【第14回】沖縄作戦における水際撃滅の放棄と持久戦
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・戦場であいまみえた仲でなければ相手の偉大さはわかりません。あなた方日本軍の精強さに私たちは驚嘆しています。さきにヨーロッパ戦場で、日系市民志願兵で編成された第442部隊が樹てた偉大な業績は米軍内での驚異の的になっています。私たちはこの戦場でその実際を身をもって痛感しました。・・・ 

  (フィリピンで日本軍と交戦した某米軍師団長が、停戦と降伏の処理を済ませた第19師団長・尾崎義春中将とその参謀長に語った言葉) 

・・・私は歩兵出身だからよくわかるのであるが、日本歩兵の強さはすばらしい。私は大隊長として戦場で日本歩兵を指揮してみたいという気がする。・・・ 

  (GHQ第2部長・ドイツ系米軍人のウィロビー少将が、日本軍の武漢攻略作戦について語った言葉) 

・・・私の当時の戦術思想は、世界共通のそれに他なりません。・・・ 

  (第32軍作戦参謀・八原博通大佐が、戦後、陸自幹部学校での講話にて語った言葉) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。今回は日本陸軍をして徹底した水際撃滅へと急旋回せざるを得なくせしめた最大の要因である「沖縄作戦の実相」について詳述します。 

▽ 「西太平洋の要石」沖縄の戦略的価値 

 九州と台湾を連接する南西諸島は、シナ大陸及び朝鮮半島に対して直接的な防御線を形成するとともに、そのほぼ中心に位置する沖縄は、本土を防衛する上で九州を「主陣地」とした場合の「前哨抵抗線」となる。しかし、それほどの戦略的価値を有していた「西太平洋の要石」ともいうべき沖縄を日本陸軍が重要拠点として位置付けたのは、マリアナ諸島やレイテ沖で壊滅的な敗北を喫し、いよいよ米軍が日本の本土に迫ってくるという危機感が現実化してからであった。当時の沖縄は、「南方戦線との交通確保」のために重視されていたのであり、沖縄作戦そのものも航空作戦を最優先して、島を直接防衛することを目指していたわけではなかった。このような理由から、沖縄本島の守備隊の展開も遅れ、昭和19(1944)年2月になってようやく第32軍(三個師団を基幹、司令官・牛島満中将)が編成された。 

 沖縄本島は石川岳付近が東西3Kmの地峡をなし、これによって南北に分断されているが、人口や産業は南部に多く、北部はほとんど手付かずの自然峡谷地帯である。そのため、「沖縄本島南部への米軍上陸」を想定した作戦となり、第32軍が展開されてから急遽、南部に野戦陣地や飛行場がつくられた。兵営などはなかったため、学校の校舎や市庁舎をはじめとして、民間人の住居に兵士が居候するような例も多くあった。 

 米軍は、昭和19(1944)年10月に海軍のニミッツ提督を総司令官として琉球諸島への侵攻を命じたが、その上陸正面は嘉手納海岸とされた。その理由は、米軍主力が上陸できる正面は、海岸線が広く、海岸から沖合いに伸びるリーフ(環礁)の距離が最も短い嘉手納海岸に限定されていたからである。(ただし、一部であれば南部の湊川正面への上陸は可能であった。)この侵攻命令以降、沖縄本島を含む南西諸島、九州・四国への空襲が活発化したが、これにより、第32軍の陣地構築や兵站物資の集積は、当初の予定より大幅に遅れることになった。 

▽ 一個師団を台湾防衛に抽出され、戦力が三割減 

 大本営は同年9月18日にフィリピンでの決戦を決定し、台湾などを含めた各地から、続々と戦力をフィリピン本島へ集結させていた。その後、12月19日にレイテ決戦を断念した大本営は、次の本土決戦に向け本格的に体勢を立て直すこととした。そのような事情から第32軍の沖縄本島主力部隊も分割を余儀なくされ、12月中旬頃に一個師団を台湾に持っていかれてしまった。これにより、もともと三個師団で戦うはずだったのが二個師団となり、戦力の三割以上を失うことになったため、主力部隊の将兵は、相当な精神的ダメージを受けた。その後、大本営は、抽出した一個師団を補充する旨の通達を出し、部隊を安心させたものの、翌日にはそれを取り消すという失態を演じたため、沖縄守備隊の大本営への不信感をさらに募らせる結果となった。 

 第32軍司令部の中でも、かねてから大本営のこうしたやり方に最も反発していたのが、高級参謀・八原博通大佐であった。八原大佐は、戦後になって当時抱いていた思いを次のように述懐している。 

 ・・・従来太平洋の島々に、所要に充たない地上兵力を逐次泥縄的に分散配置し、逐次敵のために撃滅されてきている。真に来攻を予期する重要な島を選んで、決勝的地上兵力を時機を失せず配置し、十分な戦闘準備を整えることこそ肝要である。・・・ 

