【第13回】作戦思想の混迷 ─ 後退配備・沿岸撃滅か、水際撃滅か(その3)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・大和、更ニ雷撃ヲ受ケ、一四二三左ニ四五度傾斜シテ誘爆、瞬時ニシテ沈没ス(駆逐艦「初霜」から連合艦隊司令部宛の電報)・・・ 

  松井一彦(海軍兵学校73期・駆逐艦「初霜」通信士) 

・・・サハレ徳之島西方二〇浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨體四裂ス 水深四三〇米 乗員三千餘名ヲ数ヘ、還レルモノ僅カニ二百数十名 至烈ノ闘魂、至高ノ練度、天下ニ恥ジザル最期ナリ(『戦艦大和の最期』GHQに没収された初版より)・・・ 

  吉田 満(作家、元海軍少尉・戦艦「大和」副電測士) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。今回は大東亜戦争末期における日本陸軍の対上陸作戦思想が、いよいよ「後退配備・沿岸撃滅」から「水際撃滅」へと急激に変化していった段階について詳述します。 

▽ 本土と島嶼の本質的な差異 

 ガダルカナル島奪回作戦以降、太平洋正面において日本陸軍が連戦連敗したことについては、明らかな理由が二つあった。それは、「敵の上陸時期、上陸兵力の判断を誤ったこと」と「制海権・制空権を喪失した離島における作戦であったこと」である。これらにより、我の作戦は、常に準備不足と戦力の逐次投入を余儀なくされ、また、作戦間の兵員、弾薬、糧食、医療品等の補給はことごとく断たれて離島に孤立した結果、世界最強といわれた日本陸軍本来の実力をほとんど発揮できないまま惨敗に終わったのであった。 

 サイパン島がわずか一ヵ月で陥落したことも、考え方次第では、一ヵ月もよく保持できたといえるだろう。なぜなら、敵は大本営が予想した時期よりも百日も早く侵攻したのであり、その百日の間に我は築城を完成し、兵備を充実して十分な訓練を行い、万一敗れるとしても三ヵ月は持ちこたえるものと考えられていた。しかし、現実には指揮官到着後、一ヵ月も経ないうちに敵が上陸侵攻し、しかも第43師団の一部は移動中に海没しており、沿岸の防備は着手したばかりの状態であった。つまり、サイパン島の守備作戦における水際防御の失敗については、これを戦術的に論じる以前に、戦略的な洞察を誤ったことにより、地形の戦力化や部隊の組織化が不十分なままで戦わざるを得なかったことに留意すべきであろう。 

 フィリピンでのレイテ決戦もまた同様に、マッカーサー軍に急襲されて無血上陸を許し、海軍による台湾航空戦の圧勝という「誤報」も相まって、大本営が急遽ルソン島からレイテ島に決戦場に変更したため、ガダルカナル島での作戦と同様に戦力の逐次投入に陥り、ことごとく撃破されたのであった。 

 さらに、硫黄島作戦は、絶対国防圏が破綻した後に策定された捷号作戦における本土決戦の一環としての持久作戦であり、「地上部隊の増援を一切期待せず、最後まで孤立して戦闘」することを前提とした島嶼における作戦であった。 

 本土における作戦は、二つの点で本質的にこれらの島嶼作戦と条件を異にするものであった。その一つは、海上で補給を絶たれるという根本的な弱点がないことである。備蓄された補給品や新たに生産される兵器は、津軽・関門の両海峡を除けば陸路を通じて全日本的に可能であり、それらが尽きる時は日本の生命が尽きる時でもある。つまり、これまでの策源から遠くはなれた孤島での作戦に対し、我は「策源における戦い」が期待できるのであり、逆に敵は益々長遠となる海路に後方連絡線(補給ルート)を保持して来攻するのである。これに加えて空・海からの特攻攻撃も、発進基地から近くなることでより多くの成果が期待できた。 

 二つ目には、本土の地積はこれまでの島嶼とは比較にならないほど広く、百万以上の野戦軍を全国各地に展開させることも十分可能であった。これは、明治陸軍がメッケル少佐の指導の下に策定した「作戦計画要領」の根底をなす国土防衛の前提に戻ったということでもある。メッケル少佐は、明治20(1887)年に著した『日本国防論』で、その前提を島国である日本を守るには強大な艦隊を備えておく必要があるが、当時(明治初期)の弱小な艦隊では、敵の上陸に先立ち撃滅されるか駆逐されてしまい、ほとんど役に立たないとしていたが、これはいよいよ本土決戦を迎える段階の日本海軍の姿そのものであった。 

 ミッドウェー海戦での大敗北以降の連戦連敗で空母や主力艦のほとんどを消失していた海軍は、フィリピン作戦において水上艦艇の温存を要望する陸軍に対して次のように懇願し、陸軍の油槽船4隻を徴用してまでレイテ湾への突入を強行した。 

