【第25回】日本の国防 ― 本土決戦準備から学ぶべきもの
▽ ごあいさつに代えて 〜戦場から届いた言葉〜 

・・・第5航空艦隊は、全員特攻の精神をもって今日まで作戦を実施してきたが、陛下の御発意により終戦のやむなきにいたった。しかし、本日只今より、本職先頭に立って沖縄に突入する。・・・(昭和20年8月15日午後4時半、22名の同行隊員に与えた訓辞) 

    宇垣 纏(海軍中将、初代第5航空艦隊司令長官) 

・・・貴官らの気持ちはよくわかるが、今はただ、陛下の思し召しに沿い、皇軍の潔さを米国軍民に示すべきではないか。私は第5航空艦隊の総力をもって終戦平和に努力する決意である。不都合と思う者があれば、この私をまず血祭りにあげてからにせよ。・・・(昭和20年8月16日、着任の日に長官室にて) 

    草鹿龍之助(海軍中将、第二代第5航空艦隊司令長官) 

・・・君たちはおそらく復員したら自分たちが頑張って、焦土と化した日本を復興させるのだ、と意気込んでいることと思う。(中略)君たちが内地に上陸した時、お母さんの膝の上に抱かれてお乳を飲んでいる赤ちゃんを大事に立派な日本人になるよう育てて欲しい。その赤ちゃんがきっと将来日本を復興させてくれると思う。・・・(昭和21年1月7日、絞首刑が執行される一ヵ月半前、マニラの既決犯収容所にて) 

    山下奉文(陸軍大将、第14方面軍司令官) 

 日本兵法研究会の家村です。それでは、本題に入りましょう。これまで皆様とともに、国土防衛を担ってきた先人たちの苦心の跡を訪ねてまいりましたが、最終回である今回は、こうした本土決戦準備の史実を踏まえて我が祖国日本が目指すべき国防のあり方について私見を述べさせていただきます。 

 半年間にわたりご愛読、誠にありがとうございました。 

▽ 昭和天皇の大御心と沖縄作戦 ― 日本陸軍を水際撃滅に帰結させたもの 

 大東亜戦争終戦から六十有余年の歳月を経て、占領体制から真に脱却することを余儀なくされている今日、大東亜戦争末期の日本陸軍から新たな国土防衛体制を創造するための何かを真剣に学びとるべき時期に来ているといえるだろう。 

 本土決戦準備を本格的に開始した昭和20年初頭、国内に所在するわずか13コ師団という微弱な戦力から水際撃滅を断念した大本営陸軍部は、沿岸部後方の堅固な地形を利用して敵の内陸侵攻を阻止し、その間に全国から決戦戦力を機動集中して攻勢に転移するという、かつてメッケル少佐が考えていた戦術に依らざるを得なかった。しかも、陸軍省は独断で信州松代に政府・大本営の地下坑道施設を構築しており、昭和20年3月上旬までは大本営陸軍部も止むを得ない場合の「内陸部における持久戦」を想定していた。しかし、東京大空襲による都民への甚大な被害をご視察された昭和天皇は、御自ら国民と最後まで危難と苦悩を共にされる決意をなされ、帝都東京を離れ給うことをお許しにならなかった。この昭和天皇の大御心により、大本営陸軍部にとって「帝都固守」以外の選択肢は無くなった。 

 その後の三次にわたる兵備下令により、人的戦力は45コ師団+21コ独立旅団にまで充実し、水際撃滅の可能性が増大した。しかし、同時に島嶼作戦からの教訓に基づく築城作業もますます尖鋭化し、下総台地を始めとする沿岸部の後方地域に地下深く「洞窟式拠点陣地」が構築されつつあり、大本営陸軍部もこれまでの作戦準備の経緯に引きずられて容易に作戦思想を転換できなかった。こうしたなかで、従来の作戦思想の是正を余儀なくしたものが「沖縄作戦の教訓」であった。沖縄作戦は、軍と住民が混在する中での作戦・戦闘の困難さや非戦闘員である老人・婦女子をも巻き込む「国土戦」の悲惨な実態を大本営陸軍部に突きつけ、「我々は何を護るための軍だったのか」という素朴な疑問を良識ある軍人たちに投げかけた。 