 大本営がフィリピン本島での決戦を断念し、しかも沖縄の兵力を増強することなく、むしろ削減したことから、第32軍は「沖縄決戦」は放棄されたものと判断し、作戦計画を見直すこととした。この時点で第32軍首脳部は、沖縄作戦の位置づけを「次の本土決戦に備えるため、必要な時間を稼ぐ持久戦である」との認識を持つに至った。二個師団の兵力では戦術的な可能性からもそれが限界であると考えたのである。 

 作戦計画見直しのポイントは、「限られた兵力で、米軍の沖縄本島侵攻をいかに長期間阻止し、米軍に多くの出血を強要するか」であった。さらに戦略的に見れば、「本土決戦のため、いかに長期間、米軍を沖縄に釘付けにするか」である。硫黄島での栗林兵団の見事なまでの持久戦が、この考えを更に強固なものとした。 

▽ 慶良間諸島への米軍上陸は「想定外」だった 

 昭和20(1945)年3月18日から20日にかけて、米軍による九州・四国の軍事施設(軍港や航空基地)への航空爆撃が開始された。日本側はこれに対して陸・海軍航空部隊により反撃し、米空母などに多少の打撃を与えた。3月23日、沖縄本島に過去最大規模の空爆が実行され、午後には沖縄本島南方に米海軍の空母機動艦隊が出現、夕方までには沖縄本島東方にも艦艇の機動部隊が現れた。もともと陸軍のような「持久戦」という概念を持たない海軍は、こうした情報に接し、レイテ作戦と同様ここでも戦艦大和を始めとする残存戦力を全て投入して「決戦」を行い、海上戦力のほとんどを失った。 

 沖縄近海に現れたこの大群が沖縄本島への上陸を企図した部隊であることは明らかであり、当初の作戦どおり沖縄本島南部の湊川方面を中心に敵上陸への備えに入った。しかし3月26日朝、米軍が最初に奇襲上陸したのは、沖縄本島ではなく慶良間島であった。この島には陸軍海上挺進戦隊の挺進爆雷艇(250キロの爆雷を積んだベニア製のモーターボート、いわゆる「丸レ」)が300隻ほど配備してあり、これは沖縄に展開していた同艇のおよそ半分にあたる規模であった。 

 日本軍はこれらの「丸レ」により、米軍が沖縄本島に上陸する直前、泊地の敵輸送船団を夜間奇襲により肉薄攻撃する予定でいたが、米軍は海上挺進戦隊に潜り込ませていたスパイにより、この作戦を詳しく承知していた。作戦根拠地への奇襲上陸を受けた海上挺進戦隊は出動できずに島内に閉じ込められ、「丸レ」は全て破壊された。 

 米軍が最初に慶良間島に上陸侵攻した理由には、海上挺進攻撃の脅威を取り除くことの他に大きく二つあった。ひとつは、沖縄上陸作戦が硫黄島上陸作戦以上に長期戦になるとの見通しを立てていた米軍にとって、南西諸島に拠点がほとんどないまま沖縄本島で長期戦をすることは、補給上極めて大きな問題があったことである。しかも沿岸部での上陸戦闘が長引いた場合、補給品を満載した船艇を長期間洋上に待機させねばならず、物資の輸送力に制約を受ける上、日本軍の海上・航空からの攻撃にも脆弱である。そのため、なんとしても南西諸島に補給のための前進基地を確保する必要があった。そこで米軍は、先ず慶良間島を占領し、この島を燃料や弾薬の貯蔵、艦船の修理などに活用したのである。 

 もうひとつの理由は、嘉手納正面への上陸作戦に先立ち、日本軍守備部隊の戦闘力を嘉手納正面以外の地域に拘束する陽動作戦である。慶良間を確保してからは、米軍の艦砲射撃と空爆の目標が沖縄本島南部に集中的に指向された。嘉手納、那覇、知念、湊川といった都市や重要拠点を次々に砲爆撃し、あたかも米軍の主上陸正面が那覇以南の地域であるかのごとく欺騙した。このため当初、第38軍は湊川正面に牽制されてしまったのである。 

▽ 大本営の意に反して水際撃滅を放棄 

 大本営と第32軍とで沖縄作戦の構想は全く一致していなかった。大本営は、第32軍に水際部で敵と戦うことにより、あくまでも飛行場を確保することを要望したが、これに対しても第32軍作戦参謀・八原大佐は、戦後になって次のように述べている。 

 ・・・太平洋での作戦は、空軍によって決を争うというのは、わが最高統帥部不動の方針である。私の意見は、この戦略思想に対する疑惑に発する一種の抵抗であった。すなわち、わが航空と海上の戦力が、敵に比してガタ落ちしつつある現状に鑑み、地上戦力の活用を一層重視すべきであるとの意見なのである。・・・ 

 こうした考えから、八原大佐は牛島軍司令官に対して、全島の地形縦深を活用した防御戦闘による「徹底した持久作戦」を提案した。その理由としては、米軍による上陸作戦は、嘉手納以北の北・中飛行場正面(北部)、大山から那覇の間の南飛行場正面(中部)、那覇から糸満の間の小禄飛行場正面(南部)の三正面を想定していたが、一個師団を台湾に取られたことで絶対的に不足していた当時の戦力では、全ての上陸正面に部隊を貼り付け、万全の態勢で沿岸防御することは不可能であったことを強調した。しかし、実際にはリーフ(環礁)の関係から米軍主力が上陸できる正面は北部のみであった。 

