【第11回】作戦思想の混迷 ─ 後退配備・沿岸撃滅か、水際撃滅か(その1)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・三、今後に於ける補給は殆んど杜絶すべきを以て極力現地の自活施策を強化すべし  四、如何なる場合に於いても坐して餓死を待つことなく万策を尽して戦闘を継続し、以て皇軍の名誉を発揚し将兵をして光栄ある死処を得しむるを信念とするを要す・・・(昭和19年3月25日「第17軍に与えたる第8方面軍命令」より抜粋) 

・・・(豪軍による戦争裁判における)戦犯容疑者たちは、国家の光栄ある犠牲者である・・・ 

・・・古い時代から今日に至るまでの指揮統御というものは、単に形だけのものではないのでありまして、本当は自分の心、自分の行いを戒しめ、自分の怒りを慎むということが大切なのだと・・・(昭和40年11月10日、陸自幹部学校での講演にて) 

  今村 均(第8方面軍司令官・大将) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。大東亜戦争末期における日本陸軍の対上陸作戦思想が「後退配備・沿岸撃滅」から「水際撃滅」へと変化していく過程について、今回から三回に分けて詳述いたします。 

▽ 『決号作戦準備要綱』の策定とその思想 

 本土決戦準備は昭和19年7月以降、決戦場をフィリピンとする「捷号作戦」計画に基づき進められていたが、昭和20年4月8日、これに代わる作戦計画として『決号作戦準備要綱』が策定された。本要綱における対上陸作戦の基本思想は、「本土の特性を活用し、一億国民の決起協力の下、先ず残存する全海空軍を挙げて特攻攻撃に任ぜしめ、敵上陸軍を洋上に撃滅するに努め、ついで本土の全地上戦力を決戦要域に集中し、縦深部署をもって上陸敵軍に対し決戦攻勢を断行し、戦争の帰趨を一挙に決せんとする」にあった。 

 地上作戦については、「上陸する敵を努めて沿岸要域に圧倒撃滅して戦局に最終の決を求める」としており、1ヶ月前の3月10日に配布された『対上陸作戦に関する統帥の参考書』と同じ「後退配備による沿岸撃滅」を基本とした作戦思想を主眼としている。 

 具体的には、速やかに敵主力の上陸正面(関東地方であれば九十九里浜か、相模湾か)を判定し、機に先んじて成るべく多くの兵力をその主上陸正面に機動集中し、敵の縦・横方向における戦力分離に乗じて決戦を求める。又、敵が同時数方面(関東地方であれば、鹿島灘、九十九里浜、相模湾)に侵攻する場合、敵主力に対して主作戦を指導し、支作戦方面にあっては、一部を以て所要の期間持久を策して、方面軍主力の作戦を容易にする。こうして、敵が確固たる上陸態勢を占めるのに先立ち、努めて沿岸要域において敵を撃破するというものである。 

 このように『決号作戦準備要綱』では、航空部隊による神風特攻と水上・水中からの特攻作戦により、努めて多くの敵部隊を洋上で減殺する一方で、陸上作戦では「努めて沿岸要域」という表現を用いることにより、沿岸要域以外、すなわち「内陸部」での作戦とならざるを得ない場合も予期した表現を用いている。そして、これに備え、軍に加えて一部官民の警防組織を活用したゲリラ戦による国内抗戦さえも準備する構想であった。 

 3月10日の『対上陸作戦に関する統帥の参考書』では、やむを得ない場合の「内陸部における持久作戦」を容認していたが、『決号作戦準備要綱』が策定された4月上旬の時点では、昭和天皇の大御心により、すでに内陸作戦の可能性は消滅していたはずである。それでも陸軍の内部には、内陸作戦による長期持久戦を捨て去ることができない勢力が存在していたのである。 

 最高戦争指導会議において「国策」としての「帝都固守」が決定され、明らかにされたのは、ようやく昭和20年6月6日になってからである。 

▽ メッケル戦術が色濃く残った『決号作戦準備要綱』 

 『決号作戦準備要綱』示達に伴い、本土決戦のため全軍に示す教令を作成する段階で、大本営陸軍部はこれまで以上に国土戦の特性を十分に加味した明快かつ徹底した作戦思想の確立を必要とした。しかしながら、実際には『決号作戦準備要綱』そのものが、「速やかに敵主力の侵攻方面を判定し、機に先んじて主侵攻方面に機動集中し、かつ敵の海岸堡の確立に先立ち、沿岸要域において撃破する」というように後退配備を容認したものであった。ここには、半世紀以上前にメッケル少佐が『日本国防論』で述べた「敵兵が上陸するときはこれに対し、勉めて迅速に我が兵を集中し、敵が大いにその兵力を増加するのに先んじて、敵に優るだけの兵力を以てこれを攻撃しなければ勝ち目がない」という考え方が色濃く残っている。 