 ・・・死に場所がほしい。連合艦隊に死に花を咲かすチャンスを与えて下さい。(海軍作戦部長・中澤少将)・・・ 

 そして沖縄作戦では、護衛機もつけないまま戦艦大和を「特攻」させることで、念願の「死に花を咲かす」ことができたのであった。こうして連合艦隊を消滅させた後の日本海軍の実戦力は、米海軍との比較においてまさに明治初期よりも微弱であったといえよう。しかしその反面、全国的な動員体制が敷かれていた大東亜戦争末期の日本では、築城や兵站準備における国民の協力は、明治初期には考えられないほどの規模と熱意をもって得ることができたのであった。 

 こうした地の利から、今度こそ敵の上陸地点に車懸りに殺到する「連続不断の攻勢」も可能であろうと判断されるに至った。このことは、従来の島嶼における「持久戦」的な考え方を一切排除して、全て攻勢による水際部での「決戦」を行うことが可能になってきたことを意味する。 

▽ 水際撃滅の必要性と可能性 

 昭和20年4月時点での沖縄作戦と根こそぎ動員の状況は、その後の水際撃滅の必要性と可能性を大いに増大させることとなった。この時点で出された『国土決戦教令』は、未だ「後退配備による沿岸撃滅」の作戦思想から脱却できていないながらも、その根本には徹底した水際撃滅を説く『剛部隊作戦教令』の基本理念があった。 

 4月1日の米軍上陸に始まった沖縄での地上作戦は、5月29日に首里戦線が崩壊したが、この時点で潔く「玉砕」か、更に南下して「抵抗を継続」するかで司令部内での意見が分裂した。このような作戦指導の混乱に加え、一度上陸を完了した敵への攻撃の頓挫と大量損耗、住民(非戦闘員)の疎開が至難を極めること等の沖縄作戦での教訓は、基本的に一地でも敵に奪取されることを拒否する水際撃滅の必要性を益々増大させた。 

 軍が首里戦線を捨てて島尻地区での抗戦を続けたことにより、沖縄作戦が惨状を極めていた同年6月、本土では当初は不可能と思われた50コ師団分の動員も予想以上に進展しつつあった。これにより、徐々に「攻勢作戦による水際撃滅」への自信をもち始めた大本営陸軍部は、『国土決戦戦法早わかり』や『国土築城実施要綱追補』を配布して水際撃滅思想の普及に努めるようになった。 

▽ 水際撃滅思想の普及―『国土決戦戦法早わかり』と『国土築城実施要綱追補』 

 昭和20年6月6日に配布された『国土決戦戦法早わかり』は、「攻勢作戦としての水際撃滅」の趣旨を徹底するため、これを平易に解説したものである。本書において特に強調された事項は、次のとおりである。 

●国土決戦は攻勢による殲滅戦である。 

●防御と築城にたよるのは不可。沿岸防御も決戦的に実施せよ。 

●陣地は敵の必ず来攻する地点に進んで構築せよ。平地の築城を重視すること。 

●飛行場の確保を重視せよ。 

●築城、訓練、戦闘はすべて対戦車戦闘を基調とせよ。 

●挺進斬込み戦法を重視せよ。 

 さらに6月17日、大本営陸軍部は徹底した攻勢作戦に即応するための築城について、『国土築城実施要綱追補』をもって指示した。この文書では作戦の基本思想を「国土決戦は攻撃による敵の撃滅」であり、「皇土は尺寸といえども、わが兵力の存在するかぎり敵を侵入せしむべからず」とし、そのため次の諸点を強調した。 

●特殊の正面を除き、一般には「攻勢による決戦」の指導を容易かつ有利ならしめるように築城を実施すべきものとする。「持久」に適する防御陣地を占領し、または要点を掩護するために拠点陣地を占領するのは、任務上これを命じた場合に限る。 

●築城は、敵の主攻予想方面を最も堅固に実施しなければならない。敵、特に戦車の行動が困難な山頂、密林等の地形上の堅固性のみを求めて部隊が健在しようとすることは、決戦指導上最も許されないことである。 

●前地地帯の部隊は、後退・収容を前提としている一般の前進陣地、警戒陣地とは意義を異にするものであり、一切の後退・収容を命じてはならない。前地においても最後の一兵までその陣地を死守するものとする。 

●戦闘にあたっては、敵中にとり残された拠点は絶対に後退してはならない。これこそ、防御に任ずる部隊が全軍の「決戦」を容易ならしめる「第一の道」である。これが可能になるように築城その他を準備すること。 

 このように、日本陸軍をして徹底した水際撃滅へと急旋回せざるを得なくせしめた最大の要因が「沖縄作戦の実相」であった。次号から数回に分けて、この沖縄作戦とその戦訓について詳述する。 

(以下次号)

2012/6/29