【第8回】大東亜戦争 ― 島嶼守備作戦から本土決戦準備へ
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 日本兵法研究会の家村です。今回から、いよいよ大東亜戦争における日本陸軍の対上陸作戦について、ご紹介してまいります。 

 ところで、この「本土決戦準備の真実」というテーマからは若干それますが、今回の記事の中にも出てくるフィリピン・レイテ島沖での航空戦で、日本海軍は初めて神風特別攻撃隊を出撃させました。昭和19年10月25日のことです。 

 出撃した搭乗員たちは皆、自ら志願した者でした。彼らの動機の多くは、「やられた仲間の仇を討つ」というものでした。 

 このレイテ沖航空作戦の総指揮官であった第1航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将は、「必死必殺体当たり」という特別攻撃の意義について、次のように語っています。 

 ・・・この神風特別攻撃隊が出て、しかも万一負けたとしても日本は亡国に成らない。これが出ないで負ければ真の亡国になる。・・・ 

 ・・・ここで青年が起たなければ日本は亡びますよ。しかし青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ。・・・ 

 ミッドウェー海戦以来、マリアナ沖、台湾沖の航空戦の大敗など、厳しい戦況の中で何の戦果も得ることができずに死んでいくよりは、戦果を確信して死ねる特攻こそは「大愛」、「大慈悲」である、大西中将はそう考えていたようです。 

 大東亜戦争終戦の翌日、昭和20年8月16日、大西中将は割腹自決しました。当時の司令長官として、自らの死をもって、レイテ沖に散華した特攻隊員たちとその遺族に対する責任を果たしたのでした。しかも、できるだけ苦しんで死ねるように、介錯をさせず、医者による手当ても拒み、夜半から未明にかけて半日以上も苦しみながら絶命されたのでした。享年54歳、大西中将は、次のような「辞世の句」を遺されました。 

 ・・・ これでよし 百万年の 仮寝かな ・・・ 

 それでは本題に入りましょう。今回はまず、太平洋戦線における島嶼守備作戦から本土決戦にいたる戦況と日本陸軍の作戦思想の推移を概観してみましょう。 

▽ 本土防衛の前哨戦「島嶼守備作戦」 

 満州事変以降は国防の第一線を満ソ国境とし、ここでのソ連軍による侵攻をいかにして撃退するかということだけを考えてきた日本陸軍が、米軍による上陸作戦への対処について真剣に研究し、教育を始めたのは、大東亜戦争におけるガダルカナル島撤退作戦が開始された昭和18年以降であった。この年5月には、アッツ島守備隊が米軍の上陸進攻を受けて玉砕している。 

 昭和18年5月12日朝、米軍約2万がアッツ島に上陸を開始したが、これに対する日本軍の守備兵力は1.5個歩兵大隊、1個山砲中隊など、約2千5百名程度であった。水際に準備した陣地も未完成であったため、戦闘が始まると早々に突破され、島内の奥深くの地形を利用した戦闘へと移行した。アッツ島周辺は米軍の圧倒的な制海・制空権下にあったため、日本軍の増援部隊による反撃作戦も実行できなかった。 

 5月29日夜に至り、アッツ島守備部隊は最後の夜襲を行い玉砕した。この戦闘こそが、日本陸軍が最初に行った対上陸作戦であるとともに、大東亜戦争において島嶼守備部隊が玉砕した最初の戦例であった。 

 昭和19年7月から8月にかけてのサイパン島及びグアム島での玉砕は、「防御正面に比して配備兵力が不十分であったこと」「期間的にも陣地構築が不十分なままで敵を迎えたこと」など、アッツ島での戦いから得られた教訓(戦訓)が十分に活用されないまま、水際配備・水際撃滅を追及したことに起因する。 

