【第24回】米軍の上陸作戦構想と日本軍の勝算
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・この次の攻撃目標は日本本土だが、上陸した場合の避け難い莫大な損害を考えると、日本ではなく、むしろ中国本土へ進攻すべきだと、私は今でもそう考えている。・・・ 

・・・特攻機は非常に効果的な武器であり、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私はこの作戦地域内にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような威力を持っているかを理解することはできないものと信じている。・・・ 

    スプルーアンス提督(アメリカ海軍軍人、第5艦隊司令長官) 

・・・皇居を破壊され、天皇を失った後の日本の誰を相手に終戦を実現させるのか。戦後のアジアでのパートナーとしての日本の役目を取っておいてやるべきだ。・・・(東京に原爆を投下することへの反対意見) 

    ヘンリー・スチムソン(アメリカ・共和党の政治家、陸軍長官) 

・・・天の時、人の和を得ているので、本土決戦で米軍に壊滅的な打撃を与え、じ後アメリカは戦意を喪失して和平を乞うか、もし再度日本への本土決戦を計画する場合には、少なくとも、じ後一ヵ年の作戦準備がかかる。なお、もし万一、来寇軍が一部本土に上陸しても、戦争の勝敗は意志の問題に懸かっているので、聖戦を確信している日本軍、日本国民は決して戦意を喪失することはないだろう。・・・(昭和20年7月、善通寺・第五十三軍司令部で軍司令官以下の将校に対しての講演) 

    畑中健二(陸軍少佐、陸軍省軍務局課員、終戦時「宮城事件」を主導して自決) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。今回は、米軍の日本本土への上陸作戦がどのような構想であったのか、そして、それに対する勝算が日本軍にあったのか、について具体的に説明いたします。 

▽ 米軍の対日侵攻「ダウンフォール作戦」 

 大東亜戦争末期における米軍の対日侵攻作戦は、「ダウンフォール作戦」と総称され、まず南九州に、次いで関東に上陸侵攻するという二段階の作戦を計画していた。 

 この作戦計画によると、米軍は昭和20年11月1日以降、14コ師団をもって南九州に上陸作戦を敢行して九州南部(川内から都農を結ぶ線より南)を占領し、関東侵攻のための空・海、兵站の各基地を設定しようとしていた。これを「オリンピック作戦」と呼称し、上陸正面は、宮崎海岸、志布志湾、吹上浜の三つであった。また、日本軍を九州内陸部に牽きつけておくため、三正面に上陸する直前に、ノルマンディー作戦と同様の落下傘付の人形を用いた偽の空挺降下を大々的に実施する計画であった。この「オリンピック作戦」に動員される米軍の総兵力は、81万5500名であった。 

 次いで、オリンピック作戦から4ヶ月後の昭和21年3月1日を期して、相模湾と九十九里浜に上陸し、両正面から上陸した部隊が相呼応して帝都・東京を攻略することになっていた。この関東地区侵攻作戦は「コロネット作戦」と呼称され、参加兵力は、相模湾正面に12コ師団、九十九里浜正面に9コ師団、予備4コ師団の合計25コ師団であり、その多くは欧州戦場からの転用部隊を使用する予定であった。 

 また、米軍は戦略的な欺偏行動として、西日本に所在する日本軍の部隊をその場に足止めさせておくため、フィリピン及び沖縄に所在する6コ師団(そのうちの4コはコロネット作戦の予備師団)をもって、「関東上陸の1ヵ月後の昭和21年4月1日に高知付近に上陸する」という偽情報をしきりに流していた。 

 さらに、日本軍による内陸部での徹底抗戦を危惧した米軍は、日本軍を朝鮮半島に拘束しておくため、5月1日には朝鮮半島東南部に、そして北海道及び千島列島に拘束しておくため、6月1日には北海道に、それぞれ偽上陸する計画であった。 

▽ 関東地区侵攻「コロネット作戦」の概要 

 米軍は「すべての反抗勢力の撃破と、東京〜横浜地域の占領」を目的として、太平洋のすべての陸・海・空軍の戦力を集中し、「主攻撃を相模湾正面、助攻撃を九十九里浜正面」とした上陸作戦をおこなう計画であった。時期的には、まず昭和21年3月1日から九十九里浜正面に助攻撃部隊を上陸させ、その10日後の3月11日から相模湾正面に主攻撃部隊を上陸させることにしていた。このように、米軍の作戦計画は、まず九十九里浜に上陸して(餌を撒いて)日本軍の決戦兵団の全てをこの正面に寄せ付けた後に、はじめて相模湾に主力を安全に上陸させるという「時間差(フェイント)」攻撃であった。 