 第32軍としては、敵上陸の可能性が高いと判断される正面から順に重点的に配備せざるを得ないが、米軍の南部への主上陸も想定していたため、これに備えれば中部への配備はやや手薄になる。その一方で、中部の嘉数〜棚原から首里に至る地域は、北からの攻撃に対して天然の要害をなしており、築城工事や戦術・戦法等により地形を最大に活用すれば、少ない兵力で敵に多大な損害を与えられる。事実、ここが沖縄戦における最大の激戦地となり、米軍の南部侵攻を一ヶ月半以上も阻止したのであった。 

 特に嘉数高地における戦闘では、嘉数谷の障害により敵の歩兵と戦車を分離し、戦車だけを狭い谷間に引き込んで四周から砲火を浴びせるとともに、歩兵には嘉数高地の頂上を占領させ、敵と反対側の斜面に敵から隠れるように設けていた陣地(これを「反斜面陣地」という)から奇襲的に射ち上げる猛烈な射撃で敵兵をなぎ倒した。こうして二週間にわたり陣地を保持して、米軍に多大な損害を与えている。 

 米国軍学校への留学経験があり、当時の日本陸軍きっての戦術家と呼ばれていた八原大佐が、沖縄本島中部の堅固な地形を見て戦術的な圧勝をもって米軍に一泡吹かせてやろうと考えたのも当然であった。しかし八原大佐が考案した「徹底した持久作戦」とは、いったんは米軍に上陸を許すことを意味していた。これに対し、大本営の作戦構想は「上陸を阻止することにより、洋上にある敵船団に空・海からの大規模な特攻をかける」というものであったため、当然のことながら第32軍の作戦構想には同意できなかった。それでも八原大佐は、参謀長をも巻き込んで、この持久作戦を強行に実行した。これにより米軍上陸時の反撃はほとんど行われず、上陸が4月1日に行われたことから米軍兵士たちの間では「エイプリルフールではないか」との声も上がった。 

 第32軍がこの持久作戦において米軍に無血上陸を許したことは、読谷の北飛行場や嘉手納の中飛行場を実質的に放棄することであった。このように飛行場を丸ごと敵に渡したことで、戦場における敵機の航続時間が長くなり、夜間戦闘機の運用も可能になったため、日本側の航空戦略はほとんど機能しなくなった。本来は最大効果をもたらすはずの神風特別攻撃が、米軍上陸後はほとんど途中で撃墜されるようになったことで沖縄戦における敵上陸段階での勝機は完全に失われたのであった。 

▽ 硫黄島に比べて広大な沖縄本島 

 米軍に多大な出血を強要したもう一つの持久戦が硫黄島作戦であるが、この二つの作戦の本質的な違いを考えると、第32軍の持久作戦の特性が明らかになる。同じ島嶼とは言え、硫黄島に比べはるかに広大な面積の沖縄本島では、単に洞窟式陣地において固定的な防御を行う以外にも、陣地戦、火力戦と機動戦を様々に組み合わせた作戦のバリエーションがあったはずである。敵の上陸直後に大規模な砲撃を与えて混乱させ、減殺する。さらに夜襲で一撃してから、本来の持久作戦に移行する方法や、北部に打撃部隊を隠しておき、敵が南部侵攻に窮しているところを北から挟み撃ちにする等、叡智の限りを尽くせばまだまだ敵の弱点を突くことができたのではないだろうか、という疑問が残る。 

 もう一つの硫黄島との本質的な違いが、住民の存在である。軍の死傷者を上回る住民の損害のほとんどは、第32軍が首里〜運玉森の防御ラインを放棄して島尻地区への後退作戦に移ってから発生している。住民の損害発生の原因としては、住民に対する島内での避難誘導が間に合わなかったことや、軍民が一致協力して戦ったこと、これらに対する米軍の無差別砲爆撃等、多々考えられる。しかし、何よりも第32軍がこの作戦を当初から「本土決戦準備のための持久作戦」「本土決戦の前哨戦」と位置づけていたことが大きい。 

 実際には、首里〜運玉森の最終防御ラインが突破されつつある段階で、第32軍司令部内ではその後の作戦方針について「玉砕」と「後退」とで意見が二つに分かれていた。玉砕派が首里戦線のそれぞれの複郭陣地(拠点陣地)を死守し、住民の楯となって戦い抜いて潔く散ることを主張したのに対し、八原大佐を中心とする後退派は、本来の作戦目的に徹してこの戦線を放棄し、沖縄本島最南端まで抗戦して本土決戦のための時間を稼ぐことを主張した。結果的には「後退」するに決し、昭和20年5月29日、第32軍は当初の作戦計画には無かった首里複郭陣地の放棄と島尻金武半島への撤退に移行した。こうして同年6月23日、喜屋武地区での玉砕に至るまで、大規模に住民を巻き込んだ形で戦闘を継続したのであった。 

(以下次号)

2012/7/6