【第15回】沖縄戦場から帰還した将校による証言
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・戦闘が始まると軽挙妄動し、平素の作戦方針も準備もころりと忘れ、思いつきで行き当たりばったりの作戦をやるから、将兵をあたら犬死させ、弾薬を浪費する結果となる。こんな夜襲が成功するなどと主張した者は、初歩の戦闘指揮すら知らぬ者だ。(沖縄作戦・4月12日の夜襲決行に際して)・・・ 

・・・目前に迫った戦闘では、父の沖縄軍は必ず敗れる。我々がここで敗れることは、ただちに日本の滅亡を意味する。敗戦後の日本は何びとも想像することの出来ぬ世の中に一変するであろう。(中略)現在の日本の運命に殉ずるのは父だけで沢山だ。お前たちは全く異なった日本に生きるべき人間である。幼年学校(注:陸軍幼年学校を指す)には入るな。父の母校、米子中学で落ち着いて勉強せよ。(昭和20年3月31日頃、長男に宛てた手紙より)・・・ 

  八原博通(第32軍高級参謀・大佐) 

 日本兵法研究会の家村です。今回も前回に引き続き日本陸軍をして徹底した水際撃滅へと急旋回せざるを得なくせしめた最大の要因である「沖縄作戦の実相」について解説いたします。 

▽ 第32軍高級参謀・八原大佐と同航空参謀・神少佐 

 沖縄本島をはじめとする南西諸島にある飛行場は、沖縄航空決戦「天一号作戦」において大きな意義を有していた。事実、米軍が上陸する直前の3月27日にも、陸軍航空部隊の特攻機11機が中飛行場から出撃しているのである。しかし、三個師団の中の一個師団(第9師団)を台湾に転用されたことから沿岸決戦が不可能になったと判断した第32軍は、地形上からも守備が困難な飛行場を捨て、戦線を緊縮することで兵力配備の密度を高め、堅固な地形を活用した陣地防御による持久作戦を採用した。 

 あまりにもたやすく北・中飛行場を米軍に占領させたことに驚いた大本営や第10方面軍(台湾)などの上級司令部は、米軍が上陸した二日後の昭和20年4月3日、第32軍に対して攻勢によりこれらの飛行場を奪回するように要望する電報を送りつけてきた。同日夜半、牛島軍司令官は高級参謀・八原大佐の反対を押し切って「北・中飛行場方面に出撃する」と決心した。これを受けて、参謀長・長勇少将は参謀全員を自室に集め、攻勢転移について自分の作戦案を述べて各参謀に専門的見地からの意見を求めた。航空、情報、通信、後方(兵站)などの主任参謀がそれぞれの意見を表明したが、特に航空参謀である神直道少佐は、航空作戦の専門家としての立場から以下のように述べ参謀長の「攻勢転移」案を支持した。 

1、およそ軍の作戦指導は、上級司令部の作戦構想に順応すべきであり、兵力の多寡は論ずべきでない。 

2、某方面軍が平地決戦を避け、山中に篭り航空作戦と分離して持久作戦に変わったその時から、国軍作戦に寄与しなかった。沖縄においても同様である。 

 神少佐が2項目で言うところの「某方面軍」とは、フィリピン島作戦を担任した第14方面軍(司令官・山下奉文大将)のことである。フィリピンでは、当初、ルソン島に米軍を迎えて決戦することになっており、山下方面軍司令官以下、全ての将兵がその覚悟で作戦を準備していた。しかし、レイテ島に米軍が来襲するや、南方軍司令官・寺内寿一元帥が「決戦はルソンではなくレイテだ」と方針を急転換したことから、山下大将は、第14方面軍の兵力をルソン島とレイテ島の二ヶ所に分散配置することを余儀なくされた。 

 第14方面軍が急きょ進出したレイテ島では日米両軍の遭遇戦となり、島中央部の山岳地にあるリモン峠の争奪をめぐる激戦となった。米軍の圧倒的な戦力の前に大打撃を受けて方面軍の戦況が不利になり、航空機も八割以上を失い、さらに海上では小沢艦隊が壊滅的な打撃を受けると、南方軍は再びルソン島で決戦するように命じた。 