 助攻撃は米第1軍が担当し、九十九里浜正面への上陸第一波として、3月1日にまず2コ師団と2コ海兵師団を、その5日後の3月6日に1コ師団、1コ海兵師団を上陸させ、合計6コ師団をもって北東と南西の方向に進撃し、房総半島を占領。次いで、第二波として、3月13日に3コ師団を揚陸させ、千葉〜船橋を経由して首都・東京に向けて進撃させるように計画していた。 

 一方、主攻撃は米第8軍が担当し、相模湾正面への上陸第一波として、3月11日にまず4コ師団を、その5日後の3月16日に2コ師団を上陸させ、合計6コ師団をもって北と東の方向に進撃し、町田から川崎を結ぶ線より南の東京湾の西沿岸部一帯を占領する。次いで、第二波として、3月21日に2コ機甲師団を揚陸、これらを北に向けて突進させ、熊谷から古河付近まで進出させて日本軍の増援ルートを遮断するように計画していた。 

 もし、千葉方向からの助攻撃部隊(米第1軍)の進撃が、江戸川、荒川、隅田川などの河川を活用した日本軍の抗戦により阻止された場合には、熊谷から古河付近まで進出した米第8軍の2コ機甲師団をもって北方から東京を攻撃させるようにも計画していた。こうして、早ければ昭和20年3月中に、遅くとも4月上旬には日本の首都・東京を陥落させ、これを占領する予定であった。 

 これらに併せてコロネット作戦に参加する海軍の兵力は、大型空母26、軽空母64、戦艦23を主力とする1200隻の大艦隊であり、航空兵力は、陸海両航空部隊の約1.5万機と、戦略爆撃隊とを併せて2万余機の大群が関東の空を覆うことになっていた。また、上陸用舟艇の数は、3千トンクラスの大型だけでも2783隻に達した。 

▽ コロネット作戦における戦術的な欺偏行動 

 米軍は、「主攻撃を相模湾正面、助攻撃を九十九里浜正面」という作戦方針を隠し、相模湾から日本軍の注意をそらすため、海岸偵察、掃海(機雷の除去)や航空爆撃・艦砲射撃などの「上陸前行動」を、南から北に相模湾、九十九里浜・鹿島灘の順で行い、あたかもこの三正面に上陸するような作戦を演じた。 

 このため、まず上陸作戦開始(3月1日)の一週間前から相模湾での上陸前行動を開始し、次いで4日前から九十九里浜及び鹿島灘での上陸前行動を開始し、日本軍が「米軍の最初の上陸は相模湾なのか・・・」と思案している裏をかいて、3月1日に九十九里浜の片貝から銚子にいたる海岸に助攻撃部隊を上陸させ、「九十九里浜に上陸した敵は、主上陸なのか、それとも助攻撃部隊なのか・・・」と日本軍が混乱し、状況判断を惑うように計画した。 

 また、主攻撃部隊を載せた海軍の艦艇部隊は、先ず3月5日に仙台湾の沖に停泊して仙台地区への上陸を欺偏した後に南下し、3月9日には鹿島灘沖に一時停泊、同正面への上陸をほのめかし、そして二日後の3月11日になってようやく相模湾に主上陸する計画であった。この主上陸と同日、上陸部隊を卸した多数の空船を仙台湾沖に停泊させ、関東方面に増援しようとする東北地区の日本軍部隊を牽制しようとしていた。 

 米軍はこうした実際の行動に加えて、日本軍のレーダーへの妨害電波の発信や、無線通信量の局地的な増大、偽通信、あるいは釈放した捕虜や米国内の新聞・ラジオなどを通じて日本側に偽情報をつかませる等の手段によりさらなる欺偏を図ろうとしていた。 

