【第10回】松代大本営と内陸作戦の可能性(その2)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・戦争とは、他の手段を交えて行う政治的関係の継続以外の何ものでもない。(中略)政治活動は、平時戦時を通じ、一貫して行われる。・・・ 

 クラウゼウイッツ(プロシア陸軍大学校長・参謀長) 

 ・・・戦争は政治の続きである。だから、戦争の前の政治を戦争へと導いてその目的を遂げる政治を研究しなければならない。(中略)俗物連中には、戦争が政治の続きだということが分かっていないから、「敵が攻撃してきた」とか「敵が我が領土に侵入した」とか言うだけで、何がもとで、いかなる階級によって、どんな政治目的のために戦争が引き起こされたかは調べようともしない。・・・ 

 レーニン(ロシアの革命家) 

 ・・・人々は、危機の身に及ばぬ前は神と兵士を忘れ、一たび危機が至ると神と兵士にとりすがる。危機から救われた直後は神へも兵士にも等しく感謝を捧げる。然しやがて神は人々から忘れられ兵士は人々に疎んぜられるに至る。・・・ 

 フランシス・クワールド(イギリスの詩人) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。今回は、大東亜戦争の後半、内地で松代大本営が構築される経緯を詳述するとともに、もしも、この松代大本営とその周辺を最終的に確保する内陸部での作戦があったとすれば、どのようなものであったかについて戦略・戦術的な視点から考察いたします。 

▽ 「遷都」のための工事着手と特攻作戦 

 昭和19年7月、太平洋正面においてサイパン島が陥落し、絶対国防圏があっけなく崩壊すると、本土爆撃と本土決戦はいよいよ現実の問題となってきた。これらの責任をとって対陣を余儀なくされた東條内閣は、最後の閣議において松代に日本政府全体を移転するための施設工事を了承した。東條英機首相はこの遷都計画をさらに大規模化し、長野市松岡にあった長野飛行場を航空作戦の根拠地として拡張するとともに、東京浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧と大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設して、本土決戦に備えることとした。 

 東條内閣が倒れ、小磯国昭内閣が成立すると、政府は国家総力戦に備えるために陸海軍を統合して皇族を総参謀長にする体制作りを検討するとともに、海軍では「必死必殺・体当たり」の特攻作戦について、その実施を前提とした研究が開始された。そして、昭和19年10月21日、海軍神風特別攻撃隊・大和隊がレイテ湾に突入、同年11月8日、人間魚雷回天、第一陣が特攻出撃した。多くの若き日本男児たちの命と引き換えに米軍艦船が太平洋の海中に屠(ほふ)られた。その鬼神をも泣かしむる壮絶な闘い振りは、米軍の将兵たちを恐怖のどん底に叩き落した。これらが人間のなせる業とは、到底思えなかったのだ。 

 太平洋戦線で特攻作戦が始まったのと時を同じくして、昭和19年11月11日午前11時、松代大本営構築の工事が開始された。「松代倉庫」の工事という名目でコンプレッサーやパイプなど大量の物資が列車で輸送され、工事現場近くに運び込まれた。当時、日本人の男の多くが既に戦場に赴いていたため、4千人前後の作業員の多くは本土や半島からやってきた朝鮮人労働者であった。工事は昼夜三交代で進められ、工事現場周辺の家は強制的に移転させられた。こうした大規模な工事を目の当たりにした地元やその周辺地域では、すぐに「天皇陛下が東京から移ってこられる」という噂が広がった。 

▽ 松代遷都による内陸作戦の様相 

 地理的・地政学に考えれば明らかなことであるが、松代への皇居や政府機能の移転は、単に「空襲による被害を一時的に逃れる」ためのものではなく、「本土における最終決戦を内陸部で戦う」ことを覚悟してのものであった。その作戦構想は、既に九州や関東に上陸侵攻し、東京を占領した米軍に対して、本州中央の山地部を活用し、特に「越後山脈から関東山地を天然の長城として山岳地での戦闘を反復し、敵に出血を強要」する徹底抗戦である。 

 米国は、関東平野において日本軍を撃滅するまでは米軍部隊のみをもって行う予定であったが、米軍が東京を占領してもなおかつ日本軍の抵抗が継続される場合には、新たな作戦段階としてオーストラリア、カナダ、イギリス、フランス等の連合軍の諸部隊と共同で作戦することを考えていた。完全な制空権を確保した後の米軍といえども、本州中央の険しい山岳地帯を道路伝いに縦長の隊形で攻撃前進することになれば、日本軍による遊撃戦に巻き込まれておびただしい死傷者が出ることは容易に想像できたのであろう。 

