【第17回】上陸前における艦砲射撃の実効果
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・誰かが、どうしても行かなならんとなれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。俺は行くのは嫌やから、誰か行けとは言えん。(中略)これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。俺が断れるからというので断ったら、俺は卑怯者として外も歩けんようになる。・・・(昭和20年1月11日、沖縄県知事への就任を引き受けて帰宅後、妻に) 

・・・兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい。・・・(昭和20年6月下旬、負傷して自決する直前に独立機関銃隊分隊・山本兵長に) 

    島田 叡(沖縄県最後の官選知事、兵庫県神戸市須磨区出身) 

・・・恐れを知って、しかもそれを恐れざる者が、真の勇者である。・・・ 

    アーサー・ウェルズリー将軍(アイルランド系イングランド人、英国首相) 

 日本兵法研究会の家村です。今回は日本陸軍をして徹底した水際撃滅へと急旋回せざるを得なくせしめた沖縄作戦における戦訓の一つである「艦砲射撃による軍の損害皆無」ということについて、第二次大戦における史実に基づいて検証いたします。 

▽ 艦砲射撃は陸上戦闘に影響なし 

 歩兵学校から沖縄へ派遣されていた森脇弘二大尉が大本営に伝えた沖縄地上戦闘の教訓の中に、「敵の艦砲射撃は観測機による空中からの観測であり、その命中精度は中程度、我の損害は皆無であった」というものがある。サイパン島やグアム島での水際陣地や硫黄島で海軍が構築した水際トーチカをことごとく破壊して、その強大な威力を見せつけたはずの米軍による艦砲射撃が、沖縄作戦において日本軍に何ら損害を与えられなかった、などということが本当にありえるのだろうか?・・・誰もがこのような疑問を抱いたことであろう。しからば、森脇大尉は命からがら沖縄より生還しながら、大本営に虚偽の報告を行ったというのであろうか。 

 沖縄作戦に関して言えば、おそらくこの報告は正しいであろう。なぜならば、サイパン・グアムの水際陣地や硫黄島の海軍トーチカは、洋上を射撃できるように水際部にせり出して構築されていたために洋上の米軍艦艇から簡単に発見され、艦砲による『直接照準射撃』を受けて徹底的に破壊されたのであるが、これに対して水際配備を一切とらなかった沖縄作戦では、艦砲射撃が全て『間接照準射撃』として行われたからである。 

 『間接照準射撃』とは、砲の位置から直接目視できない目標(ターゲット)に対して、目標近くの「観測者」が弾着点(砲弾が落ちて爆発する地点)を観測し、修正量を示して弾着を目標に誘導する射撃要領である。目標を発見した観測者は、まず目標(ターゲット)の位置を地図上の座標、あるいは距離と方位角などで砲側に伝える。これに基づき砲側が射撃をするが、最初の一発目で弾着点が目標(ターゲット)に命中したり、十分な破片効果が得られる距離内であることはほとんどないため、観測者はその弾着点を観測して目標(ターゲット)の位置とのズレを判定する。そして方向(右へ、左へ)、遠近(増せ、引け)、破裂高(上げよ、下げよ)といった項目別の修正量を砲側に伝えるのである。 

 この『間接照準射撃』は通常、地上戦闘(陸戦)で砲兵などが行うものである。遠方まで見通しがきく洋上で艦艇どうしが射ち合う海戦においては、砲撃は敵艦の喫水線付近を狙った『直接照準射撃』であり、これまで艦砲が『間接照準射撃』を行うということは無かった。それゆえに、海軍側からすれば、この『間接照準射撃』とは、全く不慣れな射撃要領であった。 

 しかも、海戦において艦砲が対象とする目標(ターゲット)は巨大な敵の艦船であり、それに比べれば「敵の機関銃陣地」などという点に等しい目標(ターゲット)に可能な限り直撃弾による制圧効果を追求する陸戦での砲撃とは本質的に「命中精度」というものの感覚そのものが大きく異なっていた。さらに、陸戦における目標(ターゲット)は、草木による偽装や迷彩塗装がなされており、洋上の艦船に比べれば発見や識別そのものが極めて難しい。 

