を終了させていただきます。 

 (平成24年1月25日記す) 

▽ 五 逆 

 道理に外れて兵を用いる、これを逆乱の世という。逆には五つある。 

一つには、主君が不道(道に外れていること)で下の者を苦しめ、法を無視して民を殺し、民を土や芥(あくた)の如くに視るようであれば、諸人は怨んで逆心を抱く。これを怨逆という。 

二つには、主君がいつも人を妬み、疑い深い。あるいは旧悪をいつまでも咎(とが)めることで、諸人が心を安んぜられないときには、恐怖の余りに却って謀叛を企てることになる。これをこう逆という。 

三つには、法律が杜撰(ずさん)で道理にそむき、徳義にもとっており、あるいは過酷なまでに厳格で、万民が心を安んぜられない。あるいは君主の性格が優柔で弛緩し、怠け者であって、悪事を進んで行うようであれば、下の者も又、法令を侮り、これらによって遂に反逆を策することがある。これを法逆という。 

四つには、徒党を組んで、その与力が広く及び、あるいは親類一族が勝ち馬に乗って、傍若無人にして、驕り高ぶって反逆を策すものがある。これを党逆という。 

五つには、権力を持った家臣が相互に威を争い、敵対者を忌み、別の敵対者を憎み、主君の寵愛を受けるものを嫉み、恩恵を妨げ、遂には逆心を抱く者がある。これを覆逆という。 

逆の根源は各々異なるといえども、乱世のために下のものが長きにわたり困窮することになる。それゆえに、主君は主君であることの容易ならざるを思い、そう思えばこそ、どうして前もってこのことを知らないでいられようか。 

 又、将帥が法令に随わずに軍を起こす。これを乱という。乱には五つある。一つには争乱、二つには暴乱、三つには過乱、四つには奸乱、五つには内乱である。 

争乱とは、名を争い、利を争い、あるいは権柄(けんべい=人を支配する権力、政治の実権)を争い、相互に確執して戦を起すことである。 

暴乱とは、国を治めず、民と親しみ合うこともなく、専ら我が強盛を頼みにして戦を好むことである。 

過乱とは、過度に勇猛であることから兵事を慎まず、あるいは怒りにより、欲によって戦を起すことである。 

奸乱とは、奸僻(心がねじけ、ひねくれていること)であって人を苦しめる事を好み、成功を妨げ、不義を勧め、こうして乱を引き起こすものである。 

内乱は、国内に人倫の行跡が乱れて、人畜相互に乱闘になって止まない状態である。 

このような乱世の時には、何よりも手立てを回らして我が身の損失を免れ、終には賊を討ち亡ぼして世を治めようと思うこと。これが武略の方途である。そうではあったとしても、しばらく身を遁れる為だとして降伏して命乞いをし、復讐すべき敵の前に塵を払うような者は勇士ではない。ただし、敵対する中にあっても「弛み」と「張り」とは有らねばならない。 

争乱を招く者には、利益によりこれを誘い、与えてからこれを奪う。 

暴乱を招く者には、へりくだってこれを驕り高ぶらせ、時が来るのを待ってこれを挫く。 

過乱を招く者には、潜んでこれを誤らせ、混乱させてから討つ。 

奸僻なる者には、義の心を持って決断し、一気に討伐する。 

内乱にあっては、すなわち「正兵」の武威をもってこれを弾(ただ)す。 

(楠流兵法 ―孫子と闘戦経の実践―(9)「▽五兵」参照) 

大抵の場合、兵が詭道を用いても「邪」ではなく、ただ乱を鎮めて世の中を治めたいという心である時には、その本性は自らの「忠信(まごころを込め、嘘偽りが無い)」に有るということを悟らねばならない。人の不義を憎んで、己もまた不義となる者は、秋雨が自ら露を堕として、共に消滅するようなものである。賊を以て賊を討ち、乱を以て乱を討つというのがこれである。 

そうであればこそ、兵の性とは弓のようなものである。弓の形を曲げるのは、矢を真直ぐに飛ばす為であり、兵の行動を詭(いつわ)るのは、この世を正しくする為なのである。 

 夫れ能くして而して之に能くせざることを示す。用ひて而して之に用ひざることを示す。近くして而して之に遠きを示す。遠くして之に近きを示す(『孫子』始計第一)という教えは、孫子の謂うところの兵の詭道である。 

鷙鳥(しちょう ※)まさに撃たんとして卑しく飛んで翅(し:つばさ、はね)を歛(おさ)む。聖まさに起たんとして必ず怯色有り(『六韜』発啓第十三)という教えは、呂尚の伝える所で、相手の不意を突けということである。 

