【第6回】明治陸軍の国土防衛とプロシア式戦術(その1)
▽ ごあいさつ 

 日本兵法研究会会長の家村です。前回(第5回)の記事「日本陸軍の対上陸作戦思想の背景 ─ 吉田松陰の黒船撃滅作戦」に関して、Hatikenzan88様からおたよりをいただきました。 

 (引用開始) 

『家村先生へ 

 吉田松陰先生が 嘆願書をもって黒船にのりこもうと行動した理由がいまひとつ解りませんでしたが、家村先生の解釈のほうが松陰先生の意思だったのでしょうか?。それと、ペリーのルートがバルチック艦隊とおなじとは知りませんでした。なんで、白人達は、遠回りしてでも、この小さい日本に興味があるのでしょうか。それにしても、日本が欧米の植民地にならなくてよかったですね。白人からうやうやしくチップをもらう風習は植民地の名残りですね。松陰先生につきましては、「留魂録」を読んで惜しい日本人をなくしたと思いました。 

   敬具』 

 (引用おわり) 

 江戸時代の日本人が皆、黒船に恐れをなして怯えていたというのは、正しい歴史認識ではありません。江戸湾にいきなり現れた黒船に多くの庶民や武士たちが驚いたのは事実としても、当時の武士たちは現代の政治家よりもはるかに優れた智略や戦略眼、それに基づく政治・外交力を持っていました。それは、彼らが「兵法」を学んでいたからです。 

 つまり、儒学などを学び、天下泰平の世にあっては行政的な仕事ばかりしていた武士階層には、武術や兵法という軍事的素養がしっかり備わっており、それゆえ常に「敵を意識」して判断し、行動することが習性化されていたということです。 

 松陰先生が書残された「留魂録」から、私たちは今日、吉田松陰という人物を優れた思想家・教育者として捉えがちですが、その前に優れた兵法家であったという事実にもっと着目すべきでしょう。 

 ペリーの航海ルートは、当時、米国の主要港湾が東海岸にあり、しかもパナマ運河が開通していなかったことから、必然的にこうなったのだと考えます。ちなみに、パナマ運河の開通はペリー来航から60年後の1914年でした。 

 「白人からうやうやしくチップをもらう風習」につきましては、アジア諸国では香港ぐらいですから、あまり関係ないのではないかと思います。・・・詳しいことは知りません。それと、欧米諸国ではアメリカが最もチップの習慣が盛んなのは、かつてイギリスの植民地だったということなのでしょうか?これについてわかる人がいれば、私も教えてほしいですね。・・・ 

 さて、それでは本題に入りましょう。今回から二回に分けて、日本陸軍の戦略・戦術に多大な影響を及ぼしたプロシアからの招聘教官・メッケル少佐による教育とその用兵思想について紹介いたします。 

▽ 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・戦争行動に際しては何をなすべきかではなく、如何になすかが重要である。強固な決心と簡単な着想の不屈の実行とは最も確実に目的を達する。・・・ 

   モルトケ(プロシア陸軍参謀総長 ※1) 

 ・・・あらゆる戦闘指揮の真髄は、攻撃によって敵を殲滅することにある。・・・ 

   シュリーフェン(プロシア陸軍参謀総長 ※2) 

 ・・・戦場の果実は追撃の活用によってはじめて完熟する。・・・ 

   モルトケ(プロシア陸軍参謀総長) 

 ・・・迅速さによって敵の多くの処置は未然に防がれる。・・・ 

   クラウゼヴィツ(プロシア陸軍大学校長・参謀長) 

※1 デンマーク貴族の出身のプロシア軍人。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。1875年から参謀総長として新たな参謀制度を樹立し、また近代的技術を駆使する戦略・戦術の天才としてデンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争に大勝をもたらした。 

※2 プロシア軍参謀として、普墺戦争(1866)、普仏戦争(1870〜71)に参加。1891年から1905年まで参謀総長として、参謀将校の訓練と作戦計画「シュリーフェン・プラン」で功績を立てた。 

▽ 国内の治安重視から国土防衛重視へ 

 幕末(正確にはペリー来航頃)から江戸幕府内では海防についての重要性が再認識されていたが、江戸幕府を倒した明治新政府は、外敵からの防衛よりもまず政権を安定化し、治安を維持するため、強大な海軍の建設よりも陸軍を優先して整備した。その結果、諸藩兵を基盤とした徴兵制軍隊を逐次に編成していく方策を進め、明治9(1876)年末には全国を六つの管区に分けた「鎮台制」が概ね整った。この時の総兵力は、近衛兵2個連隊、鎮台兵14個連隊など約3万3千人であった。 