 これらに加えて、陸上部隊が上陸を開始する以前に艦砲が行う『間接照準射撃』は、観測者を地上に置けないことから、航空機による空中での観測しか手段がなかったのである。そもそも、航空機から地上で偽装、分散、展開する兵員や陣地施設を発見すること自体が至難の技である上に、観測者自らが空中を移動して常に位置を変えながら、短時間に射弾を観測し、弾着を誘導するということは、ほとんど不可能なことであった。ちなみに、現代戦における空中観測は、ヘリコプターにより空中で停止しながら行われている。 

 このような理由から、大東亜戦争当時、陸上部隊の上陸前に行った艦砲による『間接照準射撃』の命中精度は、きわめて低いものであったことが解かる。そして、このことは戦史上の事実からも明らかである。以下に具体的な事例を紹介する。 

▽ 戦史上の事実が物語る「上陸前における艦砲射撃」の効果 

 史上最大の戦いとして有名なノルマンディー上陸作戦において、連合軍の主力が上陸したオハマ海岸の正面では、上陸日(1944年6月6日)一日で総弾量2,000tに及ぶ艦砲射撃が行われた。これにより、ドイツ軍が海岸に設けたコンクリート製の砲台(艦艇から発見が容易なターゲット)は全て破壊されたが、艦艇から識別できなかった野戦陣地はほとんど破壊されなかった。 

 ここで言う「野戦陣地」とは、地面を掘り、木材や鉄柱などで側面を補強したり、砲弾の破片から防護するために木材と土で上部を覆い(これを掩蓋(えんがい)という)、偽装網や草木でカモフラージュするといったような工事を施された応急的な構築物であり、小銃や機関銃、ロケットランチャーなどの射撃用掩体(えんたい)、砲撃のための観測用掩体、交通壕、退避壕、司令部壕などがある。この「野戦陣地」に対して、小火器(機関銃やロケットランチャーなど)の射撃用にコンクリートで半永久的に構築された陣地を「トーチカ」という。 

 このようにノルマンディー作戦では、陣地などの構築物については、水際部の砲台など『直接照準射撃』が可能な「暴露した目標」以外には大なる損害が無かったが、その一方で、ドイツ軍部隊の交通移動は、艦砲により雨あられのごとく降り注がれる砲弾の爆風や破片によって妨害され、ほとんど不可能であった。 

 サイパン作戦では、上陸日である1944年6月15日までの三日間で総弾量11,500tの艦砲射撃が行われたが、時間不足、観測不十分などにより野戦陣地に対する破壊効果は小さく、人員の死傷も少なかった。それでも、市街地や暴露した砲台は著しい損害を受け、また、日本軍部隊の交通妨害や通信施設の破壊効果は大きかった。そして、何よりも軍や民間人に「米軍の艦砲射撃は恐ろしい・・・」という風評をもたらすなどの精神的影響がきわめて大きかったのである。 

 硫黄島作戦では、上陸日である1945年2月19日までの三日間で総弾量約7,000tの艦砲射撃が行われたが、全ての射撃目標(ターゲット)915個の中で、715個がその位置を正確に標定され、破壊、又は損傷を受けたものが22%であった。特に、洋上を射撃できるように海軍部隊によって構築された海岸砲台は損害が大きく、65門の中で50%が破壊され、あるいは損傷を受けた。これに対して陸軍部隊が構築したトーチカ(46個)、掩体化された火砲や対戦車砲(91個)、掩体(450個)は、それぞれ25%が破壊された。 

 沖縄作戦では、上陸(1945年4月1日)の前日までの一週間で、総弾量5,162t、 上陸日は、上陸前の3時間で総弾量4,172tもの艦砲射撃が行われたが、地中に掘られた洞窟式の築城には大なる損害がなかった。しかし、その一方で、暴露した目標や、交通施設の損害は大きかった。又、部隊の移動は夜間においても困難であった。 

 これらの事項を総合的に整理すると、艦砲射撃の特性として次の四つのことが明らかになる。その第一は、艦砲射撃の威力というものが、我の交通移動に致命的な影響を与えるということである。従って、敵の艦砲射撃を受けながら我が攻撃行動を執る場合には、かなりの損害を覚悟しなければならない。 