 したがって、内陸作戦の段階から、本土で戦う敵は米軍ではなく、連合軍となる。 

 連合軍の主要な侵攻ルートは、高崎から中山道を碓氷峠(群馬と長野の県境)まで西進し、信州の小諸・上田を抜ける最短径路と、八王子から甲州街道で諏訪まで進出し、松本方向に北進する径路の2本があり、この場合、碓氷峠の争奪こそが最大の激戦となるであろう。これ以外に、高崎から三国街道を北進して越後に進出し、反転して柏崎・上越方向と信濃川・千曲川沿いの2方向から長野盆地に迫る迂回径路がある。 

▽ 内陸作戦を可能にする戦略的な三条件 

 この松代遷都による内陸作戦を実行するためには、三つの戦略的条件が整っていなければならない。その第一は、日ソ中立条約が有効に機能しており、対連合軍戦と同時にソ連を敵として満州・朝鮮半島や日本海側で戦闘することが無い、ということである。このようにソ連が日本との条約を守って中立を維持することにより、日本海の海上補給路の安全を確保し、満州・朝鮮半島やシナ大陸から新潟や上越に増援部隊や物資を輸送することが期待できるのである。これらを裏付けるように、開戦の初期から本土決戦を予期し、松代への大本営移転を隠密裏に進めようと画策していた陸軍省の内部には、多くの「親ソ派」将校が存在していた。 

 第二には、支那戦線における中国国民党との和平、もしくは停戦がなされ、総兵力105万の支那派遣軍を有力な援軍として引き抜けるということである。この意味で、「援蒋ルートを遮断するためのインパール作戦」に期待したものは大きかったのである。また、あくまで本土決戦を主張する親ソ派軍人の中には、国共内戦の再燃を予期し、国民党軍を打撃するためには「敵の敵は味方」との観点から中国共産党軍を味方に抱き込もうとする意見さえもあった。 

 第三には、国家の社会主義化の推進である。これは、統制経済・計画経済と全国民の軍事動員による徹底した総力戦体制を敷き、限られた資源で長期持久戦を戦えるだけの社会的基盤が確立されていることである。事実、昭和19年3月には政府による決戦非常措置が実施され、会社経理統制令改正や戦時非常金融整備要綱などの社会主義的政策が立て続けに打ち立てられ、かねてから計画されていたとおりに大東亜戦争の長期全面戦争化は推進されつつあった。 

 インパール作戦の失敗により、第二の条件が崩れていたにも拘らず、総工費2億円をかけて松代大本営が構築され、終戦時には全体の75%、総延長11キロ弱の大地下壕が造られていた。日本がポツダム宣言を受諾する2日前の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を無視し、満州や朝鮮半島、千島列島に攻め込んできた。こうして第一の条件も失われたにもかかわらず、それまで松代大本営を積極的に推進してきた将校らは、クーデターを画策してまで戦争を継続しようとした。もしも、さらに戦争が継続されることによりソ連が朝鮮半島を南下して新潟から上陸していたならば、日本の国土は本州中央の山地部で分断され、北海道と本州の日本海側をソ連が、本州の太平洋側と四国・九州をソ連以外の連合国により「分割統治」されることになり、ここに日本国の二千六百年にわたる歴史は終焉を迎えていたことであろう。 

▽ 昭和天皇の大御心と国民に対する道義的責任 

 昭和20年に入り本土空襲が本格化し、3月10日の東京大空襲では、一夜のうちに約10万人の一般国民が死亡した。その後も全国で都市爆撃が頻繁に行われ、国土が焼土化されていった。 

 大空襲の被害にあった都内をご視察なされた昭和天皇は、側近に「わたくしは臣民と一緒に帝都・東京で苦痛を分ちたい。最後まで東京にとどまるようにしたい。」と述べられ、松代への皇居移転をお許しにならなかった。これにより、昭和19年1月から軍政機関である陸軍省が主導して進められてきた、松代への遷都とこれを最終確保地域とする内陸作戦の可能性は消滅した。 

 このような情勢の中で本土決戦を断行する以上、軍令機関である大本営陸軍部(参謀本部)としても、たとえ「沿岸部での対上陸作戦」に敗れた場合も、その後の「内陸作戦」という選択肢はあり得なくなった。帝都を焼け野とし、沖縄や本土の各都市部で多くの民間人を死傷させてしまったことへの道義的な責任からも、「一兵の存する限り背後にある大和民族は最後まで護る」という姿勢を示さなければならなかったのである。 

(以下次号)

2012/6/8