 この新たな徴兵制軍隊により西南戦争(1877年)という最後の国内戦を乗り切った明治政府は、朝鮮をめぐる清との対立や、対馬海峡をめぐる英露の対立といった国内外情勢の影響もあり、本来の国土防衛にも力を入れ始めた。 

 陸軍は総兵力を近衛兵4個連隊、鎮台兵24個連隊などに増強するとともに、全国的に見た海岸防御の重視地点を研究し、明治13(1880)年には東京湾口の砲台建設に着手した。さらに明治20(1887)年には対馬・下関海峡に、同22(1889)年には紀淡海峡にそれぞれ砲台建設を開始するとともに、要塞砲兵部隊を逐次に編成した。 

 一方、明治16(1883)年から軍艦の計画的な建造を開始した海軍は、甲鉄艦を中心とする外洋艦隊と海防艦・水雷艇を中心とする海防艦隊を同時に整備し、日清戦争(1894〜95年)までに軍艦31隻、水雷艇24隻、総排水量61,373トンにまで至った。海防に関しては、横須賀、呉、佐世保三つの鎮守府を設置し、これらで全国の沿海を区分して防備を担当した。各鎮守府には沿岸要地を守るための水雷隊が置かれ、さらに重要港湾等の防備のために機雷の購入・開発も進めていった。 

 このように明治10年代には陸海軍ともに兵力を増強しつつ、外敵から国土を防衛するための方策を真剣に研究していた。国土防衛についての陸軍の作戦方針は、海峡部などの重要地点に砲台を建設し、そこに設置した大砲の火力で海上の敵艦を撃破するという固定的なものであった。その前提となっていた鎮台制は、地域ごとの防衛や治安警備に重点を置いたものであり、当時の交通事情からも部隊を全国規模で縦横に移動させることを前提として編成されたものではなかった。 

▽ メッケル少佐の招聘とプロシア式戦術の導入 

 明治16(1883)年4月、参謀将校を養成する陸軍大学校が開校すると、普墺・普仏両戦争の戦勝国であるプロシアから戦術教官及び参謀本部顧問として将校1名を雇い入れることになった。これに応じて、明治18(1885)年、プロシア陸軍参謀のメッケル少佐が招聘された。 

 メッケル少佐は陸軍大学校において、「戦術実施」、「兵棋演習」、「参謀演習旅行」などの課目を実施し、それまでのフランス式の学理的・記憶主体の教育から、ドイツ式の実施・応用を主眼とする戦術教育への転換を図った。「戦術実施」では、時間を追って出題と回答を重ねていく想定戦術により、戦場における包囲殲滅(せんめつ)、分進合撃や牽制・抑留といった戦理や、野戦における兵站(組織・調達・輸送・運用)などを理解させ、又、「参謀演習旅行」では、想定戦場となる山野において攻撃・防御など陸戦における戦術行動を現地の地形・地物を以て実際的な雰囲気の中で教育した。 

 このようにメッケル少佐が教育したプロシア式戦術とは、ドイツ陸軍の大御所で近代戦術の祖述者でもあった参謀総長モルトケにより確立されたものである。本文冒頭「〜戦場から届いた言葉〜」で紹介したように、その特徴は基本戦略を「攻勢作戦」とし、ナポレオン戦争の時代に概ね実証された「大部隊(師団クラス以上)の機動」による「兵力の集中」、「迂回・包囲」による態勢の優越と敵部隊の「殲滅」を基本とした作戦思想である。この攻勢作戦における個々の戦闘で主として実施される戦術行動は「攻撃」である。 

 これらは、広大な大陸において隣国と陸続きの国境を有する陸軍同士が、互いの国土を侵し、侵されてそこを戦場として戦う「陸戦」の理論であり、日本のような四面環海、狭く稠密(ちゅうみつ)な国土地形では、外的からの防衛という観点からはあまり発展してこなかった考えであった。 

 メッケル少佐の教育は、大陸流の純然たる陸戦のみではなく、当然のことながら対上陸作戦にまで及んだ。メッケル少佐は、自著『日本国防論』の中でそれまでの砲台による固定的な海岸防御に加え、我の部隊を敵の上陸地点に集中して上陸軍を撃破する方法について提示し、又、参謀演習旅行を通じて当時の日本の国防体制の不備を厳しく指摘した。しかしながら、日本軍が執るべき具体的な対処の要領については、「敵上陸時の必然的弱点を捉え、これを徹底的に叩く」という認識が薄く、むしろ欧州におけるナポレオン戦争や普仏戦争・普墺戦争のような陸上に引かれた国境線を越えて敵陸軍が侵攻してくるような場合とほとんど共通するものであった。詳しくは、次回紹介する。 

(以下次号)

2012/5/4