【第21回】作戦構想の変更と第一線部隊の戸惑い(その1)
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・最も熟慮を払った場所で、最も奔放に敢行する。これこそが、われわれの流儀である。・・・ 

    ベリクレス(前495〜429 古代ギリシヤ・アテネの政治家 ※) 

・・・戦争にさいして、我々の子弟の運命、祖国の安全と名誉を託しうるのは、創造的であるよりも、むしろ、反省的な人物、一面的にある方向に深入りするよりも、むしろ、全体を概括する能力をもった人物、熱烈なる頭脳の所有者よりも、むしろ、冷静なる頭脳の所有者である。・・・ 

    クラウゼウイッツ(プロシア陸軍大学校長・参謀長) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。今回と次回の二回に分けて、大本営陸軍部が「水際撃滅」を徹底する覚悟を固めて『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』を通達する以前とそれ以後で、作戦を実施する現場部隊の作戦構想がどのように変化したかを具体的に解説いたします。 

 ※ ペルシャ戦争後のアテネ海上帝国を強化してスパルタとの衝突に備える一方で民主政治を徹底し、文化を奨励してペリクレス時代と呼ばれるアテネの黄金時代を築く。15年間にわたり連年将軍職に選ばれるが、ペロボネソス戦争に参戦中、戦地で流行したペストに罹(かか)って死亡。 

▽「水際撃滅」以前 ― 第12方面軍の新戦闘序列と当時の敵情判断 

 これまで十回にわたり、大東亜戦争末期における大本営陸軍部の対上陸作戦思想が、「後退配備・沿岸撃滅」から「水際撃滅」へと変化していく過程について述べてきたが、この基本思想の変化に伴い、総軍の主力として重要な正面の作戦を計画・実施した方面軍レベルの作戦構想はどのように変化したのであろうか。 

 昭和20年6月20日に大本営陸軍部から『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』を通達された第1総軍は、約一ヶ月をかけて『第1総軍決戦綱領』を策定し、同年7月17日にこれを第11〜13の各方面軍に示達した。東部軍管区(関東及び甲信越)の防衛を担任した第12方面軍は、この『第1総軍決戦綱領』により、それまでの作戦構想を抜本的に変更することを余儀なくされた。 

 大本営陸軍部は、本土決戦(決号作戦)を準備する上で、関東地方(決三号)及び九州地方(決六号)の作戦を最重要視したことから、関東担当の第12方面軍と九州担当の第16方面軍の兵備を他方面軍に優先して整備した。このため、昭和20年4月8日、第12方面軍に新たな戦闘序列が下令され、それにより第36軍、第51軍、第52軍、第53軍、及び東京湾守備兵団を基幹とした合計20コ師団(2コ戦車師団を含む)、10コ独立旅団を有する本土で最強の兵備が与えられた。このうち第52軍が沿岸配備兵団として「九十九里浜方面の確保と減敵」に任じた。 

 沖縄作戦の進展にともなう第12方面軍の敵情判断は、「敵は、昭和20年秋以降、空海陸を圧倒する優勢な戦力を結集し、主力をもって九十九里浜及び相模湾沿岸の二正面から、または、鹿島灘、九十九里浜及び相模湾沿岸の三正面から並行して上陸し、帝都を攻略するとともに、日本軍主力を関東平地に撃滅して、戦局に最終の決を求めるであろう」というものであった。また、予想する侵攻兵力は、二正面並列上陸の場合、九十九里浜正面に約15コ師団、相模湾正面に約10〜十数コ師団と判断していた。 

▽「水際撃滅」以前 ― 昭和20年7月中旬までの第12方面軍の作戦構想 

 『本土決戦根本義ノ徹底ニ関スル件』を受けて、『第1総軍決戦綱領』が示達される昭和20年7月中旬までの第12方面軍の作戦構想は、当然のことながら「後退配備・沿岸撃滅」であった。 

 主決戦については、鹿島灘、九十九里浜、相模湾いずれの正面でも可能なように準備するが、どこで主決戦を行うかの決心は「敵の上陸直前まで結論が出ないもの」と考えていた。また、敵が九十九里浜、相模湾両正面に同兵力で上陸し、主侵攻の判定が困難な場合にはどうするかについては確定されていなかった。しかしながら、上陸地域の地形上の判断から、どちらかといえば、九十九里正面にまず主決戦を指向し、ついで相模湾正面での二次決戦へと導く考えが一般的であった。 

