【第3回】日本陸軍の対上陸作戦思想の背景 ― 元 寇
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・戦争は人間によって行われる。それ故に戦争を理解しようと欲する者は、特に肉体的、精神的な影響に対して反応する「人間」を知らなければならない。・・・ 

 コンラット・フオン・ヘッツエンドルフ(オーストリアの参謀総長) 

・・・戦争を研究すればするほど、その原因は政治的あるいは経済的というよりは、むしろ心理的なものであると思えてくる。・・・ 

 リデル・ハート(イギリスの戦略理論家) 

・・・戦争になれば、民衆は軍人精神を精神的支柱として行動する。・・・ 

 ド・ゴール(フランスの将軍) 

 日本兵法研究会会長の家村です。こうした名言からわかるとおり、どんなに科学技術が発達して兵器が無人化され、その精度が著しく向上し、その威力・破壊力が増大したとしても、やはり戦争というものは人間の「精神」や「心理」に対する深遠な洞察力が無ければ理解できないものです。そして、戦争の基本的な原因が、価値観の相違が生む「怨念」と、軍事力の空白や不均衡に乗じて自己保存と繁栄を追い求める「欲望」であると云われるように、国家という「感情に支配される人間の集団」が相互に意志と意志をぶつけ合う戦いこそが戦争の本質です。 

 こうした意味で、大東亜戦争もまさに、日米両交戦国の国民同士の意志の戦いでしたが、その戦い方は日米で全く異なりました。日本が第一線で米軍兵士を殺傷して間接的に米国民の戦意を喪失させようとしたのに対し、米国は日本本土の都市を無差別爆撃することで直接的に日本国民の戦意を破砕しようとしたのです。ここに、それぞれの国家の歴史に根ざした民族性や国民精神というものが顕著に現れています。 

 さて、それでは本題に入りましょう。今回から三回にわたり、大東亜戦争末期における日本陸軍の対上陸作戦思想に少なからず影響を与えたものと思われる「元寇」などの史実や江戸時代後期から幕末にかけての兵法思想について、紹介いたします。 

▽ 日本史上で唯一の本土防衛の史実『元寇』 

 四面環海の我が国の歴史において、大規模な武力侵攻から本土を防衛した唯一の「実戦」は元寇であった。文永の役(1274年)においては約1.5万の元軍の博多湾上陸を許しつつも、勇猛果敢な約1万の武士たちはこれを撃退し、その7年後の弘安の役(1281年)においては約15万の大軍団による侵攻に対してあらかじめ構築していた石塁と、そこに配備された鎌倉からの増援を含む数万の武士たちにより、敵の博多湾への上陸すら許さなかった。 

 いずれも「運よく神風に救われた」のではなく、当時世界最強と恐れられた元軍の侵略を、北条得宗家率いる鎌倉幕府軍がその実力で打ち破ったものである。ここでは対上陸作戦という観点から、文永の役と弘安の役、それぞれにおける鎌倉幕府軍の戦術・戦法を比較してみよう。 

▽ 後退配備により苦戦した文永の役 

 蒙古の襲来を予期した鎌倉幕府は、文永9(1272)年2月、九州在住の御家人達に「異国警固番役」を命じて海岸沿いに情報収集の目を張りめぐらしたが、大挙して上陸侵攻するであろう蒙古の大軍勢をどのように迎え撃つか、については判断しかねていた。そのため、元軍の上陸に際しては、元寇よりさらに約600年前、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に敗れたことから、唐・新羅による日本来襲に備えて築かれた水城や大野城(おおのき)を応急的に改修して防御ラインとした。 

 水城は、博多湾方向から侵攻する敵に対して大宰府を直接守るため、博多湾から約12Kmほど内陸側の狭い隘路内に構築された直線状の堀と土塁である。堀は土塁の博多湾側に幅60m、深さ4mで水をたたえており、土塁は高さ14m、奥行き40m、長さ1.2Kmあった。又、大野城は水城の肩部となる堅固な地形上に築かれた朝鮮式山城である。いずれにせよ、対上陸作戦の観点からすれば、明らかに後退配備であった。 

 文永11(1274)年10月、元・高麗連合軍3万数千の軍勢が、まず対馬と壱岐に押し寄せてきた。これを迎え討つ日本の武士200人余りは、敵に後ろをみせず戦い、全員討死にした。元軍の大将、忻都(キント)は、この戦いぶりをみて、「日本の兵士は、大軍を前に死ぬことが分かっていても、戦いを挑んでくる。私はいろいろな国と戦ってきたが、こんなすごい敵に出会ったことはない」と驚いた。元軍3万余の構成は、馬を下りた騎馬兵である蒙古軍と半強制的に出陣させられている漢・高麗軍との連合軍であり、個々の部隊や兵の精強さでは日本側がはるかに勝っていた。それにもかかわらず、敵の博多上陸を許した鎌倉幕府軍が、戦いの初動で手痛い打撃を受けたのは、まず、名乗りを上げての一騎打ちという思想がない元軍が効率のみを追求した集団戦法・密集戦法により、個人での戦いをベースとした鎌倉武士たちを圧倒したからである。また、兵器においても鎌倉幕府軍は毒矢に悩まされた。そもそも日本では矢に毒を塗るなどという卑怯なことは、その発想すらなかった。さらに『てつはう』という火薬を陶磁製の容器に充填した爆弾は、日本側の騎馬を驚かせ、混乱を誘った。 