 第二に、我が通常の野戦陣地による防御行動を執る場合には、敵の艦砲射撃が我の持久度に及ぼす影響は比較的少ないということである。あえて地中深くに洞窟式の陣地を掘らなくとも、陣地位置の選定や偽装などにより敵に暴露さえしていなければ、かなりの率で残存できるということである。事実、ノルマンディー作戦(オハマ正面)では、1日に2,000tの艦砲射撃を受けたにもかかわらず、通常の野戦陣地が健在していたのである。 

 第三に、艦砲射撃による損害は、直接照準射撃が可能な水際部の砲台や沿岸部の市街地・工場等の「暴露した目標」に限定されているが、その強大な破壊威力による精神的影響、いわゆる「プレゼンス効果」が大きいということである。事実、昭和20年5月以降、本土沿岸の主要港湾や工業地帯に対して米軍艦船による艦砲射撃が行われるようになり、「暴露した非軍事目標」を大規模に破壊したが、こうしたことも「秘匿・工事された軍事目標」に対する実際の効果以上に「艦砲射撃恐怖症」を日本陸軍の内部にもたらしたのであった。 

▽ 硫黄島作戦における洞窟式陣地と艦砲射撃威力の特異性 

 硫黄島作戦における指揮官・栗林忠道中将が、敵の艦砲射撃や航空爆撃による損害を免れるために、島の全域にわたり洞窟式陣地を構築させたのは、この島の戦略的な重要性に基づく「作戦の特異性」とそれによる「硫黄島独特の艦砲射撃の威力」に起因する。ここで言う「洞窟式陣地」とは、指揮所、兵舎、射撃陣地、弾薬その他の補給品の貯蔵施設など戦闘に必要な全ての構築物が地下深くに構築され、それらが地中でトンネルにより連接されており、地上に出なくても戦闘が継続できるような完全な洞窟と化した陣地のことである。これは、野戦築城における掩蔽(えんぺい)部や掩体壕のような局部的な地下施設や半地下施設とは、全くその規模と性格を異にするものである。  硫黄島を失えば、本土に対する敵の本格的な空襲は必至であると見た大本営は、この面積わずか20平方キロの小島に2万名を超す強力な兵団を配置し、防御を強化しようとした。一方、米軍にとっても、硫黄島はB29による日本本土爆撃の経路を短縮して爆弾の搭載量を増加でき、不時着陸のための飛行場や護衛戦闘機の発進基地として使用できるといった面で、その戦略的価値はきわめて高く、何としても占領しなければならない要地であった。そのため、米軍は、この狭小な硫黄島の奪取に3コ海兵師団もの戦力を投入するとともに、上陸に先立ち全周から圧倒的な艦砲射撃や航空爆撃を集中した。そして、上陸当日には沖縄作戦を上回る弾量の艦砲射撃が、面積では沖縄本島の60分の1に過ぎないこの小島に指向されたのである。 

 硫黄島作戦における艦砲射撃の威力は、このわずか20平方キロ(2千ヘクタール)に過ぎない面積に対して2万1千名という過剰なほどの人員を配置したことと、投下された米軍の砲弾の総数9千発との相乗効果によりもたらされたものであった。すなわち、1ヘクタール(100m四方)あたりの配備兵員数は10.5人、被弾数は450発であり、平均すれば硫黄島守備隊の人員1名の頭上に、何と43発もの砲弾が降り注がれことになる。これほど濃密度の砲撃を受ければ、地上に構築した野戦陣地などは跡形も無く破壊され、人員は確実に戦死してしまう。つまり、硫黄島に関して言えば、地表に野戦陣地を構築した程度の防御準備では米軍が上陸する前に地上部隊は全滅してしまうのである。 

 それは、これまでの作戦・戦闘の常識からは考えられない、明らかに「特異なケース」であった。この特異性から、硫黄島作戦においては「圧倒的な支援艦砲射撃から守備隊を健存する」という目的で島内全域にわたり洞窟式陣地が構築され、その結果、事前砲爆撃による損害をきわめて軽微なものに抑えることができたのである。 

 次回は、こうした「特異なケース」の作戦・戦闘が、本土決戦という通常の作戦・戦闘の準備にもたらした悪影響について解説する。 

(以下次号)

2012/7/27