【第18回】自己健存思想と先人の偉業
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・各兵団長共に士気昂(たかぶ)り、泣言を言う者なし。ただし、作戦の思想、敵を恐れる気分が一部にある。損害を避け兵力を温存する観念が一般的に強い。水際撃滅、決戦思想をさらに強調する必要がある。(昭和20年6月下旬、第2総軍司令官・畑元帥の九州視察に同行して)・・・ 

    河辺虎四郎(中将、大本営陸軍部・参謀次長) 

・・・敵を過小評価してはならないが、敵ができもしないことまで憂えて作戦を混乱させるな。敵情に振り回されるのは最悪だ。・・・ 

    フリードリヒ大王(1740〜86 プロイセンの啓蒙専制的君主) 

 日本兵法研究会の家村です。今回は硫黄島作戦という「特異なケース」の作戦・戦闘が、本土決戦という「通常」の作戦・戦闘の準備にもたらした悪影響について解説いたします。 

▽ 洞窟式陣地が本土決戦においても必要であったか? 

 フィリピン作戦が開始された昭和19年10月頃から「後退配備による沿岸撃滅」という考え方に基づいて本土での築城作業に当たってきた沿岸配備兵団は、ペリリュー島や硫黄島での作戦で得られた教訓に基づき、九州や関東の沿岸丘陵部に硫黄島方式の洞窟陣地を多数構築していた。この時点での日本陸軍には、明らかに「島嶼における作戦」と「本土における作戦」との戦闘様相の違いを意識しないまま、両者を混同していた。 

 すなわち、硫黄島の特異性ゆえの艦砲や爆撃の圧倒的な効果を、地積がはるかに大きな本土においてもそのまま適用してしまい、野戦陣地を構築すれば十分に有効であったにもかかわらず、多大な時間と労力を費やして堅固な地下洞窟式の陣地をあちこちに構築していたのである。 

 この「野戦陣地の構築だけで十分に有効であった」ということは、本土決戦準備における沿岸配備兵団の「兵力」と「担任地域の面積」に対して、米軍が硫黄島と同じ「総弾量」の艦砲射撃を行ったと仮定し、硫黄島守備隊と本土沿岸配備兵団の被弾状況を比較すれば容易に理解できる。 

 硫黄島では、20平方キロ(2,000ヘクタール)の面積に、21,000名の人員を配置した。これに対し、九十九里浜正面の沿岸配備兵団で最も重要な正面を担任していた第3近衛師団は280平方キロ(28,000ヘクタール:硫黄島の14倍)、平地部だけでも192平方キロ(19,200ヘクタール:硫黄島の9.6倍)の面積に、14,415名の人員を配置することになっていた。 

 米軍の艦砲射撃により9,000発の砲弾が打ち込まれるとすると、1ヘクタールあたりの配備兵力と被弾量は、硫黄島が10.5人と450発であったのに対し、第3近衛師団は平地部のみに展開した場合でも0.75人と32発に過ぎない。つまり、本土決戦が行われた場合の第三近衛師団の作戦地域における1ヘクタール(100m四方)あたりの配備兵力と被弾量は、ともに硫黄島のわずか「14分の1」に過ぎなかったのである。 

 ここで、大変興味深いデータがある。昭和19年10月、陸海軍は共同で瀬戸内海において艦砲射撃の効力に関する実験射撃を行っている。その結果、1ヘクタールあたり40ミリ砲弾15発、20ミリ砲弾15発、12.7ミリ砲弾8発、合計38発程度の艦砲射撃であれば、教範に準拠した通常の野戦築城による陣地施設には「大なる破壊を生ぜず、守兵に対し大なる効力を及ぼさない」ということが実証された。このことから、本土決戦において敵が上陸前に実施するであろう艦砲射撃に対しては、従来の野戦陣地を構築することにより我の部隊を十分に防護できることが明らかになった。 

 それにもかかわらず、本土決戦準備が「後退配備による沿岸撃滅」という作戦思想で進められていた段階では、九州や関東の沿岸丘陵部(九十九里浜正面であれば、東金や茂原など)に硫黄島とよく似た洞窟式の陣地を一生懸命に構築していた。これらは、サイパン島やペリリュー島、硫黄島などの島嶼作戦の戦訓がもたらした「艦砲射撃恐怖症」によって、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いた」対応であった。 