 決戦を行う地域については、九十九里正面では沿岸配備兵団が確保する両総(上総・下総)台地縁端の主抵抗陣地帯(水際部から内陸側に数キロ後退)を攻勢の支とうとして決戦を指導し、相模湾正面にあっては、地形の利をもってなるべく水際に近く指導するものとした。また、やむを得ない場合は、筑波山系から千葉を連ねる線以東、及び概ね多摩丘陵以南の地域において決戦を指導することとした。 

 攻勢作戦の指導については、攻勢のための兵力(決戦兵団)を東京湾の北側一帯(概ね筑波山系から千葉の線以西及び多摩丘陵以北の地域)に待機させるものとした。しかし、こうした兵力が敵の圧倒的な制空権下で機動し、攻勢作戦を行うことが可能かどうかについては疑問が残った。特に戦車や重砲の部隊に利根川、江戸川といった大河川を渡らせるには多大な労力と多くの危険を伴った。例えば、5コ師団程度が利根川を渡るだけでも、門橋(野戦で応急的に架ける橋)50〜60セット、折り畳み式の舟艇約1千隻が必要と見積もられていた。 

 また、昼間の機動では遠くから発見され、すぐに敵機による攻撃を受けるものと判断されたことから、機動は夜間にのみ行うこととした。しかし、図上研究の結果、これでは攻勢開始までに10日間もかかるものとされた。従って攻勢要領については、戦術上はあまり好ましくないが、戦場に到着した部隊ごと逐次に戦闘加入することも予期しなければならなかった。 

 攻勢兵力(決戦兵団)の主体は第36軍であった。第36軍は、戦車315両、75ミリ自走砲82門を装備する戦車師団が2コ、砲兵連隊を2コ保有する師団が6コ、計8コの決戦師団を基幹としていた。決戦兵団は、鹿島灘、九十九里浜、相模湾のいずれの正面にも機動打撃できるように拘置され、この決戦兵団を第12方面軍砲兵隊が火力により支援することになっていた。方面軍砲兵隊は、155ミリ榴弾砲を84門、105ミリ加濃砲を12門、105ミリ自走榴弾砲を72門装備していた。 

 これらに加え、敵が鹿島灘に上陸侵攻しなかった場合は、この正面(持久正面)から第51軍を転用して主決戦正面に充てるとともに、第1総軍により、東北や東海など他の軍管区からまず2コ師団、ついで3コ師団、西日本の第2総軍から5コ師団の増援兵力を得られる計画になっていた。その一方で大本宮は、敵が南九州に上陸侵攻した場合には第36軍を九州方面で使用することも考慮していた。 

 敵が沿岸部の後方地域や内陸部に空挺部隊を降下させた場合には、沿岸防御に任ずる第51〜53軍の独立戦車旅団を基幹とし、これに持久正面から抽出した兵力や決戦兵団の一部、さらには義勇兵役法(昭和20年6月22日制定)に基づく国民抗戦組織などを加えた戦力で反撃することを計画していた。 

▽「水際撃滅」以前 ― 九十九里浜正面を担当する第52軍の作戦構想(概要) 

 第12方面軍の中で「九十九里浜方面の確保と減敵」に任ずる第52軍は、東金、成東、茂原など両総台地の台端、銚子地区、一宮地区を主抵抗陣地帯として防御し、地形に周到な工事を施した洞窟式陣地とそこに配備した阻止火力により強靭な防御戦闘を行って、敵戦力を阻止又は拘束し、方面軍による大攻勢のための「支とう」を確保しつつ、長期の持久を行うという作戦構想であった。 

 この際、我の陣地に攻め寄せる米軍部隊との近接戦闘により彼我の紛戦状態を惹起(じゃっき)させつつ、潜伏攻撃、挺進奇襲、肉薄攻撃などの手段による対戦車戦闘、効果的な砲兵用法などにより敵上陸部隊との戦闘を有利にするとともに、利根川流域及び房総丘陵からの敵の浸透を阻止するように計画していた。同時に、両総台地の台上に降下する敵の空挺部隊による奇襲攻撃への警戒態勢を維持していた。 

