【第16回】沖縄作戦の戦訓がもたらした意識改革
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・我々は明日から戦おうと思っているのに、なんてことを言うのか。とにかく死んではいけない。どうして死ぬなんていうのか。(中略)我々も必死で、この後ろの山で戦う。山の後ろの方、島の東の山の中に隠れて避難してくれ。山の向うには密林があって、密林の中に壕も掘ったじゃないか、食糧も蓄えたじゃないか。それをやったのはみんな、そこで生き延びてくれと言うことだ。死んでどうなるんだ、絶対に生きなければならない。死んではいけない。(米軍上陸に際し、集団自決のための武器・弾薬、爆薬をもらいにきた座間味村役場の助役ら島民たちに対して)・・・ 

  ・・・弾丸はやれない、帰れ!!・・・(同 上) 

  梅澤 裕(元陸軍少佐、海上挺進隊・第1戦隊長) 

・・・我々は今のところは、最後まで闘って死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。ただ、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ。(渡嘉敷島の駐在巡査からの相談を受けて)・・・ 

・・・何であんた方、早まったことをしたなあ。・・誰が命令したねえ。・・何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい。(米軍上陸に際し、手榴弾が不発で死ねなかった渡嘉敷島住民の女性四人に対して)・・・ 

・・・何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい。(米軍上陸に際し、斬り込み隊を申し出た渡嘉敷島・女子青年団長に対して)・・・ 

  赤松嘉次(元陸軍大尉、海上挺進隊・第3戦隊長) 

 日本兵法研究会の家村です。今回は日本陸軍をして徹底した水際撃滅へと急旋回せざるを得なくせしめた最大の要因である沖縄作戦の戦訓が日本陸軍にもたらした意識改革について詳述いたします。 

▽ 「真新しき深刻なる沖縄戦の報告」がもたらした「戦訓」 

 昭和20年6月15日及び同年7月15日に沖縄の戦場から帰還した神少佐と森脇大尉から「真新しき深刻なる沖縄戦の報告」を受けた大本営陸軍部にとって、「一貫した作戦思想を欠く指揮官や幕僚の活動が隷下部隊に及ぼす重大な悪影響」、「住民処理の重要性」、「米軍の新戦法(青酸ガスを用いた馬乗り攻撃)への対処」、そして「艦砲射撃による軍の損害皆無の事実」などは、速やかに取り入れねばならない貴重な戦訓であった。 

 この二回にわたる報告の最中の6月23日午前4時、牛島軍司令官と長参謀長が沖縄本島最南端の喜屋武にある最終阻止陣地で自決し、第32軍の組織的な戦闘が終った。沖縄作戦において、日本軍は約6万5千人が戦死し、一般住民は約10万人が死亡した。又、米軍側も参加兵力約17万6千人の内、約1万2千人が死亡し、航空機763機が撃墜された。さらに米軍艦船も撃沈36隻・撃破386隻という大損害を受けたが、そのほとんどは神風特攻隊や海上・海中からの特攻によるものであった。 

 大本営陸軍部は、これまでの本土決戦準備の経緯を踏まえつつ、新たに生じた問題をいかに克服すべきかに頭を痛めたが、何よりも「透徹した決戦攻勢思想」を全軍に普及徹底することが急がれた。このように、沖縄作戦の戦訓は、来るべき本土決戦の作戦準備に関して日本陸軍に多大な意識改革をもたらす結果となったのである。 

▽ 沖縄作戦の戦訓 ― 「透徹した決戦攻勢思想」の徹底 

 ガダルカナル作戦以降の大本営陸軍部の作戦指導は、海軍の行動基準に引きずられ、大きな作戦方針を欠いたまま現地部隊に全てを一任し、現地部隊の実情を把握せず、しかも実行段階に至ってから第一線部隊の戦闘指導的な些細な事項にまで関与するのが常であった。このような日本陸軍の作戦指導上の体質は、第32軍から一コ師団を抽出した後の後詰めに関する有言不実行から生じた大本営への不信感とあいまって、沖縄作戦における作戦指導上の大混乱を招く一因となった。 