 しかも、あまりにも過剰に防護を重視した洞窟式の築城は、敵が上陸した後の地上戦闘において我が戦力の自由な機動や火力の発揮を阻害する畏れがある上、敵の毒ガスを用いた馬乗り攻撃に対しては、むしろ極めて危険でさえあることが、沖縄戦において証明されたのであった。 

▽ 「自己健存思想」の蔓延 

 昭和19年10月頃以降の本土決戦準備において、沿岸配備兵団が「後退配備による沿岸撃滅」という作戦思想に基づき、多大な時間と労力を費やして硫黄島方式の堅固な地下洞窟式陣地を構築していたことは、単に戦闘陣地の構築を遅延させた以上に、第一線将兵の精神面においても重大な悪影響を及ぼし始めていた。 

 本土の沿岸配備兵団では、これまでの作戦準備の経緯から、指揮官以下部隊を挙げて「先ず、いかにして敵の艦砲や空爆による損害を避け、兵力を温存するか」ということを先決事項として考える風潮があった。事実、昭和20年7月頃においてすら、洞窟構築にのみ専念し、組織的な火力を発揮するための戦闘陣地や、指揮・通信その他の地上施設はきわめて薄弱、あるいは未着手なまま放置されており、このことは、大本営参謀次長が九州の現地視察を行なった際にも指摘された。 

 つまり、各部隊の将兵たちは、敵の上陸前砲爆撃を恐れるあまり、「戦うための陣地」の準備を忘れ、ただ「生き残るための洞窟」を必死になって堀り続けていたのである。しかも、現実の艦砲射撃の効果からは、『十分に偽装し分散された教範どおりの野戦陣地』で十分に防護できたにもかかわらず、である。 

 沖縄作戦の新たな教訓からも、このまま米軍の上陸を迎えては、たとえ上陸前砲爆撃から生き延びたとしても、馬乗り攻撃により戦わずして多大な損害を受けることは疑いの余地がなかった。いかにして、第一線部隊に蔓延したこの消極受動的な『自己健存思想』を打破するか・・・、これこそが、来るべき本土決戦に備える大本営陸軍部にとって、最大の懸案事項となっていたのであった。 

▽ 国土防衛を戦い抜いた先人の偉業に「心の支え」を求める 

 昭和18年2月、ガダルカナル島から撤退して以降、東西南北からの連合軍の包囲圏は逐次狭まりつつあった。これに対処するため、陸軍は昭和19年2月から昭和20年3月末までの間に、満州から関東軍(昭和18年当時、16個師団、兵員60万)の現役師団を全て南方や沖縄・台湾、そして本土・朝鮮半島へと引き抜き、その穴埋めとして支那派遣軍からの転用師団や戦闘経験の無い新設師団を充てた。さらに昭和20年6月には兵員の質が低く、装備の充足も不十分な「根こそぎ動員」8個師団を補充した結果、かつて精鋭を誇った関東軍も完全な「張子の虎」と化していた。 

 これに対してソ連は、同年4月6日、翌年には期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないことを日本に通告し、その後、欧州戦線から戦車や部隊をシベリア鉄道で満ソ国境に転用し始めるとともに、米国からの兵器供与を受けてウラジオストクやナホトカの港から米国製の戦車などの兵器を陸揚げして軍事力の増強を図った。こうして日本が圧倒的に不利となっていた満ソ国境の軍事バランスがソ連の対日侵攻を誘発しつつあったが、唯一日ソ間の不可侵を定めた「中立条約」の存在によって表面上の平穏が保たれていた。 

 昭和20年初夏、本土はすでに戦争末期の様相を呈しつつあり、敵の制空・制海の下にその症状は日を追って悪化の一途をたどりつつあった。同年3月末に米軍がB29により関門海峡に機雷を敷設し、それと前後して潜水艦や航空機により民間の輸送船を次々と撃沈した結果、船舶の総量は開戦時の四分の一に激減し、海外からの輸入が停滞して深刻な食糧不足を招いていた。 