 島嶼守備に任ずる第一線指揮官たちは、このサイパン、グアムでの失敗から「制海・制空権の無い島嶼における水際撃滅」が現実として成立しないことや、縦深にわたる陣地配備、堅固な築城準備の重要性などを戦訓として学び、その後の戦いからも真剣に戦訓を抽出・活用して、新たな戦術・戦法の創出に努めた。その結果、ペリリュー島や硫黄島における作戦、すなわち「堅固な拠点式洞窟陣地を縦深に配備することにより、まず敵が上陸前に行う圧倒的な艦砲射撃や航空攻撃から守備部隊が健存し、次いで長期にわたり敵上陸部隊に損害を与え続ける」という持久作戦の形で結実された。 

 ここで、重要なことは、これらがあくまでも本土防衛の前哨戦としての「島嶼守備作戦における戦術・戦法」として生みだされた、ということである。 

▽ 本土決戦への非常なる決意 

 一方、昭和19年末にフィリピンのレイテ島における地上戦に敗れ、ここでの本格的な決戦を断念した陸軍は、いよいよ本土決戦は必至であるとの認識を強くした。これは終戦のわずか8ヶ月前のことであり、当時、我が本土には、臨時動員による戦力的に二流の師団が8個、海軍は戦艦、巡洋艦各1、航空機については626機という極めて貧弱な戦力が残っているにすぎなかった。昭和19年度の動員計画で新たに4コ師団を編成することになっていたが、これらを合わせた12コ師団程度では、本土決戦の遂行は不可能と判断された。 

 米軍は、昭和20年秋以降、南九州、次いで関東地方に上陸侵攻するものと予想されていた。関東地方では、鹿島灘、九十九里浜、相模湾が、そして南九州では日向灘、志布志湾、吹上浜がそれぞれの上陸正面となるが、これらのうち米軍の主力が上陸する正面に向かい機動して攻撃する「決戦兵団」や、全ての正面にあらかじめ配置する「沿岸配置兵団」の所要数は、少なく見積もっても合計で50コ師団とされた。 

 大本営、特に陸軍統帥部は、本土兵備の急速充実について非常な決意をもって臨み、直ちに三次にわたる大規模な動員(いわゆる「根こそぎ動員」)を計画して、逐次に戦闘力を充実させようとした。そして、昭和20年2月6日にはこれらの最上級司令部としての「内地防衛軍戦闘序列」も下令され、第1総軍、第2総軍、航空総軍の各司令部が設置された。 

 当時の日本陸軍は、3〜4コ師団ほどで1コ「軍」、5〜6コ軍ほどで1コ「方面軍」を編成していたが、この「内地防衛軍戦闘序列」により、方面軍と大本営との間に、あらたに「総軍」という編制単位を設けたのである。 

 しかしながら、当時の日本がおかれた状況からは、半年という短期間に50コ師団、約200万人を大動員するなどは、ほとんど夢物語とさえ思われていた。なぜならば、大東亜戦争の開戦以来これまでに動員に動員を重ね、既に320万の大軍が海外で戦っており、さらに兵力不足を補うために学徒までもが動員されていた。国内労働力の不足から国民生活や生産も限界に近づきつつあり、たとえ動員できたとしても兵器の生産が到底間に合わず、戦闘員の約半数には小銃や銃剣が行き届かない、すなわち丸腰で戦わねばならない実情にあった。 

 こうした「根こそぎ動員」のほかにも、義勇兵役制度の検討、国土の戦場化のための軍・官・民一体となった各種体制の整備などに着手するとともに、「本土決戦のための作戦教義」の確立を急いだ。 

▽ 後退配備による沿岸撃滅―対上陸作戦思想の混迷 

 昭和19年12月にレイテ決戦を断念した時点で、大本営には未だ「本土決戦」の本格的な作戦構想は存在せず、ルソン島やレイテ島などでの「フィリピン決戦」を行う場合の根拠となった「捷(しょう)号作戦」だけが依然として存在するにすぎなかった。 

