【第11回】作戦思想の混迷 ─ 後退配備・沿岸撃滅か、水際撃滅か(その2)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

 ・・・歴史の良心的な教訓がなかったならば、軍事の教育というものは理屈万能の結果、知らず知らずの中に旧式戦術に引き戻される。・・(中略)・・非常に天分の豊かな偉い人が出てくると、平凡な人間というものは何か一つの型を求めてすぐそれだけに頼ろうとする癖がある。たとえば、ド・グランメーゾンという非常に優秀な人がおって、これで行くのだと決められると、もう良い答えが見つかったという訳で、無考えでそれに飛びつきやすくなる。これが国軍の戦略戦術思想というものを硬直化して間違いを起こしやすい。だから学校というものは、できるだけ自由な研究をしてそこに過早の判決を求めないことが必要だ。・・・ 

   フォッシュ(仏陸軍軍人、第一次世界大戦における連合国軍総司令官・元帥) 

・・・戦術なんて簡単だ。鼻柱をとっつかまえて、股間をけり上げろ!・・・ 

   パットン(米陸軍軍人、第二次世界大戦における米第3軍司令官・大将) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。大東亜戦争末期における日本陸軍の対上陸作戦思想が「後退配備・沿岸撃滅」から「水際撃滅」へと変化していく過程について詳述いたします。 

▽ 後退配備を捨てきれなかった『国土決戦教令』 

 『剛部隊作戦教令』から得られた戦訓、すなわち水際部に敵撃滅の勝機を求める作戦思想は、大本営作戦参謀らの賛同を得て昭和20年4月20日に示達された『国土決戦教令』に次のような文章で取り入れられた。 

  ○ 国土決戦軍は有形無形の最大戦力を傾倒して猛烈果敢なる攻勢により敵上陸軍を殲滅すべし。(第1) 

○ 決戦間傷病者は後送せざるを本旨とす。戦友の看護、付添はこれを認めず。戦闘間衛生部員は第一線に進出して治療に任ずべし。(第11) 

○ 戦闘中の部隊の後退はこれを許さず。(第12) 

○ 作戦間は全部隊、全兵員ことごとく戦闘部隊である。補給、衛生等に任ずる者も常に戦闘を準備し、命に応じ突撃に参加すべきものとす。(第13) 

 このように『国土決戦教令』では、これまでの島嶼における持久作戦と本土決戦との戦法、作戦指導上の観点に明確な区別があることを認識し、『剛部隊作戦教令』の徹底した攻撃精神を取り入れようとした。それにもかかわらず、対上陸作戦に関する戦術的な基本思想については『決号作戦準備要綱』に示された「後退配備による沿岸撃滅」の作戦思想から完全には脱却するには至らなかった。例えば、『国土決戦教令』の第30「対上陸戦闘成立の要件」では、「沿岸防御に任ずる兵団の長期にわたる靱強なる戦闘と攻勢兵団の神速なる機動および果敢猛烈なる攻撃とにあり」とされていたが、これは“メッケル流戦術”そのものである。 

 同様に第48でも「決戦は通常海岸の狭隘なる地域における橋頭陣地に対する攻撃にして、時間的地域的に策略を施すの余地少なく激烈凄惨なる局地戦闘に終始するを常態とす」としているが、これは上陸した敵部隊による第一目標線から第二目標線(※)までの進出と、そこでの「橋頭陣地」の構築を許容する『決号作戦準備要綱』の作戦思想をそのまま踏襲している。 

 ※ 本掲載記事の第1回「上陸作戦と対上陸作戦(その1)」参照 

▽ 水際撃滅に徹しきれなかった二つの理由 ― 兵力の不足と艦砲射撃の脅威認識 

 このように、『国土決戦教令』の作戦思想は、『剛部隊作戦教令』にある「敵が来たならば水際に向かって撃って出る。できることなら海の中まで歩いて行って遭遇戦をやる」というような徹底した水際撃滅にまでは至っていない。それは、『国土決戦教令』が出された昭和20年4月中旬は、本土決戦の本格的な準備がその緒についたばかりであり、50個師団を目標とした三次にわたる兵備下令も、第一次動員(18個師団)の実施途上であったことによるものであろう。すなわち、こうした実戦力の現状を考慮すれば、大本営を始め各作戦軍も現実問題として敵上陸にあたり、直ちに水際部で攻勢をとってこれを撃滅するだけの自信がなかったからではないかと察せられる。 

 また、サイパン島から硫黄島にいたる島嶼作戦における敵の艦砲射撃の威力が誇大されて伝えられたことにも大きく影響されたのであろう。昭和20年4月当時における各沿岸配備部隊は、敵の艦砲射撃による損害を考慮して海岸から数Km〜十数Kmも後退した高地帯に洞窟式の陣地を構築中であり、敵が上陸した場合にその初動を制する有効な射撃や砲撃を実施するための野戦陣地については、全く着手していなかった。関東防衛に任ずる第12方面軍においても九十九里浜もしくは相模湾方面から上陸してくる敵主力に対して、海岸から80Kmも後退した利根川上流地区に決戦兵団を保持し、敵の主上陸正面を判定した後にその正面において決戦を求めるという『決号作戦準備要綱』の基本思想に則った作戦構想であった。 

