【第7回】明治陸軍の国土防衛とプロシア式戦術(その2)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 日本兵法研究会の家村です。前回は、プロシア軍人たちの「攻勢」に関する名言をいくつか紹介しました。プロシア流戦術の特徴は、基本戦略を「攻勢作戦」とし、個々の戦闘で主として実施される戦術行動は「攻撃」でした。その一方で、戦力的に劣勢な場合には、敵を国境内に深く引きずり込む「守勢」(持久戦)に徹し、時間をかけて敵の戦力を消耗させることを強調していました。この持久戦における主要な戦術行動は、「防御」、「退却」、「遅滞行動」などです。以下はこれらに関するプロシア軍人たちの言葉です。 

【防御について】 

 ・・・敵には常に不利な攻撃を行わせ、われは沈着に土地を放棄する。好機に投ずる反撃は既に放棄したすべての利益を再びもたらす。・・・ 

  ヨーク・フォン・ブアルテンブルク(プロシアの将軍 ※1) 

【退却について】 

 ・・・指揮官は包囲されたと感じ、他に勝利を獲得する手段の見つからない時は、武門の面目にこだわらず・・・行動運動の自由を適時奪回して他のより有利な場所で戦闘を再興する精神的自由を持たねばならない。・・・ 

  シュリーフェン(プロシア陸軍参謀総長) 

【遅滞行動について】  ・・・できる限り敵を各個に撃破殲滅せよ。汝等の劣勢をもってしては敗れるが故に汝等正規の戦にかかわりあうな。時をかせげ。これがすべてである。・・・ 

  フリードリヒ大王(※2) 

 ちなみに、日本の戦国武将たちは、「退却」という戦術行動においては、将兵の心理が「消極・受動的」なものに陥りがちである、という極めて重要なことを簡潔に述べています。 

 ・・・すべて軍(いくさ)の習(ならい)一足退く時は、虎も鼠(ねずみ)の如し。・・・ 

  小西行長 

 ・・・人軍の引くは必ず裏崩するものぞ。敵の後陣によく目をつけ見よや。・・・ 

  吉川広家 

 さて、それでは本題に入りましょう。前回に引き続き、日本陸軍の戦略・戦術に多大な影響を及ぼしたプロシアからの招聘教官・メッケル少佐の用兵思想について紹介いたします。 

※1 ナポレオン時代におけるプロシアの名将。1812年、ナポレオンのロシア遠征時にはプロシア軍を指揮してフランス軍を支援した。その退却時には、独断でロシアのディービッチェ大将と中立協定を締結した。その後、シュタインとともに東プロシアの国民武装を行う。 

※2 プロシアの代表的な啓蒙専制的君主。オーストリア継承戦争(1740〜48年)や七年戦争(1756〜63年)に参加してシュレジェンを占領。また、ポーランド分割に参加して領土を広めた。軍人としても政治家としても優れ、プロシアの強国化を実現した。 

▽ メッケル少佐の『日本国防論』 

 明治20(1887)年にメッケル少佐が著した『日本国防論』は、その前提を「島国である日本を守るには強大な艦隊を備えておく必要があるが、現段階の弱小な艦隊では、敵の上陸に先立ち撃滅されるか駆逐されてしまい、ほとんど役に立たない」としていた。事実、メッケル少佐が陸大でプロシア式戦術を教育している頃、海軍では計画的な軍艦の建造が緒についたばかりであった。こうした前提で、メッケル少佐は敵の侵攻様相について以下のように述べている。 

 「良好な港、又はその近傍に上陸し、つとめて迅速かつ十分にその港を守備する陣地を設け、その輸送船は増援兵力を運送するため、速やかに出発地に帰り、陸続として来着するところの増援兵力を以てその兵力を増大させ、その度に応じて兵を以てその基地を拡張し、もってその近傍地方の資源を略奪し、その後に決戦及び兵站警備のため十分な団隊ならびに永く戦役を為すがため、軍用材料を上陸させるに至り、始めて内国において真に攻撃を開始するであろう。」 

 これに対する日本軍としての対応については、「敵兵が上陸するときはこれに対し、勉めて迅速に我が兵を集中し、敵が大いにその兵力を増加するのに先んじて、敵に優るだけの兵力を以てこれを攻撃しなければ勝ち目がない」として、そのために三つの条件を整えなければならないとした。 

 その第一は、「きわめて迅速で整斉とした出動準備」である。具体的には平時から部隊の戦時編成の確定、武器・弾薬、補給品などの準備、予備役・後備役による補充制度のことである。 

 第二には、「全国の諸部隊の大なる運動の自由」である。これには、管区内を離れて独立的に行動できる「野戦兵站」の保持や鉄道・船舶・道路など各種輸送手段に対する適応能力、独自の長距離移動力などが求められる。 