▽ 日本軍に勝算はあったのか 

 関東及び甲信越の防衛を担任する第12方面軍は、最終的には「関東地区に上陸侵攻する米軍の戦力」を、実際のコロネット作戦への参加兵力とほとんど同規模に予測していた。そして、これを迎かえ撃つための第12方面軍の最終的な総兵力は、20コ師団を主力とし、これらに独立混成旅団12コ、戦車師団2コ、戦車旅団3コが加わって、兵団単位数からは米軍上陸部隊とほぼ同等であった。しかも、この中の「決戦兵団」である第36軍(6コ師団、2コ戦車師団基幹)には、満州から引き抜いた最精鋭・戦車第1師団が含まれており、昭和20年9月の段階で全ての部隊に武器が完備するように準備されていた。  米軍の上陸時期についても、「昭和20年晩秋、北九州に侵攻し、海空基地を設定した後、昭和21年春、関東に侵攻」、とし、「20年晩秋、一挙に関東上陸もあり得る」としていた。このように、日本陸軍は上陸侵攻する米軍兵力と上陸時期をほぼ正確につかんでいた。 

 一方、米軍の上陸正面については、「九十九里浜を重視し、次いで相模湾、最後に鹿島灘」と判断しており、最後まで「相模湾が米軍の主上陸正面」とは考えていなかった。これに対する第12方面軍の最終的な決戦構想は、「主決戦正面を九十九里浜正面と予定し、九十九里浜正面に敵の上陸を見た場合には、他正面に対する敵上陸のいかんにかかわらず、直ちに第36軍の主力を投入して、敵に主決戦を強要する」というものであった。 

 つまり、米軍の主上陸正面が九十九里浜であろうと、相模湾、あるいは鹿島灘であろうと一切関係なく、日本陸軍の方針はただ一つ、『九十九里浜正面で主決戦』であり、「九十九里浜に上陸した米軍だけを完膚なきまでに叩き潰す」ということであった。そもそも、後退配備・沿岸撃滅から水際撃滅に転じた時点で、日本陸軍は「米軍の主上陸正面はどこか」という敵情判断そのものを捨てていたのである。それゆえに、米軍が巧妙に主上陸正面を欺偏し、日本側の判断を混乱させようとしたことは、全く無意味だったのである。 

▽ 壮絶なる九十九里浜での最終決戦 

 第12方面軍の最終的な作戦構想に見られる「徹底した水際撃滅」の基本思想に基づき、日本側が採ろうとした戦法を具体的に説明すると、次のとおりである。 

 敵上陸船団に対する攻撃は、海軍が統一指揮して敵船団が九十九里浜沖の泊地に入る前日から概ね十日間にわたり実施される。敵が泊地に進入するや、わが特攻機は全力で攻撃を開始する。当時陸軍が関東方面に使用を予定していた飛行機数は、約1000 機で毎日200機ずつ連続5日続行し、その命中公算は20%と見積っていた。この命中公算は、レイテ作戦での80%、沖縄作戦での50%という推定値から判断されたものであった。これと前後して小型潜水艦「蛟竜」・特種潜航艇「海竜」による挺身魚雷攻撃や、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」、潜水特攻「伏竜」等による水中・水上特攻も行われる。 

 一方、北関東一円において待機していた「地上決戦兵団」である第36軍は、九十九里浜に向かい早期に機動を開始し、利根川を渡河し、敵上陸までに概ね成田〜佐倉〜千葉の線より西にある攻撃陣地に展開する。 

 敵上陸軍が海岸に達着するや、沿岸配備兵団は上陸点に全火器の火力を集中する。九十九里浜正面を担任する第52軍は、敵が上陸した日に直ちに攻撃を開始し、その後は連続攻撃を反復しつつ敵による第一目標線の設定を阻止して、敵と我との戦線を混戦状態に導き、敵の爆撃や艦砲射撃が困難な状態を作為する。 

 第36軍は、この混戦中の好機に投じて、敵が上陸した翌日ないし翌々日に攻撃を敢行し、一挙に上陸軍の撃滅を図る。なお、この際、敵上陸軍との地上戦闘において日本軍が最も頭を悩ました問題の一つである対戦車戦闘(敵の戦車を破壊するための戦闘)については、7月16日に大本営が本土の全軍に示達した「対戦車戦闘要綱」により、水中・水上や航空特攻と同様に、「一兵一両必砕の特攻戦法」によることが強く要求された。 

 国土戦ゆえ、地の利は完全に我にあった。「義勇兵役法」の制定により、「国民義勇隊」も編成され、地域住民による防空、生産、交通、通信等の後方支援態勢も逐次完成されつつあった。最後の一大決戦は、九十九里浜正面に関しては十分な勝算有りと思われていた。 