 このように、大本営も現地部隊も、ともに歴史の良心的な教訓を忘れ、理屈万能の結果、知らず知らずの中に「大部隊の機動集中」という“メッケル流戦術”に引き戻されていたのである。 

▽ 後退配備の重大な問題点その1 ― 敵上陸企図判断の限界と非制空権下の戦い 

 しかしながら、『決号作戦準備要綱』や『国土決戦教令』で示された「速やかに敵主力の侵攻方面を判定し、機に先んじて主侵攻方面に機動集中し、かつ敵の海岸堡の確立に先立ち、沿岸要域において撃破する」という後退配備を容認する作戦思想には、大東亜戦争末期における日本側の「情報」及び「制空権」という二つの観点から重大な問題があり、ほとんど実現不可能なものと化していた。 

 情報に関して言えば、敵の主上陸正面を事前に知ることは、敵の作戦指揮中枢内に浸透したスパイによる情報網を保持しない限り極めて困難である。しかも、敵も陽動や欺騙を多用するであろうから、不十分な情報に基づき兆候上のみから判断して敵の上陸開始前にそれを決めつけることは余りにもリスクが大きい。基本的には敵主力が上陸を開始するまで主上陸正面は解明できない、と考えるのが妥当であろう。昭和20年4月に大本営陸軍部第6課が作成した『敵の作戦的諸兆候よりする侵寇企図判断の戦例的観察』という文書はこのことに関して以下のように結論付けている。 

 「・・・情報的に作戦計画を観察してみると、わが主作戦方面はせいぜい十日前ぐらいには決定しなければならないことから、多方面からの遠大な機動をもってする緩慢な集中により決戦を企図するのは大なる期待を得られない。従って、努めて敵の上陸方面の兵団を以て決戦を遂行するという趣旨に基づき、当初の戦略配置を最も適切なものにさせると共に、重要な決心の時機を捕捉するため、作戦指導にあたっては常に全般的な戦略的判断を至当ならしめることは絶対に必要なことであると思考する。」 

 硫黄島が敵手に落ちて以降の米軍戦闘機や爆撃機による本土上空での縦横無尽な行動は、地上部隊の「遠大な機動をもってする緩慢な集中」という危険性を益々増大させつつあった。その結果、決戦兵団や増援部隊を集中させるための機動は、敵機からの攻撃目標となりやすい昼間を避け、夜間に小部隊ごと分散して行うことを余義なくされたのである。 

▽ 後退配備の重大な問題点その2 ― 戦場における住民への対応 

 『国土決戦教令』に記述されていたもう一つの注目すべき事項は、戦場における住民への対応についての記述である。本教令の第14には、「敵は住民、婦女、老幼を先頭に立てて前進し、わが戦意の消磨を計ることあるべし。かかる場合、わが同胞は己が生命の長きを希(ねが)はんよりは、皇国の戦捷を祈念しあるを信じ、敵兵撃滅に躊躇すべからず」とされていた。これは、欧州における国土戦の実相から来る教訓に基づき記述したものである。 

 第一次世界大戦で国境会戦に敗れて退却したフランス軍は、侵入した敵軍がその攻撃部隊の先頭に隣接村落の同胞婦女子を並べて進撃して来たのに対し、“涙をのんで機銃火を注がなければならなかった”のであり、この種の事例は、国共内戦における中共人民解放軍が人海戦術の一環として大規模に行ったとも云われている。このように古今東西の戦史を見ても、戦場付近の自国避難民のために軍隊の行動が妨害され、これを排除するために非常の処置をとらざるを得なかったという事例は多い。 

 大東亜戦争においても、昭和19年7月のサイパン島陥落後、これを占領した米軍による捕虜殺害や在留邦人の婦女子や老幼に対する虐殺があった。いわゆる「鬼畜米英」という言葉が用いられるようになったのはこの頃からである。これら在留邦人の多くが沖縄出身であったことから、こうした米軍による残虐行為はいち早く沖縄まで漏れ伝わっていた。 

 『国土決戦教令』が示達された昭和20年4月20日の時点で、沖縄の戦況はすでに無血上陸した米軍が、日本軍の嘉数〜西原〜棚原の主陣地線を突破していた。サイパン島における米軍の残虐行為を聞き及んでいた沖縄の住民は、米軍の占領下に取り残されることを恐れ、自ら進んで軍に協力し、終始行動を共にした。それゆえに、第一次大戦の欧州で見られた攻守両軍が対峙する間に避難住民が所在するという最悪の状態は回避された。 

 しかし、沖縄における首里戦線崩壊後の戦場の実相は、悲惨極まりないものであった。特に、司令官・バックナー中将が前線視察中に日本軍の砲撃により戦死すると、米軍は復讐のために日本の軍人と住民とを無差別に砲撃し、射殺するようになり、さらに占領地域での住民に対する暴行・殺害事件も多発した。 

 後退配備を採る以上、国土が戦場となり、このように住民に多大な被害が及ぶ事態は常に避けることが出来ない・・・、これは元寇・文永の役における貴重な教訓でさえあった。 

(以下次号)

2012/6/22