 第32軍作戦主任参謀・八原大佐は、航空作戦と一体化した地上での攻勢作戦をうながす大本営その他の上級司令部に最後まで抵抗し、航空作戦と地上作戦を完全に切り離して徹底した持久作戦を主張した。このため、作戦主任参謀と大本営との狭間にあって、第32軍司令部では「攻勢による決戦」と「守勢による持久戦」の二つの作戦思想が混迷したまま沖縄作戦を指揮した。しかし、作戦開始当初予定していなかった二度の攻勢により、多大な損害を受けて、結果的には首里戦線の陥落を早めるだけに終わった。 

 こうした作戦思想の不一致による現地部隊の戦闘指導の混乱を回避するために、大本営は現地司令部に対し、幕僚を「信任」することと「放任」することとの「けじめ」の重要性を強調するとともに、強い決意の下に「決戦攻勢思想」を第一線部隊まで普及徹底しなければならなかった。具体的には、総軍以下の各部隊に攻勢作戦の戦闘指導計画を立案させ、それに基づく戦闘訓練の実施を強要した。 

▽ 沖縄作戦の戦訓 ― 米軍の対「洞窟陣地」戦法への対応 

 歩兵学校から教育のため沖縄へ派遣されていた森脇弘二大尉は、7月15日大本営に出頭して、貴重な地上戦闘の教訓を伝えたが、その中で米軍の新戦法に関して「馬乗り戦法に陥らない様に敢闘を要する。なぜならば、敵はガスを大量に使用することはなかったものの、馬乗りとなった時にはクシャミガスや青酸ガスを使用した。このため、地下壕には入口三個を必要とした」と述べた。このことが、当時の大本営陸軍部に与えた衝撃は大きなものであった。 

 米軍が沖縄戦で新たに採用した「馬乗り戦法」とは、地下壕(洞窟式陣地)にこもって防戦する日本軍の部隊を、その洞窟内に閉じ込めたまま地上を占領してしまうことである。米軍は、こうして馬乗りになると地上から建設機械であるボーリングにより縦穴を掘削し、地下壕に通じるとその穴から青酸ガスなどの毒ガスを投げ込み、洞窟内に取り残された日本軍を一挙に窒息死させたのであった。 

 洞窟式陣地は、ペリリュー島や硫黄島のような小さな島嶼において敵が上陸に先立って実施した圧倒的な艦砲射撃や航空爆撃に生き残るために生み出されたものであった。そして、これは又、硫黄島作戦のような異常なまでの配兵密度(1ヘクタール当り10.5人)と、米軍艦砲の圧倒的な総弾量(9千発:1ヘクタール当り450発)とに起因するものであった。つまり、総面積20平方キロ(2千ヘクタール)程度の硫黄島においては、地上に野戦陣地を築いただけでは、敵が上陸する前に艦砲射撃や空爆で陣地や兵士が百パーセントに近い確率で直撃弾を受け、全滅してしまう。このため、地下に潜って敵の上陸開始まで戦力の温存をはかる以外には方法がなかった。 

 しかしながら、地上戦が開始されてからの洞窟式陣地は、撤退時期の判断を誤った場合、完全に逃げ場を失い、密閉された空間の中に部隊ごと閉じ込められてしまうのである。事実、沖縄戦では大隊単位で地下壕に閉じ込められて玉砕したケースも多々あった。 

 一方、ガス兵器は第一次世界大戦において、長期にわたる塹壕戦を打開して攻勢に転じようと企図した独軍、連合軍の双方により開発され、実戦に大量使用されたのであった。つまり、「塹壕内に潜んで持久を策する敵」を最も効果的に殺傷しうる兵器として開発された毒ガスは、「洞窟式陣地に残存ずる敵の掃討」という場面においてその本来の能力を最大限に発揮したのであった。 

 森脇大尉の報告があった昭和20年7月中旬、九州や関東の沿岸部では、本土決戦に備えて各地に硫黄島を模した洞窟式陣地を構築中であった。しかしながら、米軍が馬乗り戦法を開発したことにより、敵が上陸する前の砲爆撃には極めて有効であった洞窟式陣地も、敵に上陸を許した後は、かえって部隊の地上での移動を拘束し、戦闘行動を消極的にさせ、さらに毒ガス攻撃により戦わずして大量の損害を受けるおそれさえ生じさせていたのである。 