 そして、孤島における作戦とは異なり、本土には決戦場としての「地の利」が存在すること、特に「策源における戦い」という自信は、急速な人的戦力の充実や特攻戦法の予想以上の効果と相まって、終戦直前には水際撃滅を徹底して追求する新たな作戦思想への転換を実現させた。第一線部隊に対しては、これまで営々として築き上げた陣地の放棄を命ずるため、大本営陸軍部は、総軍司令官以下「自己健存思想」の一切を打破して水際部で戦い、「一兵の存する限り、背後にある大和民族を最後まで護る」という覚悟を表明したのであった。 

▽ 究極的に護るべきもの ― 『日本の国體(国体)』 

 日本陸軍が85年の歴史を閉じる最後の戦いにおいて、国土・国民を背にして、水際にて全軍が討ち死にする覚悟を固めてまで護り抜こうとしたものは何であったのか・・・。 

 昭和20年8月上旬の日本陸軍の戦略は、上陸侵攻する米軍に対して、空海陸からの特攻作戦と、「水際における必然的弱点」を突いた攻勢に次ぐ攻勢で米軍兵士に多大な出血を強要して米国民の戦争継続の意志を失わせる。そして、米国との停戦交渉により「ポツダム宣言」において不明確であった「天皇の国家統治大権」の存続を米国に認めさせることであった。つまり、日本陸軍は、その最期に自らの命に代えて『日本の国體(国体)』を守り抜こうとしたのである。 

 「国體(国体)」とは、「領土・国民・主権」といった一般的な国家の構成要素に加え、国家の外的側面と内的側面を兼ね合わせた国家観である。国家の外的側面とは、制度・組織・機構・権力構造・・・等として客観化して認識でき、知性で捉えることが出来る物質主体の側面であり、これを「政体」と呼ぶ。これに対して国家の内的側面とは、一つの「いのち」であり、価値であり、それを味わい、感じる以外にはつかむ方法がない、言い換えれば我々の愛すべき対象、誇りの源泉となりうる精神や魂といったものを主体とする側面である。国家が「いのち」であればこそ連続性・永続性といった縦の世界を備えており、その基盤の上に共同体としての同胞意識といった横の世界が醸し出される。 

 我が国に対する脅威がいかに複雑・多様化しようとも、我われが究極的に護らなければならないものは、この『日本の国體(国体)』である。それは、具体的には「天皇陛下を中心に国民が一つの家族のように協力し、助け合って生きてきた、悠遠の神代より今に伝わる日本の国柄」であり、それを構成する大和民族、すなわち天皇・皇室と日本人の命、そしてイザナキノミコト、イザナミノミコトの二神が生み給いし「大八洲」すなわち多くの島々からなるこの美しい国土と海である。 

 残念ながら、この『日本の国體(国体)』の中核をなす「天皇の国家統治大権」は、戦後GHQが起草した「日本国憲法」と称する「占領統治基本法」により「国民の象徴」というあいまいな状態に貶(おとし)められたまま、現在まで放置されている。まずは日本人自らの手で新たな憲法を制定し、これに「天皇の国家統治大権」を明記することは、真の戦後復興を成しとげる上で喫緊の課題である。 

▽ 『日本の国體(国体)』を護持するための「教育」と「国防」 

 この世界に誇るべき『日本の国體(国体)』は、「教育」と「国防」の二本柱により護られるものである。占領下でGHQが起草した「日本国憲法(占領統治基本法)」を放置したまま、経済復興を何よりも優先し、その裏でないがしろにしてきた「教育」と「国防」をいかに自らの手で取り戻すか。これらを達成してこそ、真に『日本の国體(国体)』が護持され、「戦後復興」が完結するのである。 

 「教育」で特に重要なのは、正しい国史と修身を教えることである。しかしながら、戦後一貫して日本の学校教育は、日教組を始めとする左翼・共産主義者らにより、むしろ「国體(国体)破壊」の手段にされており、今や惨憺たる状態である。国防についても、国軍不在の擬似国家として他国に領土を侵食され、国民を拉致されたまま、何らなすすべも無く虚構の平和を謳歌してきた。これからの日本がこうした現状を打破して真の独立主権国家となり、『国體(国体)』を護持するためになすべきことは、「国境警備隊の創設」、「国軍の再建」そして「武士道精神の涵養」の三つに集約されるだろう。 

