【第5回】日本陸軍の対上陸作戦思想の背景 ― 吉田松陰の「黒船撃滅作戦」
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・予期しない新しい状況に臨んでも毅然として対応できるには、二つの資質が必要である。一つは、どんなに状況不明であっても、常に一筋の光を見失わず、真実がどこにあるかを見抜く「知力」であり、その二は、このかすかな一筋の光を頼りに前進しようとする「勇気」である。・・・ 

  クラウゼウイッツ(プロシア陸軍大学校長・参謀長) 

 ・・・指揮官はいかなる状況にも対応できる柔軟な精神、複雑な状況を単純化して一つの行動方針を決定する能力、つまり、「知性」と「本能」、そして、それを実行に移す強固な「精神力」を持っていなければならない。・・・ 

  ド・ゴール(フランスの将軍、大統領) 

 日本兵法研究会会長の家村です。今回は大東亜戦争末期における日本陸軍の対上陸作戦思想に少なからず影響を与えたものと思われる幕末期の名兵法家・吉田松陰の用兵思想について、簡単にご紹介いたします。 

▽ 黒船来寇 ― 日本人をなめきったペリーの尊大さ 

 林子平が『海国兵談』を出版してから61年後の嘉永6(1853)年6月、米国海軍提督・ペリーがフリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした大型の蒸気軍艦(いわゆる黒船)4隻を率いて浦賀に入港した。前年の嘉永5(1852)年11月、東インド艦隊司令長官に就任したペリーは、「日本開国」の任務を与えられ、米国大統領フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。艦隊はカナリア諸島、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、琉球(沖縄)、小笠原諸島を経由して翌年6月3日に浦賀入港を果たしたのであった。 

 この日本遠征は、嘉永4(1851)年1月にペリー自らが米国海軍長官・ウィリアム・アレクサンダー・グラハム提督に提出した「日本遠征基本計画」に基づくものであった。この基本計画によれば、日本との交渉はオランダによる妨害が予想される長崎を避け、直接江戸において行う、としていた。この際、蒸気船を見たことがない日本人にこれを見せつけることで近代国家の軍事力を認識させ、米国に有利に交渉を進めようとした。つまり、ペリーは米国人がこれまでシナ人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖」に訴える方が、「友好」に訴えるよりも多くの利点があるだろう、と考えていたのである。 

 生粋の海軍軍人・ペリーは、声が大きく、その威厳を振りまく態度から、水兵たちに「熊おやじ」と呼ばれていたという。本国から日本での軍艦の発砲は禁じられたが、ペリーは空包と(日本側に渡す)白旗さえあれば事足りるとした。こうした日本人を完全になめきっていたペリーの態度は、日本人に会ったことがなく日本人の「武」の精神文化を知らない(関心が無い)欧米人が陥りがちな「尊大さ」の典型であった。 

▽ 吉田松陰の作戦基本構想「先ず海戦、次いで陸戦で撃滅」 

 黒船が江戸近海に停泊したことを耳にした当時24歳の吉田松陰は、このような「武力による威嚇」を以て日本に開国を要求する米国の非礼な行為に憤り、「道理を伝え、天下の大義を伸べて、侵略行為の罪を征討すべし」と主張した。幼少にして『武教全書』を講じ、山鹿流兵法を学び、佐久間象山に就いて西洋流砲術まで聞き及んでいた天才的兵法家・吉田松陰は、いざ戦えば「勝算あり」と見ていたのである。松陰が唱えた対黒船作戦は、「これを先んずるに海戦を以てし、これを終るに陸戦を以てすべし」という基本方針の下、海戦についてはその準備と実施に分け、さらにそれに引き続く陸戦について具体的な戦術・戦法を述べている。以下、これらを簡単に紹介する。 

▽ 海戦―鎌倉武士を再現した海上での襲撃と焼討ち 

 海戦の準備としては、相模、上総、安房等の海浜において漁船中の最も堅牢かつ快速なものを50艘(そう)とこれに屈強の漕ぎ手を併せて雇い、小銃で武装した士卒10名ほどを各船に載せ、その中でも大砲を上手に扱える者を選んで、砲一門に撃手5名を添えて船に乗り込ませる。各船には長鳶口、長熊手、打鈎、竹はしご等を備え置くものとした。 

 こうした船を要港に隠しておき、夜陰に乗じて先ず20艘ほどで乗出し、敵艦の停泊地から3〜4町(約330〜440m)以内まで乗り付け、大砲を連発する。敵艦は大きな標的となるので百発百中は間違いなく、しかも必ず舷側(ふなべり)を打ち抜ける。艦内で火が起こり乗員らが騒動しているのを見たならば、小銃にてこれを狙撃する。また脚船(上陸用の小船)を押寄せて避難するならば、これらを急襲する。長鳶口、長熊手、打鈎を以て引き寄せて乗り移り、乗船している米国人乗員を皆殺しにして脚船を奪う。これらは、壇ノ浦の合戦からヒントを得た戦法であろうか。 

