【第4回】日本陸軍の対上陸作戦思想の背景 ― 林子平『海国兵談』
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・吾人は常に部分に先立って全体を見なければならない。・・・ 

  シャルンホルスト(プロシア陸軍大臣兼参謀総長 ※1) 

 ・・・客観的に知ることと主観的に欲すること、「知っている」ということと「できる」ということとの間には、常に大きな違いがある。・・・ 

  クラウゼウイッツ(プロシア陸軍大学校長・参謀長 ※2) 

 日本兵法研究会会長の家村です。今回は大東亜戦争末期における日本陸軍の対上陸作戦思想に少なからず影響を与えたものと思われる江戸時代後期の名兵法家・林子平の用兵思想について、簡単にご紹介いたします。 

 ※1 イエナの戦い(1806年)でナポレオンに敗北後、グナイセナウ将軍と協力して軍制改革、軍隊の再建に努力し、特に民兵制度を作った。 

 ※2 軍事理論家。死後刊行された「戦争論」はナポレオンの作戦方式をモデルとしたもので、戦争を理論的に解説する古典的名著として。欧州各国の戦術の基礎となった。 

▽ 林子平の海防論「国土に上陸する前に海で叩け!」 

 「江戸の日本橋から唐、オランダまで境なしの水路なり」で有名な江戸時代の兵学者・林子平は、近世日本の国防史上における偉大なる先覚者と呼ぶべき人物である。 

 元文3(1738)年に江戸で生まれた林子平は、3歳の時に父が同僚を殺傷して浪人になったため叔父に預けられたが、後に姉が仙台藩六代藩主・伊達宗村の側室となった縁で兄が仙台藩士になることができ、兄とともに仙台に移り住んだ。子平の身分は、禄もないかわりにたいした重要な役目もないという気楽なものであったが、彼はこの立場をうまく利用して長崎に滞在し、見聞を広めた。 

 林子平が生きた時代は、ロシアの南進により北方への危機感が高まりつつあると同時に、蝦夷地への関心が一挙に深まった時代であった。子平は唐山(シナ)、ヨーロッパ諸国への対外的な危機感を抱くとともに、ロシアの南下策を知り、日本を欧米による植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』を著し、その2年後には日本の海岸を船と砲台で守ることを論旨とする『海国兵談』を出版した。出版から4ヵ月後には、ロシア使節ラクスマンが根室を訪れている。 

 『海国兵談』全16巻は、天明6(1786)年に完成し、天明8(1788)年に第一巻のみが刊行された。当初は千部を刊行する予定であったが、自家蔵版であり、巻数が多かったのでたちまち資金不足になり、3年後の寛政4(1791)年になってようやく全16巻を刊行できた。しかし、その部数はわずか38部でしかなかった。江戸幕府はこの書を「幕政を批判していたずらに世間を惑わすもの」であるとして取り締まり、版木さえも没収した上で子平を処罰した。 

 『海国兵談』第一巻「水戦」の趣旨は、いかにして日本を欧米列強の植民地政策から守るか、ということである。子平は『海国兵談』の自序で国内外の情勢を記し、第一巻「水戦」で日本海岸総軍備の重要性・必要性を説き、総軍備の具体的方法や手段をいくつも提示している。特に海外を模倣して大砲を作り、軍艦を破る数々の方法と心得は工夫に満ちている。また、江戸の防衛上重要な安房(千葉県・房総半島の先端部)と相模(横浜市を含まない神奈川県全域)への大名配置論を打ち出している。 

 林子平『海国兵談』の特異性は、「異国からの侵攻に対する国土防衛」を対象とするものであり、国内における大名同士、又は幕府の支配体制に対する内乱、擾乱、内戦のような「国内戦」を想定したものではない、ということである。これについて子平は、自ら「海国兵談自序」(序文)において「今までの日本の兵法家の誰も考えたり、言ったりしてこなかったことである」と述べている。 

▽ 『海国兵談』に見る作戦思想と武人の心得 

 林子平は、「海国兵談自序」の中で、日本のような海国(海洋国家)とは、「地続きで隣接する国が存在せず、四方が皆沿海部になっている国」であると定義し、「海国には海国に相応しい軍備があり、古代支那の軍書や日本で古今伝授されている諸流の兵書で述べていることとは違ったものになる」と主張している。そして、この本質を知らずしては日本の戦略・戦術・戦法は語れないことを強調している。 

 子平によれば、海国とは外国から敵が容易に攻めて来られる特性がある反面、攻めて来るのが難しいという二面性がある。つまり、軍艦に乗って順風を得られれば、日本まで200〜300里の航路も一日か二日で海上機動して来ることができる(容易に来られる)。特に、大量の人員や物資の運搬と言うことについては、陸路輸送に比べてはるかに容易である。このように容易に攻めて来ることができる特性があるので、これに対する軍備をしっかり設けておかなければならない。こうした容易性の半面で、四方が皆広大な「海という障害」であるために、妄(みだ)りには来ることができない(来るのが難しい)。しかしながら、その天然の障害を恃(たの)みにして、守備態勢を怠ってはならない。 

 それゆえに、日本の軍備は、外国から敵が攻めてくるのを防ぐ術を知ることが差し当たっての急務となるが、その術とは、水上戦闘にある。水上戦闘の要は大砲にある。「軍艦」と「大砲」の二つをしっかりと調達することが日本の軍備の中心をなすのであって、これが大陸国とは異なる点である。このことを承知してから、次に陸戦のことに及ばなければならない。つまり、子平は「海国日本の軍備は、この水上戦闘を第一とし、海上で敵を撃滅することを追求しなければならない」と主張しているのである。 

 子平は、当時の日本を取り囲む国際情勢を「清やロシアが、いかなる侵略意思を起こすことがあってもおかしくない」と見ており、「その時に至って(清やロシアは)貪欲な動機で行動しているのだから、日本の仁政にも懐柔されるようなことなど絶対ありえず、また兵馬億万の多さを恃みにすれば、日本の武威も畏れるに足らずということになろう。」と述べている。これらは、現在の国際情勢にもそのまま当てはまることであろう。 

 林子平は、この「海国兵談自序」で海国の特性と当時の時勢とを説明して上で、さらに心得として「武術のみに偏りがちになることを戒め、文武両全であるべきだ」と強調する。すなわち、「武に偏れば粗野になる。元来『兵』は凶器である。しかしながら死生存亡に係わる場合において、国の大事はこれに過ぎるものは無いので、粗野にして無知である偏武の輩には任せ難いこと」と喝破しているのである。そのため、あえて我が身の危険を顧みずに『海国兵談』という書物を著すことにより、「初学の一端をここに開いて、文を以て戦法を潤色(おもしろさを増し、印象を強烈にする)し、武を以て文華を助け開くことの趣を会得し、文武相兼ねて、その精に至る事を得れば、即ち祖国や家を安んじ海国を保護する一助」としたのであった。 

 このように、林子平という人物は、島国である日本の国土と海というものを踏まえての兵法(戦略・戦術・戦法)を説き、日本人に領土というものを意識させた近世以前の唯一の先覚者であった。 

(以下次号)

2012/4/27