 つまり、列国並みの国軍と国境警備組織を保持し、四面環海の島国である日本にふさわしい国防体制を構築するとともに、我が国の歴史と伝統に根ざした武士道の精神を、軍民を問わずより多くの国民に涵養することにより、世界に恥じざる「道義国家」を目指すことは、教育と国防の両面から成し遂げるべき重要な課題である。 

▽ あらゆる脅威を水際で排除する国境警備体制の確立 

 日本の国防上重視すべき軍事戦略は、「あらゆる脅威を水際で排除する国境警備体制の確立」、「攻守バランスの取れた軍事力の保持」、すなわち大規模な軍事侵攻に際して国土の戦場化を最小限に抑える統合防御力の整備、奪われた国民・国土を奪回するための統合攻撃力の保持、さらには独自の核抑止力の保持である。 

 国境警備体制に関しては、日本の歴史を見ても国外からの脅威が顕在化した時代には、防人、異国警固番、屯田兵などのように、国境警備こそが「国防」の主体であった。幕末から明治初期にかけての「海防」も同じである。特に脅威の形態が軍事と非軍事の境がない複雑多岐な様相を呈しつつある現代の国境警備には、列国と同じように軍隊と警察の中間レベルの「国境警備隊」を持つことが極めて重要である。北朝鮮による拉致や潜入工作活動を見ても、34,000キロの海岸線を持つ我が国で漁船やレジャーボートに偽装した工作船、あるいは特殊な水中船を使用して1人、2人と入ってきている。こうした工作員やゲリラを軍隊により発見・阻止することは、軍本来の任務や編成・装備からは非効率であり、国境警備隊のような軽武装の準軍隊組織を平素から全面展開しておく必要がある。 

 このため、現有の海上保安庁に警察の機動隊、陸上自衛隊の普通科部隊と海上自衛隊の地方隊などを合体させて早急に『国境警備隊』を創設する。これにより、排他的経済水域(EEZ)境界及び領海外縁の警備体制に万全を期すとともに、尖閣諸島や与那国島、対馬、沖ノ鳥島、南鳥島といった国境離島を優先して陸上部隊を配備する。その後、数年かけて組織を整えながら全国の離島や本土の水際部の警備体制を完成させるのである。 

 国境警備隊の主要任務は「国境の警戒・監視」「領海・領土侵犯対処」「不法操業、不法出入国、密輸の取り締まり」「緊急時における沿岸重要施設・物件の警備」「領域内における国民の生命・財産の保護」などである。このため、偵察衛星、高高度偵察飛行船、海中センサー、暗視カメラや監視哨(目視・レーダー)など各種手段による監視網と、巡視船・巡視艦、無人偵察機、無人潜航艇や車両巡察などによる警戒、そして中央の警戒監視統制センターで、二十四時間の国境警備体制を維持するのである。 

 国境警備庁は国防省とは別組織であるが、大規模な武力侵攻事態に際しては国防大臣の指揮下に入る。ただし、国境警備情報については、常に国防省の統合ターゲティング(射撃目標管理)システムにリンクさせることにより、あらゆる形態の侵攻に対して常に正確な目標情報を取ることができ、必要とあれば、そこに軍の精密誘導爆弾やミサイルがピンポイントで飛んで来て、百発百中で撃破する。このように『国境警備隊』は、平時と有事を問わず我が国の「前哨線」を構成して、タイムリーに国防軍が必要とする目標情報をキャッチすることにもなる。 

▽ 政権の「暴力装置」にならない「国軍」の再建 

 「国軍」とは、国家元首に統帥権が帰属する軍隊である。日本陸海軍は天皇が統帥する「国軍」であり、それゆえ予算や編成などの「軍政」に関しては政府や国会の統制を受けたが、「軍令(作戦指揮)」に関しては時の政権により左右されること無く、自国民の保護や救出の為にも自らの意思で、常に「いつ、どこへでも」出動することが可能であった。 