 ルソン島では海没などにより装備が不十分な5万人の兵力が残っていたが、方面軍司令官・山下大将は、南方軍からの命令に反してルソン島決戦を放棄し、戦略持久のための守勢作戦に徹することを決心し、方面軍の全部隊を首都マニラ周辺から北部山岳地帯に引き上げた。山下大将は、北部山岳地帯であくまで抗戦を継続し、米軍をできるだけ長くルソン島に引きつけて日本本土への侵攻を遅らせ、その間に本土決戦を準備させようとしたのである。そして、事実、8月の終戦まで、マッカーサーの軍団をフィリピンに釘付けにしたのであった。したがって、「持久作戦に変わったその時から、国軍作戦に寄与しなかった」とする神少佐の発言は、実情をよく踏まえたものであるとは言えない。 

 いずれにせよ、第32軍司令部がこのようにして攻勢転移を準備しつつあった4月7日15時頃、浦添沖(第62師団左側沖合)に約110隻の大船団が現れて停船した。この情勢を見て八原大佐は「攻勢に転移する前に、我が側面に米軍が上陸するおそれがある・・・」と参謀長を説得し、攻勢作戦を中止させることに成功した。このときの思いについて八原大佐は、戦後になって次のように述懐している。 

 ・・・米輸送船団の情報が確実かどうか、またそれが兵員、軍需品いずれを積載しているか、はたまた我が側背に上陸するかどうか、単なる一片の電報では判断できない。しかし、状況の変化いかんにかかわらず、こんなばかな攻勢は止めるべきだというのが私の心にある。将軍(参謀長を指す)の決心変更に、とびついて賛意を表したのは当然である。・・・ 

 これとは逆に、航空参謀・神少佐はこの時の印象を次のように述べている。 

 ・・・敵に痛撃を与え得べき好機を、なぜ自ら放棄しなければならないのか。第32軍は陸海軍航空部隊や海上部隊の犠牲において、健在を図ろうとするのか。瞬時瞬転の敵情の変化に、なぜ軍の施策が右往左往しなければならないのか。浦添に敵が上陸したらなぜ悪いのか。軍砲兵主力の最も射ち頃の地帯ではないか。むしろ、たくまずして捉え得る戦機ではないのか。・・・ 

 このように、第32軍司令部内では一貫した作戦思想が無く、参謀によりその考えがバラバラであり、組織として一丸となって軍司令官を補佐するような雰囲気ではなかった。これは、参謀長・長少将が信念やリーダーシップに欠けていたこと、そして高級参謀・八原大佐が自己の戦術能力に過剰なほどの自信を持つ一方で、参謀として不可欠な「誠実」「謙虚」「協調性」といった資質に乏しかったことによるものであった。 

▽ 第32軍航空参謀・神少佐の隠密脱出と沖縄作戦に関する報告 

 昭和20年5月10日、神少佐は牛島軍司令官から沖縄作戦の実相を大本営に伝えるため密かに沖縄を脱出するように命じられた。ただし、第32軍司令部内では他の参謀に対してあくまで「航空部隊による支援をさらに求めるため」という名目で通していた。同年5月22日に地元漁民のクリ舟を利用して夜間に出発し、17日間をかけて6月9日にようやく徳之島に到着した。そして6月10日夜、飛行機で徳之島を発して鹿児島・串良飛行場に到着、そのまま自動車で鹿屋基地に向かった。 

 鹿屋基地で海軍の第5航空艦隊司令長官・宇垣中将に面談して沖縄戦の実情を告げた後、ただちに海軍の航空機により鹿屋から東京へと発った。こうして司令官・牛島中将の命を受けて沖縄を脱出し、奇跡的に本土に帰還した第32軍航空参謀・神直道少佐は、同年6月15日、大本営陸軍部に出頭して牛島軍司令官に命ぜられたとおりに報告した。これにより、大本営陸軍部は「真新しき深刻なる沖縄戦の報告」を聴くことができ、速やかに取り入れねばならない多くの戦訓に接した。報告内容は主として以下の四点であった。 

○ 作戦戦闘の指導計画とこれに基づく戦闘訓練の重要性 

○ 軍参謀長と参謀との間に作戦思想(攻勢による決戦か、守勢による持久戦か)の不一致があり、軍参謀長の消極的な性格が暴露された。参謀(主に八原大佐を指す)について重要なことは、「一切ハ智ニアラズ人格ナリ」ということである。 

○ こうした司令部内の不統一が隷下軍隊に重大な悪影響を及ぼした。 

○ 国内戦においては、義勇隊や住民処理(戦場に所在する住民をどうするか)について徹底した検討が必要である。 

 この報告について大本営陸軍部の参謀次長・河辺虎四郎中将は次のように手記している。(原文はカタカナ) 

