【第9回】松代大本営と内陸作戦の可能性(その1)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・日本軍の潜入攻撃の大胆さと、最後まで戦う勇敢さは驚嘆すべきものがあった。第33師団の部隊は、いかに弱められ、疲れ果てても、なおかつ本来の目的達成のため猛攻を繰り返して来る。第33師団のこのような行動は、史上その例を見ざるものであった。第33師団長・田中信男少将が、部下に対して決死的行動を要求した自署の命令文は、ここに再記するにあたいするもので、日本軍の指揮官が、部下将兵を扱った態度と方法とをよく現わしている。・・・ 

 ・・・かくのごとく望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を遂行した日本人の最高の勇気と大胆不敵さは、疑う余地がなく、日本軍に比肩すべき陸軍は、他のいかなる国にもないであろう。・・・ 

  W.スリム中将(イギリス軍人、英印第14軍司令官) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。今回は、大東亜戦争の後半、内地で松代大本営が構築される経緯を、同時期の外地における作戦・戦闘と対比しながら詳述いたします。 

▽ 「松代大本営」移転計画と「インパール作戦」の認可 

 日本陸軍の行政担任部門である陸軍省は、太平洋正面における米軍の本格的な反攻作戦が開始される直前の昭和19年1月、松代への大本営移転を最初に計画した。そして、これと時期を同じくして陸軍の作戦担任部門である大本営陸軍部は、インパール作戦の発動を南方軍総司令官に対して認可している。 

 インドに駐留するイギリス軍の主要拠点・インパールは、ビルマから近いインド北東部アッサム地方に位置し、ビルマとインドを結ぶ径路上の要衝にあった。この地域を攻略すれば、インド独立の機運を醸成できるのみならず、連合国から支那への主要な補給路である「援蒋ルート」を遮断し、中国国民党軍を著しく弱体化できる。それにより、アメリカ・イギリスと中国国民党との提携を分断し、さらに状況が許せば国民党軍との停戦にまで導くことでシナ大陸での戦線に決着を付け、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開しようと考えたのである。 

 インパールの攻略に任じた第15軍司令官・牟田口廉也中将が描いていた「インパール作戦」の構想は、次のようなものであった。 

1 軍は、敵の反攻に先立ち、主力をもってインパール周辺における英印軍反攻の策源を急襲・覆滅し、防衛線をアッサム地方に推進して、ビルマ西域の防衛を強化するとともに、対インド政戦略の根拠基地とする。 

2 第33師団がマニプール河谷に沿って南から北に、第15師団がアラカン山脈を横断して東から西に、それぞれインパールに向かって攻勢前進し、北と南からインパールを攻略する。 

3 第31師団が、第15師団のさらに北側からアラカン山脈を横断して東から西に攻勢前進し、コヒマ(インパールの北110Km)を攻略し、さらにディマプール(コヒマ北西40Km)に突進して英印軍最大の補給基地を占領するとともに、援蒋ルートにおける重要な輸送手段であるアッサム鉄道を遮断する。 

 インパール作戦は、戦略的にはインド独立の促進を狙いとした「インド国民軍(チャンドラ・ボースを司令官とした6千人の投降インド人捕虜による部隊)との共同作戦」であるとともに、米・英による対支軍事援助を分断して「支那事変の早期解決」を促そうとするものであった。 

 また、戦術的には敵の完全な制空権下において約9万人規模の大部隊が行う「潜入攻撃」、すなわち山地や渓谷の使える全ての径路からの分進合撃であった。もはや、航空機が戦場を支配する時代にあっては、制空権なしに日露戦争のような白昼堂々の平地での大進撃などは、実現し得なかったのである。 

 このように、インパール作戦を実施すべきであると強硬に主張していた第15軍司令官・牟田口中将の作戦構想は、外征作戦としての戦略・戦術上きわめて「理」に適ったものであった。 

▽ 松代大本営 ─ 軍政部門・陸軍省によって進められた「移転計画」 

 陸軍省では大東亜戦争の開戦当初から、海岸に近く広い関東平野の端に位置する帝都・東京の防衛機能上の問題点を重視し、本土決戦を想定して海岸から離れた山間部へ政府と大本営を移転すべきであると唱える勢力が存在していた。その一人が陸軍省軍務局軍務課の課員・井田正孝少佐(終戦時には中佐)である。 

 井田少佐は、終戦時にポツダム宣言の受諾を拒否して徹底抗戦を叫び、これに反対する近衛師団長・森赳中将を殺害したクーデター未遂事件(宮城事件)の首謀者のひとりであり、陸相官邸において責任をとって切腹した陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)大将の最期を見届けている。 

 井田少佐は、昭和19年1月に大本営移転計画を作成し、陸軍次官・富永恭次中将に計画書を提出したとされている。しかし、一介の少佐が将軍閣下に計画書を提出し、しかもそれが承認されるということは、軍隊という階級社会の中では常識的に考えられない話である。井田少佐が誰に命じられ、あるいは誰の指示を受けてこの計画を作成し、どのような系統でこれが上申されていったかについては、そのほとんどの資料が終戦時に市ヶ谷台で焼却処分されてしまい、今なお不明なままである。 

 いずれにせよ、大本営の移転という国家戦略上の重大事項が、作戦を担任する大本営陸軍部(陸軍参謀本部)ではなく、軍事行政をつかさどる陸軍省の主導によって進められていたことだけは事実であり、結果的に陸軍次官の承認を受けた同計画に基づき現地調査が行われることとなった。 