 一方、国内では打ち続く戦勢の不振、敵機による猛爆撃、国民生活の逼迫(ひっぱく)などにより、国民の戦意は沈滞しつつあった。大本営陸軍部・第一部長として作戦立案の主務者であった宮崎周一中将は、この当時の心境を戦後、次のように述懐している。 

 ・・・このような、ありとあらゆる悪条件の下で、絶体絶命の一戦に臨もうとするのである。どんな構想の作戦をもって戦わんとするか。選択の余地などありようはずはない。作戦は連続不断の攻勢。戦法は航空全機特攻、水上・水中すべて特攻、戦車に対して特攻、地上戦闘だけが特攻を避けられよういわれはない。頼むは「石にたつ矢」の念力のみ。恐るべきは自己の内心にきざす疑惑だ。将兵の内心にわだかまる精神の動揺だ。これが作戦担当の立場におかれた私のつきつめた心境だった。日夜己れの足らざるを省み、神に祈り、先人の偉業を偲(しの)んで心の支えを求めるのだった。・・・ 

 宮崎中将が偲んで心の支えとした「先人の偉業」とは何か。それは、ただ一つ、同じ国土防衛を立派に戦い抜いた「元寇」という偉業に他ならなかった。 

▽ 本土防衛の義戦『元寇』から得た教訓 

 元寇は我が国にとって唯一、本土が武力により侵略された史実であり、民族興廃の岐路に立たされた危機であった。文永の役では、福岡地域に大挙上陸を許し、この地を激戦の巷と化した。又、対馬、壱岐においては、上陸した元軍の残虐行為により、島民に多大な犠牲者をもたらした。しかし、文永の役によって本土防衛に関する幾多の教訓を得た鎌倉幕府は、断乎とした決意をもって国土防衛の基礎態勢を整備するとともに、石塁の構築、水軍の養成など、文永の役の戦訓を生かした本格的な防御準備を推し進め、かつ、元軍の来寇時期を的確に判断して、適切な戦力の集中と配置を行い、完全な待ち受け態勢を完成した。 

 日本側の全般態勢は、九州地区を最重点として、博多湾沿岸を中心に約4万の兵力を海岸に直接配備するとともに、中国地区を本土の第一線として、長門沿岸を中心に約2万5千の兵力をもって迎撃態勢を整えるものであった。更に京都地区に準備した約6万の総予備隊も増援のため西進を開始していた。これらの結果、弘安の役では博多湾岸への敵の上陸を断念させたのみならず、果敢な海上追撃を行い、14万の敵に大損害を与えてこれを撃退した。 

 こうした元寇という史実を通じて先人が与えてくれた『本土防衛の心構え』は、以下のとおりである。 

●「来らざるを恃(たの)まず、待つあるを恃む」の主義に徹すべし。 

 いかなる正面においても、「敵は必ずわが正面に来攻する」ことを確信し、各正面とも完全な待ち受け態勢を整えておくことが重要である。 

●今まさに上陸せんとする敵の喉(のど)元に喰いつくべし。さらに仮泊中の敵船団を夜間強襲すべし。 

 積極果敢に前に討って出る覚悟がなければ、敵上陸時の必然的弱点を捉えることは出来ない。一端地上に地歩を占め、完全に部隊として戦力化された敵を平地において迎撃することは、彼我の戦力、編成・装備、戦法(当時においては元軍の部隊密集戦法)から得策ではない。 

●真の自衛という道徳的正当性を強靭な後楯として、指揮官率先陣頭の下、「全軍笑を含んで戦う」べし。 

 文永の役において、「元軍、対馬の小茂田浜に大挙殺到」の急報をうけるや、守護代・宋助国は自ら八十余騎を率いて千余の敵を迎撃し、壮烈な玉砕を遂げた。この際、宋助国以下一族郎党は、群がる敵軍の中、これぞ男児の本懐とばかりに、笑を含んで斬り込んでいったと伝えられている。 

 このように先人たちが成し遂げた偉業から得られる貴重な教訓こそ、沈滞しがちな気力を充実させ、あらゆる困難を克服させる勇気の源泉であった。第一線部隊に蔓延した「自己健存思想」を打破する唯一の方策は、「大本営以下、総軍司令官、方面軍司令官その他各級指揮官はすべて、水際で戦死する」という覚悟を全軍に示すことであった。 

(以下次号)

2012/8/3