 しかしながら、航空機の登場で作戦・戦闘の様相が一変し、制空権を敵に奪われた中で大部隊が長距離の地上移動を行うような作戦構想は、最早「絵に画いた餅」となっていたのである。又、当時の日本の限られた情報収集能力では「敵主力の侵攻方面」の判定は遅れるであろうし、それから兵力を機動集中させたのでは、「水際における敵の必然的弱点」はほとんど消滅しているであろう。 

 このように考えれば、当時の状況で「後退配備による沿岸撃滅」を行うことは、そのまま内陸部での作戦とならざるを得ない。それに加えて硫黄島が占領され、米軍のB29による本土空襲が本格化したことで、国土・国民にまで多大な戦禍が及ぶようになったことへの責任からも、何としてもガダルカナル島以来の連戦連敗に終止符を打ち、真に最後の決戦として一勝しなければならない、という意識が当時の大本営を支配し始めてきた。このため、過去幾多の戦訓を吸収・総合して、明確な対上陸作戦思想を確立し、その徹底を図ることが最優先事項となった。 

▽ 第8方面軍司令官・今村大将の透徹した信念 

 こうした大本営陸軍部の迷いに対して一条の希望の光を与えたものは、ラバウル島の防衛に任じていた第8方面軍(通称「剛部隊」)の作戦思想であった。 

 司令官・今村均大将は「情」と「理」を兼ね備えた名将であり、対上陸作戦の用兵思想に関して透徹した信念を持っていた。それは、まず万難を排して飢餓や敵の砲爆撃から残存する。次いで敵が上陸したならば、数線の縦長区分をもって海岸に向かい突進する。この際、左翼隊・右翼隊も予備隊も不要である。とにかく縦長部署をとり、目をつぶって海岸に突進して敵の喉元に喰いつく、という壮絶なものであった。 

 今村大将は、補給の途絶したラバウルを防衛するため、現地自活の方策にありとあらゆる手段を尽くして部下将兵の生存を維持する一方で、敵の上陸侵攻を迎撃・破砕するために築城や教育訓練など有形無形の戦力強化に努めていた。その結果、米軍をしてその心胆を寒からしめ、要衝ラバウルの攻撃を回避させた。つまり、空中偵察や無線傍受などにより、第8方面軍の陣地構築や兵力の配備状況、部隊の士気や訓練練度などの情報を入手した米軍は、ここを攻撃した場合の自らの損害の多さに恐れおののいて、ラバウルを素通りして行ったのである。 

▽ 徹底した水際撃滅 ─『剛部隊作戦教令』 

 20年3月上旬、大本営は第8方面軍参謀・原四郎中佐を大本営陸軍部作戦課の参謀(本土決戦担当)として東京に招致し、本土決戦に向けて今村大将の作戦思想の普及徹底にあたらせた。原中佐は、ラバウルにおいて今村大将の厚い信頼を受け、全身全霊の智恵を絞って『剛部隊作戦教令』を起案した人物である。戦後、昭和45年に陸上自衛隊自幹部学校において原四郎氏が講話したところによると、『剛部隊作戦教令』の骨子は以下のとおりであった。 

○ 対上陸防御は攻撃である 

 敵が来たならば水際に向かって撃って出る。できることなら海の中まで歩いて行って遭遇戦をやる。陣地は作るがすべて攻撃のためのものである。1個大隊基幹の拠点を多数作るけれど、これらはあくまで攻勢拠点である。 

○ 一度戦闘を交えた軍隊・軍人は後退をしない 

 勝つか玉砕するかであり、任務上帰らねばならない斥候、伝令、遊撃部隊と目的を完遂した挺身攻撃部隊以外の軍隊、軍人は、一度戦闘を交えたならばその場から退いてはならない。 

○ 衛生部員以外のものは負傷者を介護してはならない、衛生部員は第一線に進出して負傷者を介護する 

 今村大将の統帥は、団隊長会同のとき「もしも師団長が弾丸を受けたとき、その副官はどうしますか」という質問に対して、「師団長といえども介護せず」ということであった。 

○ 第一線部隊と後方部隊との区別はない 

 戦闘部隊と後方部隊とは二身一体 であり、等しく銃をとって戦う。このため後方部隊を「富士部隊」(一にして二にあらず)と呼称した。 

 これらの『剛部隊作戦教令』を一貫した「徹底した攻撃精神により、敵上陸時の必然的弱点を突く」ことが今村大将の統帥の骨子であり、これは同時に戦理面においても、対上陸作戦における劣勢軍が勝利を求めうる唯一の戦術・戦法であった。 

(以下次号)

2012/6/15