▽ インパール作戦 ─ 前代未聞の師団長更迭 

 ビルマ戦線では、昭和19年3月8日、第33師団が攻撃を開始、南から三径路沿いに各歩兵連隊を並列させてインパールに向かい北進した。その一週間後の3月15日、第15軍主力が前進を開始、敵の制空権下でチンドウィン河を奇襲渡河し、峻厳なるアラカン山脈を踏破してインパールとコヒマに向かった。 

 軍主力が前進を開始した頃、第33師団はインパール手前120Kmのトンザン・シンゲル地区で英印第14軍(司令官・スリム中将)隷下の部隊と大激戦となり、多数の死傷者が出た。この血なまぐさい光景を目の当たりにした第33師団長・柳田元三中将は、3月25日、部隊に安全な地域までの後退を命ずるとともに、自ら牟田口軍司令官に対して「インパール平地への進撃を中止し、現在占領している地域を確保して、防御態勢を強化したい」と意見具申した。 

 牟田口司令官は、インパールに向かい攻勢前進を継続するよう厳命するとともに、柳田師団長が「戦況悲観病」に冒されているものと判断し、第33師団の指揮を師団参謀長が執るように命じた。その後の攻撃でも第33師団は激しい損耗を出し、各中隊の生存者が8名に満たない歩兵大隊さえもあった。第15軍はできうる限り兵員の補充に努めたが、この激しい損耗には追いつけず、師団はインパール手前20Kmの地点で敵の陣地を突破できないままであった。 

 牟田口司令官は、第33師団長・柳田中将を更迭し、昭和19年5月16日に後任の師団長として田中信男少将(後に中将)が就任した。猛将として知られた田中少将が指揮する満身創痍の第33師団は、それまでの敵陣地への正面攻撃を改め、インパールを背面から挺進攻撃し、残存する兵隊たちも力攻また力攻、鬼神のごとき働きをした。 

▽ インパール作戦 ─ 千載一遇の「勝機」を失う 

 一方、第31師団の作戦地域では、同年4月6日、英印第33軍の1コ師団が前線に投入されたが、その前日には第31師団の先遣隊(宮崎支隊)がインパールへの入り口をふさぐ要衝コヒマに進出した。これにより、日本軍はディマプールまで、わずか二日の距離に迫った。コヒマの英印軍は微弱であり、一部を残してディマプールに退却しつつあった。 

 この報告を受けた牟田口司令官は、4月7日、第31師団長・佐藤幸徳中将に対し「直ちに退却する敵に追尾して、ディマプールに突進すべし」と命じた。しかし、インパール作戦そのものに懐疑的であった佐藤師団長は、当面のコヒマ攻略に専念し、ディマプールへの追撃には消極的な対応を示した。 

 しかも、これらを知った第15軍の上級部隊であるビルマ方面軍司令官・河邊正三中将は、戦局がインド国内の深くまで拡大することを恐れ、「第15軍司令官は、ディマプールへの追撃を中止すべし」との命令を発してきた。このため、牟田口中将は涙を飲んで追撃命令を取り消した。こうして千載一遇の「勝機(チャンス)」は去っていった。 

 この段階で追撃を発動してディマプールを陥落させていれば、日本側は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど大量の補給物資を確保でき、補給上の問題を解決したうえで、援蒋ルートを遮断し、インパール作戦はその目的を達成して終わったはずであった。しかし、現実にはアッサム正面から来た英印軍の増援部隊により、第31師団のコヒマ攻略は苦境に陥り、攻勢から守勢にまわることを余儀なくされ、戦闘の長期化に伴い食糧・弾薬の補給も困難になってきた。 

 佐藤師団長は、5月末には補給途絶を理由に戦闘を停止し、さらに日本側の敗色が濃くなると、6月1日には命令を無視して無断撤退してしまった。これにより、三分の一の戦力を失った第15軍は、総合戦力上と補給上の両面から勝利の見込みが完全に無くなり、7月4日には全作戦が中止された。このインパール作戦では日本軍9万が参加し、3万名が戦死、4万名が戦病死した。インパール作戦が中止された3日後には太平洋でサイパン島守備隊3万名が玉砕した。 

▽ 松代大本営 ─ 「一大遷都」計画へ 

 その頃、本土では「大本営移転」のための現地調査とそれに伴う計画修正が行われていた。大本営移転計画が提出され、承認されてから半年後の昭和19年6月、陸軍省・井田少佐以下3名が極秘で大本営、省庁、NHK放送局、そして皇居の移転先となる候補地を調査し、建設場所として長野県埴科郡松代町など(現在の長野市松代地区)を選定した。選定理由としては、岩盤が固い山に囲まれ、海岸線から遠く離れた要害の地であること。近隣に飛行場があることなどが挙げられた。 

 調査の結果、計画どおり象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設するとともに、当初の計画を変更して舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転、また皆神山地下壕を備蓄庫とした。これら3つの地下壕の長さは約11Kmにも及んだ。また、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)の建物が造られる計画であった。これらのほかに、上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山に送信施設、埴科郡清野村(現在の長野市)妻女山に受信施設、上水内郡茂菅村(現在の長野市)の善光寺温泉及び善白鉄道トンネルに皇族のための住居などが計画された。 

 このように「大本営移転」とは名ばかりで、その実態は日本の国家中枢機能そのものを移転する「一大遷都」計画であった。インパール作戦という日本陸軍史上最も大規模かつ積極的な外征の「攻勢作戦」が展開されていたのと時を同じくして、国内では最も大規模な「守勢作戦」が密かに準備されつつあったというのは、何の因果であろうか。 

 次回は、もしもこの松代大本営を「腹切り場」とする内陸部での作戦があったとすれば、どのようなものになったかについて戦略・戦術的な視点から考察する。 

(以下次号)

2012/6/1