 ・・・真相を伝えて大いに聴くべきものあり。同参謀脱出の辛労に敬意を表す。沖縄の戦闘指導に関しては戦史的に感服し得ざる点若干あり。苦戦に処して幕僚(参謀と同義語)心身の状況が戦闘指揮に及ぼす影響極めて大なること、特に作戦主任選定の重要なること、幕僚長の実質的統制把握力の重要なること、幕僚信任と放任との『けじめ』の大切なること等々幾多感ぜしめられることあり。・・・ 

▽ 森脇大尉が伝えた地上戦闘の教訓 

 神少佐とは別に、もう一人「真新しき深刻なる沖縄戦の報告」を行ったのが、陸軍歩兵学校教官・森脇弘二大尉であった。森脇大尉は沖縄作戦が開始される以前に教育支援のため沖縄に派遣されていたが、米軍上陸のため本土に戻れず、4月9日に第32軍司令部付となって沖縄での戦闘に従事していた。その後、沖縄を脱出し、徳之島・大島を経て上京した森脇大尉は、7月15日に大本営に出頭し、沖縄における地上戦闘の貴重な教訓を伝えた。 

 この教訓は、短い文章の箇条書きであったが、生々しい戦闘の状況を具体的に表現しており、神少佐の報告同様、その後の対上陸作戦思想に大きな影響を与えた。以下、その主要なものを紹介する。 

1.敵の迫撃砲への対策に最も苦しんだが、その一方で敵による迫撃砲の集中射撃が終った直後に、すかさず敵兵を射撃し、これを殲滅できた。 

2.敵の艦砲射撃は観測機による空中からの観測であり、その命中精度は中程度、我の損害は皆無であった。 

3.馬乗戦法(注:我を地下壕に閉じ込めたまま、敵が地上を占領すること)に陥らないように敢闘を要する。なぜならば、敵はガスを大量に使用することはなかったものの、馬乗となった時には「クシャミガス」や「青酸ガス」を使用した。このため、地下壕には入口三個を必要とした。 

4.敵機による爆撃は、太陽を背にして「ロケット」弾、次いで爆撃2〜3発、次いで銃撃を行う。急降下爆撃の精度は良好であるが、ただし不発弾も多い(3分の1は不発)。これらに対する対空戦闘は、軽機関銃により刺違い射撃を行った。 

5.対戦車戦闘について、第62師団は首里以北の既設陣地では成功した。これは攻撃してくる敵部隊の全部を同時に射撃し、然る後に各個に止めを刺すという戦法であった。又、  軍砲兵の十榴(10センチ榴弾砲)以上の火砲は、敵を終始圧倒していた。例えば、90式野砲4門で、敵の戦車40〜50両を一週間にわたり破壊した。 

6.火焔放射器について、火焔そのものは恐れるに足らずである。敵戦車は普通装備の上に火焔放射器を装着し、有効範囲は135m〜150m、これに対して携帯式の火焔放射器の有効範囲は約30mである。 

7.敵は黄燐弾を使用した。この際、黄燐は半径5mに最多量が飛散した。これに対しては、着弾後速やかに水で拭くことで損害を軽減できた。 

8.挺進行動について、敵から射撃は受けるものの、その弾道を判断して前進すれば必ず成功した。これに対して敵は(我が軍のような勇猛果敢な)突撃はしなかった。 

9.作戦準備は3ケ月であった。自己の陣地において戦闘したのは一つの兵団のみ。 

10.軍司令部の幕僚の考えと現状の喰い違いが多々あったにもかかわらず、司令部の指揮官・幕僚による第一線への視察が少なかった。(十分に第一線の現状を把握しようとしていなかった。)又、湊川正面での米軍の動きに牽制されてしまった。 

 こうした神少佐や森脇大尉が伝えた沖縄作戦の戦訓の中でも、一貫した作戦思想を欠く指揮官や幕僚の活動が隷下部隊に及ぼす重大な悪影響、住民処理の重要性、米軍の新戦法(青酸ガスを用いた馬乗り攻撃)への対処、そして艦砲射撃による軍の損害皆無の事実は、来るべき本土決戦に向けての作戦準備に関して多大な意識改革をもたらす結果となった。特に、「透徹した決戦攻勢思想」の徹底が急がれた。 

 次回は、こうした沖縄作戦の戦訓がもたらした意識改革について解説する。 

(以下次号)

2012/7/13