 これに対し、「政体」を守るために人民や他民族を武力で鎮圧したり、軍事力を威嚇手段として濫用するような軍隊、すなわち中共や北朝鮮のような一党独裁国型の軍隊は、「国軍」ではなく政権の「暴力装置」である。このような組織は我が国の『国體(国体)』には合致せず、存在してはならないが、「日本国憲法(占領統治基本法)」第9条の下でやむなく創設された自衛隊は「国軍」ではなく「武装官庁」であり、統帥権が内閣総理大臣という「政治家」に帰属するという面では、むしろ武装警察軍、あるいは党の軍隊である赤軍や人民解放軍に近い性格を有する。領土問題や北朝鮮による日本人拉致事件などが、何の進展も無く放置されてきたのも、「国軍」が存在しないため、実力に裏付けられた強力な外交が展開できなかったからである。 

 こうした現実を直視し、「日本国憲法(占領統治基本法)」を破棄して「国軍」を再建しなければならない。この際、統帥権に関しては、革命性を帯び、あるいは外国にコントロールされた政権ができても、その「暴力装置」とならずに、あくまで日本の『国體(国体)』を護持するために行動しうるように統帥権(最高指揮権)を「国家元首」に帰属させねばならない。国軍再建の根本義とは、「天皇の国家統治大権」を明記した新たな憲法の下で、「兵馬の権(統帥権)」を明治維新と同様に国家元首たる天皇陛下にお返しすることに外ならないのである。 

 国軍の再建にあたっては、統帥権の所在のほかにも、軍種の構成をどうするか、国民の兵役義務(あるいは国境警備義務)、さらに列国並みの予備役制度や民兵の充実も考えなければならない。軍種に関していえば、陸海空軍だけではなく、戦略ミサイルや地対空・地対艦ミサイルなどを一元的に運用するミサイル軍、また島嶼奪回や拉致被害者救出などの作戦を遂行するためには、強襲上陸が可能な海兵隊も不可欠であろう。いずれにせよ、各軍種の垣根を越えた統合作戦のための司令系統や指揮・通信・統制のシステムを平素から構築しておかなければならない。 

 予備役制度に関しては、現状の予備自衛官制度のような微弱なものではなく、実効性ある予備役制度の整備が急務である。主として大規模かつ本格的な武力侵攻に備える陸軍部隊の多くは、予備役を主体とした組織とし、列国並みの数十万から百万単位の予備役軍人を常時確保しておくとともに、震災や津波などの大規模災害に対処するため、これらの即応性を高めておく必要がある。これに加えて国民参加型の国防政策として民間防衛組織の検討も必要となるだろう。 

▽ 攻守バランスの取れた軍事力の保持 

 大東亜戦争終戦から半世紀がすぎ、狭い平野部に宅地や市街地が集中して稠密(ちゅうみつ)化し、道路・鉄道、ライフラインその他の重要なインフラがひしめいているこの国土を戦場にして、敵味方の陸軍どうしが大々的に作戦することはありえない。もはやこの国土は戦場にはなりえず、戦場にしてはならないのである。それゆえに大規模な軍事侵攻に対しては、国土を戦場としない、やむをえない場合も最小限に抑えるだけの「統合防御力」を整備すべきである。国土は戦場ではなく、守るべき対象であるというのが、水際撃滅に帰結した日本陸軍の「遺言」でもある。 

 四面環海の我が国土防衛の勝ち目は、まず敵の上陸侵攻部隊が洋上及び空中にある段階で叩き、次いで着上陸前後の段階で叩くことにある。すなわち、我が敵よりも早く組織的な戦力を発揮して、敵に戦力を組織化させないことである。こうしたより前方で、より早期に敵を撃破することを日本の国防戦略とすべきである。 

 現代戦では、海からの侵攻と並行して空挺やヘリボンによる空からの侵攻が大規模かつ広域に行われるが、我の戦力発揮が早ければ早いほど、局地的に少ない戦力でこれらを制することができる。この機を最大限に捉えて敵に大打撃を与えるため、命中精度のきわめて高い対空・対艦ミサイルを集中的かつ効率的に指向しなければならない。このため、平素から軍種の垣根を越えた警戒監視体制を整えるとともに、統合ターゲティング(射撃目標管理)システムによる形而上下にわたる協同連携の完成を図っておくのである。 