▽「水際撃滅」以前 ― 第12方面軍の作戦構想に見られる「メッケル戦術」の影響 

 このように、昭和20年7月中旬ころまでの第12方面軍の作戦構想は、敵主力が上陸する正面において守勢から攻勢に転移することにより、敵主力を沿岸部において撃滅するものである。このため、まず始めに沿岸配置兵団が攻勢の「支とう」となる要点で拠点的に防御し、拠点陣地内に内包する形で砲兵部隊を陣地占領させ、直射・曲射のあらゆる火力を発揮して、上陸した敵の海岸堡設定を一週間ないし10日間阻止する。この間に攻勢のための兵力(決戦兵団)を方面軍の作戦区域内及び全国から主作戦正面に機動展開させて「攻勢を発起するための条件」を作為する。 

 次いで、沿岸配置兵団が「支とう」となる要点を保持している状態で、決戦兵団が水際部に向かって大攻勢を発動することにより、敵上陸部隊を海岸の狭隘な地域にまで圧倒してこれを殲滅(せんめつ)する。つまり、限られた戦力を集中的に運用して、「陸戦」における相対的な優勢を獲得するのである。 

 これらは、明治20(1887)年にメッケル少佐が『日本国防論』で述べていた作戦様相、すなわち「きわめて迅速で整斉とした出動準備」、「全国の諸部隊の大なる運動の自由」、「鉄道及び街道網の大なる供用力」の三つの条件を整え、「敵兵が上陸するときはこれに対し、勉めて迅速に我が兵を集中し、敵が大いにその兵力を増加するのに先んじて、敵に優るだけの兵力を以てこれを攻撃」するという考え方そのものであった。 

▽「水際撃滅」以前 ― 第12方面軍作戦構想の戦略・戦術上の問題点 

 こうした第12方面軍の作戦構想は、戦略・戦術的な観点からいくつかの重大な問題点を抱えていた。その中でも特に問題となったのが「敵の主侵攻企図を判定することの困難性」である。第12方面軍の作戦成否の鍵は、敵上陸の時機や主侵攻正面をなるべく速かに看破し、それにより我が兵力を集中する時機及び方向を適時かつ適切ならしめることにあった。これに対し、洋上を自由に機動できる敵は、通常、各種手段を用いた欺騙・陽動により上陸開始直前までその主上陸正面や上陸開始時期などの企図を我に誤認させるように最大限の努力を払う。このため、兆候上からこれらを判定することは相当困難であり、また、判定に手間取ってから攻勢を発動したのでは、完全に時宜を逸することになる。 

 第二には、「敵の制空権下、住民地で機動することの困難性」である。第36軍、特に戦車部隊や重砲部隊が敵機による空襲を避けながら江戸川や利根川を渡河して行う戦略機動は極めて多くの危険を伴い、また、敵方に近づくにつれ、決戦兵団が避難する民衆の流れに逆らって戦場に向かうことも予想された。このため、戦車部隊では「絣(かすり)式」と呼ばれた夜間・戦車一両単位での機動による「分散・隠密」方式に徹底せざるを得なかったが、これにより戦場への到着は大幅に遅延したであろう。 

 第三には、「沿岸部での二次決戦は期待できない」ことである。主決戦を終え、次いでもう一つの作戦正面に移動して二回目の決戦を行うことには、実行の可能性上、大きな疑念があり、さらなる増援兵力の来着を待たねば困難であろう。しかも、たとえ増援兵力を得たとしても、二度目の決戦を行う頃には、敵は上陸して半月から一ヶ月近く経っており、沿岸配備兵団が阻止できる限界をはるかに超えている。こうしたことから、沿岸部を捨てて内陸部における作戦とならざるを得ない。その頃、敵は陸続と無傷で大兵力を上陸させており、最早、敵を撃滅する見込みは、ほとんど消滅している。 

 このように、プロシア流・メッケル戦術の影響が色濃く残るこの戦い方は、一見「合理的」なようであるが、国土を戦場化することを大前提として島国であることの利点を生かしきらず、しかも、必要な条件が整わなければ、「終始、敵に振り回される」戦いを強いるものだったのである。 

(以下次号)

2012/8/24