 こうしたことから戦況不利と判断した鎌倉幕府軍は、水城〜大野城の防御ラインまで後退して、じ後の反撃を準備することに決した。これにより鎌倉幕府軍が退却する時、殿軍として戦っていた御家人・少弐景資(しょうにかげすけ)が、追撃してきた元軍副司令官・劉復亨(りゅうふくこう)の胸を射抜いた。さらに特筆すべき日本側の敢闘は、赤坂高地という福岡平野内で唯一、水際部に突出して博多湾沿いの平地部を二分する重要な地形を、一部の鎌倉幕府軍が死守していたことである。このことから博多正面に上陸した蒙古・漢軍と今津正面に上陸した高麗軍は戦力を合一できず、しかもこの高地をめぐる激烈な攻防戦により、元軍は毒矢が不足を来たしたのである。そして何よりも元軍が恐れたのは、この赤坂高地を「支とう点」とした日本軍の夜襲であった。このような水際部のきわめて重要な地形(高地)を確保していたことが、文永の役における鎌倉幕府軍の最大の勝因であった。 

   兵器上の勝ち目である毒矢が不足しつつある不安に加え、副司令官が討たれたことによる指揮中枢の停滞と混乱、さらには日本側の夜襲による反撃への恐怖から、元々結束が低く、特に漢軍・高麗軍にやる気がなかった蒙古・漢・高麗連合軍は、攻撃を中止して軍船に戻り、ついでに暴風雨を理由にして撤退したのであった。その結果、水城〜大野城という後退配備の防御ラインにおける戦闘は生起しなかったのである。 

▽ 水際配備により圧勝した弘安の役 

 文永の役では、さほど強くもない蒙古・漢・高麗連合軍に易々と福岡地域への上陸を許したことから、この地を激戦の巷と化してしまった。又、対馬、壱岐においては、上陸した高麗軍の残虐行為により、島民に多大な犠牲者をもたらした。武士たちが玉砕した後の元軍は、民家に火をかけ、飛び出してくる老人や女・子供に襲いかかり、そしてすぐには死に至らせず、残忍な方法で殺した。女たちは、掌に穴をあけて船の外側に数珠つなぎにされ、高麗に連行された。後退配備を採る以上、国土が戦場となり、これらの事態は常に避けることが出来ない。 

 こうした陸上戦闘の不利、特に民衆への被害を局限するため、文永の役から後、鎌倉幕府は「石築地(いしついじ)」と呼ばれる石の防塁(石塁)を始めとする徹底した水際配備の防衛態勢をとることにより、敵の上陸を簡単には許すまいとした。博多湾の海岸一帯に構築された石築地は、建治2(1276)年3月に工事を開始し、同年10月には概成させ、その後4年間かけて増・修築した。工事の規模は、高さ約2m、奥行き約3.5m、全長約15Kmにわたる壮大なもので、その位置は波打ち際から約50m後方を基準としていた。日本の長弓の有効射程が200mであったことから、水際から150m程先の海上まで射ることができた。この石築地は、いうなれば「水城」の土塁を石塁に進化させ、水城の前面に人工的に構築した「堀」を広大な「海」という天然の障害に置き換えたものである。 

 弘安4(1281)年5月21日から22日にかけて対馬・壱岐を襲撃した東路軍(高麗軍が中心で、兵船9百、総勢4万余)は、江南軍(旧南宋軍が中心で、兵船3千5百、総勢10万余) の遅れを待ちきれず、6月6日単独で博多湾に進入するが、砂浜に沿って延々と続く石築地を見て、鎌倉幕府軍の待ち構える正面への上陸を断念した。やむなく湾外の志賀島(しかのしま)に上陸し、海の中道を経て西戸崎方向からの侵攻を試みたが、海の中道で鎌倉幕府軍との遭遇戦となった。数日間にわたる激戦の後に撃退され、やむなく船上に戻った東路軍は、湾内で江南軍の到着を待つこととした。 

 一方、元軍が一向に上陸してこないため、手柄も立てられないことにしびれをきらせた鎌倉武士たちは、三々五々に小舟をしつらえて沖合に出て、湾内の元軍船団に乗り込み、切り込み攻撃を仕掛けた。投鉤(かぎ)や打鉤を投げかけたり、帆柱を倒してこれに伝ったりして敵船内に雪崩れ込み、片っ端から切りまくった。これにより散々な目にあった元軍は、壱岐に避難するが、ここでも日本の水軍による船団強襲を受けてやむなく平戸まで逃げた。 

 7月2日になって漸く江南軍と平戸で合流、これを発見した日本の水軍による執拗な洋上夜襲や船舶焼き討ちが続き、さらに船内では疫病も流行り出した。このまま座して死を待つよりは、との悲壮な思いで元の連合軍は閏8月1日をもって総攻撃することを決心するが、その前日の7月30日に暴風雨が発生し、連合軍の船団はそのほとんどが海の藻屑と消えた。 

 このように弘安の役では、元軍も大兵力を用意して侵攻してきたが、執権・北条時宗が率いる鎌倉幕府は、水際配備、次いで泊地攻撃〜海上追撃によりこの14万の敵を見事に撃滅した。石塁を築いて上陸適地を全て塞ぎ、その上で待ち構えている士気旺盛な鎌倉幕府軍4万、敵の上陸なしと判断するや、恩賞目当てに小船で敵船に乗り移り、白兵戦を挑んだ鎌倉武士たちの剛胆さ。これらが結果的に、大陸を暴れ回った元軍に対して陸戦を許さず、狭い船上・船内ゆえに毒矢・てつはうも使えず、集団戦法もできない状態に持ち込み、得意の「一騎打ち」で切りまくることになったのである。 

(以下次号)

2012/4/20