▽ 日本陸軍の対米「終戦」戦略 

 昭和20年4月には、すでに終戦工作を役目とした鈴木貫太郎内閣が誕生し、7月末には連合国から終戦条件としての「ポツダム宣言」が提示されていたが、同年8月上旬の時点で日本陸軍が描いていた戦略は、『死中に活を求める戦法に出れば、完敗を喫することなく、むしろ難局を好転させる公算もありうる』(8月9日の閣議における阿南陸軍大臣の主張)というものであった。 

 つまり上陸侵攻する米軍に対して、空海陸からの特攻作戦で大打撃を与え、「水際における必然的弱点」を突いた攻勢に次ぐ攻勢で米軍兵士に多大な出血を強要する。それと同時に対米宣伝と謀略により、米国世論に厭戦気分を誘発することで、米国民の戦争継続の意志を失わせる。そして、米国との停戦交渉により「ポツダム宣言」において不明確であった部分を下記の四条件として米国にのみこませる。 

一 天皇の国家統治大権を維持する(その地位を一切変更しない) 

一 本土占領は東京以外の最小範囲とする 

一 武装解除は自主的に行なう 

一 戦犯の処分は日本側が自発的に行なう 

 この中で第一の条件「天皇の国家統治大権の維持」は絶対に譲れないものであった。そして、これらの条件が認められないかぎり、日本はあくまで戦争を継続すると主張し、一歩も引き下がらない態度を示すことが重要であった。事実、硫黄島や沖縄で多大な出血を強要されてきた米国は、日本との本土決戦によりこれらをはるかに上回る莫大な損害を受けるものと予期しており、何とかしてこれを回避したいと考えていた。 

 昭和20年7月末に米国参謀総長・マーシャル将軍は、トルーマン大統領に対して、日本本土攻略における米軍の死傷者は、少なくとも二十五万、最悪の場合は百万人台になるであろうとの見解を明らかにし、米陸海軍の最高首脳部もこれに同意した。そこで、米国は日本政府の終戦工作が陸軍の抵抗をはね退けて進展するように、同年8月6日に広島に原爆を投下し、8月8日にはソ連が中立条約を破って対日参戦したのを黙認した。これらの事態に対処するため同年8月9日、日本では最高戦争指導会議が開かれた。 

 会議では、「即時和平」を唱える外務省・海軍省と、「徹底抗戦」を主張する陸軍(省及び参謀本部)・海軍軍令部との間で意見が対立していたが、その最中に、長崎に二回目の原爆が落とされた。あらかじめ計画されていたかのような、最も効果的で絶妙なタイミングであった。米軍の手持ちの原爆はこの2発までであり、第三、第四の原爆投下は当分の間は起こりえなかったからである。 

▽ 大日本帝国陸軍の名誉のために 

 結局、天皇陛下の御聖断を仰ぎ、ポツダム宣言を受諾することが決まったが、この時、昭和天皇は会議参加者一人一人の意見を聞いたのち、次のようなお考えを述べられた。 

・・・自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては、結局わが国が焼土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは、私として実にしのび難い。祖宗の霊にもおこたえできない。・・・ 

 こうして、三年八ヵ月の長きにわたった大東亜戦争に終止符が打たれたのであったが、戦後、元外務省役人が著した書物によると、この昭和20年8月9日の最高戦争指導会議で、昭和天皇が阿南陸軍大臣以下の戦争継続派を説得するため、「犬吠岬と九十九里浜海岸の防備がまだ完成していない」ことと、「関東地方の決戦師団は9月に入らないと武器が完備しない」ことを理由に、戦争の継続を不可とし、外務大臣の案(ポツダム宣言受諾)に賛成する旨のご発言があったという。 

 しかし、米軍の九州上陸が9月、関東上陸が翌年3月という陸軍の「正確な敵情判断」からすればこれらのことは何の問題も無いことである。しかも、陸海軍の最高統帥権者として参謀総長から日々の戦況について上奏され、大東亜戦争の終始にわたり、あらゆる作戦に誰よりも精通され、心配りをされておられた『大元帥陛下』昭和天皇が、こうした陸軍の敵情判断を全く承知しておられなかったなどということはあり得ない。 

 この「昭和天皇の御発言らしきもの」は、軍事を知らない元外務省役人によって捏造された「陸軍悪玉・外務省善玉」論のたぐいであると見て間違いないであろう。自己正当化のためには天皇陛下の大御心さえもねじ曲げる・・・、やはり昔も今も、外務省は「害務省」である。 

 次回は、いよいよ最終回として、これからの日本の国防を考える上で本土決戦準備から我々が学ぶべきものを考察してみたい。 

(以下次号)

2012/9/14