※ 鷲、鷹のように他の動物を捕らえて喰う、性質の荒い鳥 

その根本を推(お)し量り、その末梢を恕(おもんばか)ることができてこそ兵道でいうところの「権 ※」が、自然に大治の極みと合致することになるのである。 

 ※ 状況を急変させて、にわかに勝敗を決定づける決め手 

▽ 陰 謀 

 太公(前漢の高祖・劉邦の父)によれば、陰謀には十二の鉄則があるという。 

一つには、敵が好き好むようなことをやって重要な事を知り、自分の意志に従ってこれに逆らってはならない。そうすることによって重大事を知り得たならば、謀(はかりごと)を速やかに実行すべし。 

その二つには、敵の愛する人と親密になって、その人の心に疑念を抱かせる。疑うときには、その国は必ず危うくなる。そうすることによってある事を謀ることができれば、計略は成功する。 

三には、敵の寵愛する家臣に賄賂を与えてその情報を得ることができれば、その謀は容易に実行できる。 

四には、敵が欲深く淫らにして無礼であれば、ますます増長させ、とがめてはならない。臣下も怨み、民衆も離れていって謀は達成できる。 

その五には、敵の忠臣である者に対しては、少しばかりの賄賂を与え、誠実さをもってこの者との親しみを厚くせよ。親しみを得てから事をなせば、その謀も又必ず達成できる。 

六には、その国の世俗を視てその事を謀れ。媚びへつらいや色欲に溺れさせて寵愛を被る者があり、賢明な臣が日に日に遠ざかるならば、その国は必ず亡びる。亡びるに及んでこれを計略すれば謀は達成できる。 

七には、敵の嗜むことにおいて利益を与え続けて、本来の業務を怠らしめ、倉庫を空にさせ、その国を虚脱状態にしてから計略すれば、必ず謀は達成できる。 

八には、賄賂は必ず奇物珍宝によって行え。珍宝を与えてさらに珍宝を求めさせれば、その結果として謀の機会が増大し、実行し易くなる。 

九には、敵を大いに尊敬するとともに、自分が愚者であるかのように振る舞え。 

十には我と交わる人を必ず信じてその意思を強固なものにせよ。意気投合し、その人が我の用を成すときは、主君は間違いなくその人の心外にある。主君が心外に有って我れが心中にあるとき、謀は容易に成功するものである。 

十一には、その内部(組織)を開放したり閉鎖したりするようにして、通したり塞いだりを自由にし、時が至れば天が万物を枯らすようにせよ。 

十二に間諜(スパイ)によって隠密に敵情を察知し、自然な人情の機微によってこれを計略すれば、謀は必ず達成されるのである。 

▽ 用 間 

 およそ人を用いることなくして敵を計略しようとするのは、最も智にあらざることである。その人のことを熟知してからこれを用いるということは、神明天人を得て計略するに等しいものである。そうであれば、聖にして智なる将軍には、六種類の忍び(スパイ)があると云われる。いわゆる因口間(いんこうしのび)、内良間、反徳間、天上、死良、奪口がこれである。 

因口間というのは、郷人の中で必ず一人だけと言葉を通わせる。その人物が誰であるかは機密とされ、神も知らないほどである。 

内良間とは、身近の家臣や親族をもって我が忍びとして備えておくものである。これをどのようにして用いるかについては、極めて奥深いものがある。 

反徳間とは、敵が忍びを用いる場所において用いる忍びである。顕々の忍び(二重スパイ)というものは、その道が極めて奥深いものである。この忍びが理に適(かな)っている時には、敵をして家臣の如くならしめる。 

天上とは、敵側の情報網を経由して敵に影響を与える方法である。その事は一つではない。 

死良とは、我が謀略をもって単独で敵に止めを刺すことである。決断して一時に勝ちを執るべきものであり、再挙は無い。それにより一挙にして天下が大いに定まるのである。 

奪口とは、天下の人をして忍びの使いとなすものである。その情報は秘密度が高く、広範囲にわたり、多大であるのは、ここに記し尽くすことができないほどである。 

 およそ大将の心術や戦の微妙は、忍びに及ぶものはない。人材を得て忍びを十分に活用できるときは、実をもって敵を知り、虚をもって敵を知り、天地さえも知り尽くす。ましてや、人の心を知れないことがあろうか。たとえば優れた医者の前には薬とならない草木が無く、凡庸な医者の前には良薬もかえって毒薬と成るようなものである。 

物類に応じて千万端に忍びを発するならば、どうして先に述べた六種類だけで済むだろうか。さらに様々な忍びがあるだろう。そうであれば、忍びがいる所には音も無く、臭いも無いのだが、聖智で無ければこのようなことを十分に為すのは難しい。利巧でなければその時を得ることが難しい。忍びの中に忍びあり。口伝。

2007/5/26