 第三には、「鉄道及び街道網の大なる供用力」である。具体的には青森〜下関間の縦貫鉄道と太平洋〜日本海間の横断鉄道の敷設、これと並行する道路網と通信網の整備である。 

 ここでは日本軍の戦力の集中を「勉めて迅速に」としているが、敵の上陸後、「全国の諸部隊」を鉄道・船舶などの輸送手段や行軍などで移動させれば、それだけで数日から一週間ほどの期間が必要となる。つまり、メッケル少佐が頭に描いていた対上陸作戦のイメージは、敵の上陸初日、海上から水際部にかけての「必然的弱点」を徹底して叩く、というものではなかった。 

 上記の三条件に加え、メッケル少佐は国防における極めて重要な準備の一つとして、「平時からの地誌情報の収集」を挙げ、各師団ごと、担任する地域内での敵上陸に最も便利な地点、これに対する作戦上の要地、堡塁・街道・鉄道の開設位置などを日ごろから考察しておくことを強調していた。 

▽ 地域の防衛警備主体の鎮台制から野戦主体の師団制へ 

 メッケル少佐からの数々の提言を受けた日本陸軍は、明治21(1888)年、鎮台制を廃止して師団制を採用し、それまで戦時にのみ編成する「師団」を平時から編成することになった。これにより、歩兵、騎兵、砲兵、工兵などの諸兵種で編合され、近代的な兵站を保持し、根拠地を遠く離れた戦場における野戦で独立して戦闘できる部隊が常備されることになり、日清戦争前年の明治26(1893)年までに近衛師団を含め7コ師団の編成を完成した。 

 この師団への改編は、砲台や要塞による固定的な防御とあいまって師団を機動的に運用して国土を防衛しようとするものであり、明治25(1892)年に作成された「作戦計画要領」と表裏一体のものである。この作戦計画要領は、予想上陸地点に対する部隊の移動・集中要領、全国の緊要地点とそこに配備すべき兵力、特に監視すべき海岸地点などを示したものであり、メッケル少佐による提言や戦術教育の影響を色濃く反映したものである。 

 当時の参謀本部は、日本に侵攻するであろう敵兵力を最大2コ師団、概ね2〜3万と見積もっており、これに対して地域担任の1コ師団が防戦している間に、全国各地に駐屯する5コ師団をいかに速く敵の上陸地点に輸送するかで悩んでいた。この背景には、メッケル少佐が明治21年に九州で統裁した「参謀演習旅行」での問題提起がある。 

 この演習では、当時の配置を基準として、動員を完了した日本軍と九州北部に上陸侵攻した仮想敵軍との作戦を、現地において戦術問答を重ねつつ研究するものであった。研究の中で焦点となったのは、広島の第5師団、大阪の第4師団、名古屋の第3師団をいかに速く九州に輸送するかであった。その結果、青森〜下関間を結ぶ複線の縦貫鉄道を敷設することの重要性が深く認識され、鉄道・通信施設の整備が急がれることになった。 

 こうして、メッケル少佐が『日本国防論』で強調したことが逐一実現の運びとなっていったのである。「全国の諸部隊の大なる運動の自由」にとって極めて大きな脅威となる「航空機」が戦場の主役となるのは、これより半世紀も後のことである。 

▽ 国防方針は守勢作戦から攻勢作戦へ 

 このように明治維新から日露戦争以前の陸軍では、国土防衛や対上陸防御のことだけが研究されており、参謀本部の作戦計画も「本土における守勢作戦」であった。陸軍が「大陸における攻勢作戦」を本格的に研究し始めたのは、日露戦争開戦の4年前、明治33(1900)年以降であったが、その後も陸軍の作戦計画は依然として「守勢作戦」のままであった。 

 しかしながら、日露戦争の勝利によりロシアの脅威を朝鮮半島から排除し、さらに満州の利権を獲得(1905年)したことにより、これらを守るために「国防の最前線」が日本列島の沿岸から満州へと推進された。そして、明治43(1910)年の日韓合邦の結果、「国土」そのものに朝鮮半島が加わったことから、プロシアから学んだ大陸流戦術をその作戦思想の根底に持つ日本陸軍では、「国土防衛作戦」という概念そのものが「朝鮮半島北端の鴨緑江から長白山脈の線以北における攻勢作戦」ということになった。 

 さらに、満州国が建国されてからは、「満ソ国境付近における攻勢作戦の勝利」こそが、国土防衛における「達成すべき目標」となっていった。 

 こうした攻勢作戦に破れ、朝鮮半島から本土に向けてのロシア、後にはソ連の侵攻に対処するという「守勢作戦」については、いつの間にか「想定外」になっていた。皮肉なことにも、この「想定外」こそが、大東亜戦争の終末段階における様相(エンドステート)だったのである。 

 また、明治から大東亜戦争開戦直前まで、日本陸軍にとっての仮想敵は、あくまでもロシア、後にはソ連であり、太平洋を隔てた米国がこの大海を超えて日本列島に大挙上陸侵攻して来る(その能力を持つ)などということは、よもや思いもよらないことであった。大東亜戦争開戦後も、本土における最終決戦を意識したのはサイパン島玉砕による絶対国防圏崩壊からであり、この本土決戦が必至であると自覚し始めたのは、さらに昭和19年末のレイテ地上決戦を断念した頃からであった。 

(以下次号)

2012/5/18