▽ 沖縄作戦の戦訓 ― 作戦・戦闘間における住民処理問題 

 国内戦において非戦闘員の犠牲を避け、軍が作戦行動の自由を確保するため、住民対策を適切にすることは絶対条件である。しかし、沖縄作戦においては軍・官・民共に初めての国内戦の経験であったがゆえに、作戦準備段階では誰がこれらを企画し、県民を指導し、島民の理解を得るか等についてまとまらず、不手際が頻発した。特に沖縄県知事・泉守紀氏が住民対策の責任を負うことに消極的であり、住民の疎開や食料の搬入・備蓄についても軍に非協力的であったことが、その後の努力にもかかわらず、大なる犠牲を生じる一因となった。 

 昭和20年1月上旬、米軍による空襲が始まると、泉知事は米軍の来寇を恐れ、命惜しさに沖縄を脱出した。そして同年1月31日、その後任の知事として内務省官僚・大阪府職員の島田叡(あきら)氏・四十三歳が着任した。この人選は、かねてより島田氏と親交があり、深く信頼していた牛島第32軍司令官の指名によるものであったが、島田氏は即日この沖縄県知事就任の内命を引き受けた。 

 着任した島田知事は、苦しい中でも元気に、明朗に知事としての職責を果たし、県庁職員たちを励まし、軍との協力に努め、遅れていた県民の疎開を推進して約16万人を県外に脱出させた。また、食料・医薬品等を確保し、台湾から約三千六百トンの米を運びこんだ。さらに勝利を信じて軍に協力する住民たちのために酒の増配を実施し、娯楽として村の芝居も復活させた。3月に入ると空襲の被害を避けるために県庁を首里に移転し、地下壕内で業務を継続した。 

 米軍が上陸侵攻した昭和20年4月以降、激戦の最中に多くの命が失われ、首里戦線が崩壊した後は軍・民ともに沖縄本島南部に追い詰められていくようになる。こうした中で壕を移しつつ県庁としての行政を継続したが、6月9日には県庁の解散を命じ、女子職員には米軍への投降を促した。島田知事は最期まで軍と行動を共にしようと考え、6月26日、摩文仁(糸満市)の壕を出て、敵中を軍の司令部壕に向かったが、その際に足を負傷して倒れ、摩文仁の海近くの壕内で拳銃により自決した。 

 沖縄作戦において住民の死傷者が多発した原因の一つは、沖縄本島北部に疎開させられた住民の多くが、生業への心配から米軍が上陸する前に自分の住居に帰ってきてしまったことである。しかしながら、住民処理上の最大の問題点は第32軍があくまで作戦・戦闘が第一で、住民保護は二義的なものと考えていたことにあった。そのため、作戦間の県民の諸行動については島田県知事以下の県庁の戦場行政に一任し、軍自ら戦況がどのように推移するかを予測し、これに基づき戦場外になると予想される知念半島への住民避難を強力に指導することがなかった。実際にはそうした住民対策も検討されたが、米軍の猛進撃に圧迫されてそれを実行に移す余裕すら当時の第32軍司令部には無かったのだ。 

 サイパン島での米軍の残虐な行為を耳にしていた住民も又、米軍に投降することを極度に恐れて軍の動きに追随した。その結果、作戦の終末段階において喜屋武半島の狭小な地区に約3万人の軍隊と多数の住民が混在する悲劇をもたらしたのであった。また、これらに先立って最初に米軍が上陸した慶良間列島の座間味島と渡嘉敷島では、島民が現地の丸レ艇部隊指揮官に集団自決のための武器・弾薬、爆薬の提供や斬り込み隊への参加を求めてきたが、それぞれの島の海上挺身隊戦隊長により拒否されている。 

 来る本土決戦においても、作戦予想地域には多くの住民が残留するであろうことを覚悟し、軍として官民に提示・要請する必要事項をあらかじめ計画準備しておく必要性があった。さらに、作戦間における軍人と住民との基本的な関係についても住民保護の観点からの再検討が求められるとともに、将兵一般の高い「道徳心」の重要性が再認識された。 

 次回は、沖縄作戦における戦訓「艦砲射撃による軍の損害皆無」ということについて、第二次大戦における史実に基づいてその実際の効果を検証する。 

(以下次号)

2012/7/20