 この「捷号作戦」の基本方針では決戦場はあくまでもフィリピンであり、本土は万が一のため予備的に準備しておく程度の考えであった。それでも、この基本方針に基づき、同年10月頃からすでに本土では沿岸防御のための陣地構築が細々と開始されていた。この時点での陸軍は、日本全土の広大な防御正面を、前述したような「12コ師団」程度の不十分な兵力でカバーすることを前提としていた。そのため、基本的な考え方は、(水際部にこだわらず)沿岸部に存在する堅固な地形を活用した「拠点陣地」を構築し、これを攻勢のための「支とう」としてあくまで保持する、という守勢作戦であった。 

 拠点陣地とは、広い正面に分散して「陸の孤島」のように配置され、強力な敵の来攻に際しては完全包囲されても、ある程度の期間は生き残れるような独立した陣地である。このため、激しい敵の砲爆撃に対して我が戦力を「温存」できることが重視された。このような築城方式に影響を与えていたのが、昭和19年10月10日に参謀本部(教育総監部)から配布された『上陸防御教令(案)』であった。 

 この教令(案)では、戦理上は水際直接配備が有利であることを述べつつも、「守備隊は配備の重点を海岸から適宜後退した地域に設け、極力(敵上陸部隊による)橋頭堡の設定を妨害する」という「後退配備」を通常の基準とした。これは、サイパン島における作戦から抽出された「非制空・制海権下での水際撃滅はほとんど成立しえない」という教訓事項を本土沿岸での防御にもそのまま適用したものであった。 

 このように、昭和19年7月から始まった本土決戦準備の初期段階においては、必然的に島嶼守備作戦の教訓を直接取り入れた「後退配備による沿岸撃滅」を基本とし、これに基づいた築城を全国的に推進することになった。本土兵備の急速な充実を決意した大本営陸軍部が、根こそぎ動員を開始した昭和20年2月以降も、しばらくはこの「後退配備による沿岸撃滅」が作戦思想の主流であった。 

 昭和20年3月10日、東京大空襲の日に配布された『対上陸作戦に関する統帥の参考書』では、方面軍主力が攻勢に転移する際の徹底的な戦力集中と、そのための沿岸防御兵団の「縦深拠点式配備」が強調され、やむを得ない場合には「内陸部における持久作戦」さえも容認していた。又、同年3月16日に配布された『国土築城実施要綱』では、沿岸部の適宜後方に「主抵抗地帯」を設定することを示していた。これらは、いずれも硫黄島における玉砕(昭和20年3月17日)の直前に配布されたものである。 

▽ 松代大本営への移転中止と「帝都固守」 

 昭和20年に入り、マリアナ諸島から来襲するB29の猛威は激化し、東京市街の大半が焼土と化しつつあった。3月上旬、かねてから信州松代の山中に建設中であった政府及び大本営のための地下坑道施設がほぼ完成した。これにより、敵の空中攻撃などから天皇陛下の御安泰を確保し、戦争指導及び作戦指導、指揮・通信中枢などを防護し、本土決戦に際しては最悪の場合でも内陸部における徹底抗戦の可能性が開けた。そこで陸軍参謀総長は、昭和天皇の御内意を伺ったところ、陛下は帝都東京を離れ給うことをお許しにならなかった。 

 国民と最後まで危難と苦悩を共にされようとする昭和天皇の大御心を拝察し、悲痛なる感激の中で、政府及び大本営の松代移転は実施されないことになった。そして、昭和20年6月6日の最高戦争指導会議において、「帝都固守」の決定が明らかにされた結果、帝都を中心とする関東地区の防衛は、純粋な作戦上の考慮以外にも言語に絶する精神的要素が潜むことになった。 

 次回は、この松代大本営が構築された経緯を詳述するとともに、ここを最終的な確保地域(いわゆる「腹切り場」)とする内陸部での作戦の可能性について戦略・戦術的な視点から考察してみたい。 

(以下次号)

2012/5/25