 敵艦の中が騒擾状態であることを看破したならば、直ちに船べりに乗り付け、三間はしご(約5.5m)を架して飛び乗り、腰の刀で手詰めに(間髪を容れずに詰め寄って)米国人を皆殺しにして敵艦を奪う。まさに元寇・弘安の役における鎌倉武士の再現である。 

 又、松陰は「海上における焼討ち」も提案している。百石積以上の船に焚草を積み、油を満たした古樽をこれに交えて、火薬を以て火口とし、長縄を以て5〜6艘を連ね、船と船との間隔を約10間(約18m)として風上から敵艦へ乗り掛けて火を放ち、火が起こるのを待ち、敵艦に乗り移って散々に暴れまわった我が方は、脚船を奪って乗り換え、帰還する。これらは、古代シナの赤壁の戦いにおける火攻めの戦法を参考にしたものであろう。 

▽ 陸戦 ―「敵上陸時の必然的弱点」を徹底して突く戦法 

 もしも敵艦隊がこれらの海上襲撃に懲りずに陸地に押しかけて上陸しようとするならば、その上陸の混乱に乗じて軍艦を奪い取り、もしくは脚船を乗っ取る。このため、要港に備えていた残りの30艘の船をこのチャンスに応じて出撃させるのである。いよいよ陸戦となったならば、孫子兵法にあるとおり、山林を右背にし、田沢を左前にして、高い場所から低い場所を臨み、本陣を据えて敵が来るのをただ待つだけである。 

 海から陸地に寄せ来る敵を討つべきタイミングは、三つある。 

 第一に「軍艦より脚船を卸(おろ)して陸に近づいてくるところ」である。 

 第二に「脚船から上陸して備え(歩兵の編成)を立てているところ」である。 

 第三に「備えを進め、砲列を敷き、砲陣地を築き、攻撃のための根拠地をこしらえているところ」である。 

 この三つの条件が眼前にあるならば、あるいは大砲や小銃を用い、あるいは刀や槍を用いるように、その時どきに応じて便利な手段を選べばよい。このようにして、敵上陸時の必然的弱点を徹底して突くならば、ごく簡単に勝ちを制することができる。それはあたかも「毛を燎(や)くが如し」、天才的兵法家・吉田松陰は、こう述べていたのである。 

▽ 黒船撃滅の作戦構想こそが勇気ある行動の原動力 

 吉田松陰といえば、ペリーが乗船している旗艦ミシシッピー号に乗り込んで、米国への渡航を嘆願したことが有名であるが、これは自らが米国の「近代的な軍事制度」を広く見聞し、必要なものは取り入れることが国家としての急務であるという考えに根ざした行動である。しかし、その動機について松陰が来航した黒船を見て恐れおののき、こうした「強大な軍事力」を米国に学ぼうとしたからだと解するのは、明らかな事実誤認である。 

 危険を冒して黒船に乗り込むという勇気ある行動の背景には、兵法の天才・吉田松陰が「この黒船ごときを何ら恐れていなかった」という真実があったのだ。 

 嘉永7(1854)年1月中旬、黒船9隻を率いて再度来航したペリーは江戸湾に入り、羽田沖で整然と並び、こちらに大砲を向けて発射を待つ4個の砲台と遭遇した。江戸幕府が前年のペリー来航後に約半年間で構築した洋上砲台・品川台場である。撃ち合えば絶対に勝ち目がないと判断したペリーは、今回の日本遠征の目的であった「江戸城乗り込み」を断念し、幕府側の提案に従って横浜で日米和親条約に締結したのであった。 

▽ 欧米人から高く評価されていた幕末・明治の日本人 

 ペリーのように尊大な欧米人とは逆に、幕末から明治初期に日本に滞在し、日本と日本人を深く理解していた欧米人もいた。こうした良き「理解者」たちの言葉の中にこそ、吉田松陰という人物の本質を見出すことができるので、これらを最後に紹介したい。 

 ・・・日本人は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。・・・ 

  タウンゼント・ハリス(初代米国総領事、安政3(1856)年に来日) 

 ・・・外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。(中略)日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては率直で穏健であり、戦争に際しては騎士道的で人道的な国があろうとは・・・ 

  バジル・ホール・チェンバレン(明治6〜38年、日本で教師を務めた英国人) 

(以下次号)

2012/5/4