 こうした統合防御力に加えて、奪われた領土や国民を奪回し、さらに領域や国民の生命・財産に対する侵害を抑止するための「統合攻撃力」を保持する必要がある。これは、必要に応じ威嚇と報復、そして先制攻撃ができる軍事作戦能力のことである。すでに敵手にある我が国固有の領土や日本国民を取り戻すには、潜水艦などから敵地に隠密潜入して行動する特殊作戦部隊を始めとして、強力な空軍戦力と海兵隊、長距離爆撃が可能な対地支援戦闘機、オスプレイ型垂直離発着輸送機、強襲揚陸艦などの着上陸戦闘用装備が必要不可欠である。力で奪われたものは、力で奪い返すしかないというのが歴史の必然であり、さらに、日本に手を出したら何をされるか分からない、という恐怖感のみが北朝鮮の工作活動や中国人民解放軍の南西諸島攻略を始めとするあらゆる侵攻を未然に抑止するのである。 

 第二次大戦末期の米軍編成を模倣して創られた陸上自衛隊の編成・装備は、大挙して上陸侵攻した敵陸軍との「陸戦」を想定したものである。しかし、上述したような空・海・陸で統合された戦力の重要性に鑑み、これから編制される国防軍の陸上部隊は、陸地に国境を有する国のような編成・装備である必要はなく、装甲車による機動展開能力と対艦・対舟艇戦闘や対ゲリラ戦闘に優れた数万人程度の常備軍を主体とすればよい。そして、これを補完するため、「いざ鎌倉」とあれば小銃一丁と携行糧食を背負って駆けつけ、数十万から百万と雲霞のごとく集まる予備軍との二重構造にすべきであろう。 

▽ 独自の核抑止力の保持 ― 中国の軍事的脅威への対応 

 現代の日本にとって最大の脅威は、中国軍のアジア太平洋地域への進出である。80年代に毛沢東の人民戦争戦略から近海積極防衛戦略に転換した中国軍が、南シナ海の覇権獲得を狙う真の目的は、海底資源、漁業資源などではなく、米国と対等に渡り合える軍事超大国の地位を獲得することである。そのため、核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を聖域化した南シナ海に配備して米国本土を狙い、核の第二撃力を獲得することを目指している。 

 中国が核の第二撃力を保持した暁には、日本に対する米国の核の傘は、全くあてにならなくなり、我が国独自の核抑止力を保持せざるを得なくなるであろう。このため、我が国も対中(朝)核抑止力として核ミサイル搭載型の潜水艦を、実任務・訓練・整備のローテーションを考慮して、最低でも3隻は保持する必要がある。日本が真に自立した独立主権国家であり、日米同盟が米英関係と同レベルの堅実で信頼するに足りうるものになれば、米国もまた、このような日本の選択を容認するだろう。 

▽ 特攻兵器をハイテク技術で「無人化」 

 本土決戦において日本軍が採用した特攻戦法は、敗戦を間近にし、何もかも足りない最悪の状況下において採り得た唯一の戦術・戦法であった。人命を兵器の一部として取り込んだ特攻戦法の思想について、現代の人道的視点からこれを批判するのは簡単である。しかし、国土防衛上求められる効果に対して、当時の軍事科学技術や兵員の技量では、ここまでが限界だったのである。 

 これからの日本の兵器開発には、本土決戦にあたり先人が身をもって達成しようとした敵艦船や輸送船団などに対する航空あるいは水上・水中からの特攻戦法や、敵戦車に対する肉薄・挺身攻撃のような戦法を、現代のハイテク技術、ロボット技術を駆使して「無人化」するという独自の視点が求められよう。 

 すでに開発・配備されている地対艦ミサイルは、いわば「無人神風特攻機」であり、これと同様に無人特攻艇・無人潜水艇、地上発射式魚雷システム、対戦車戦闘ロボットなどのような「無人化」された特攻兵器を開発・装備することが人命を尊重しつつ島国日本を護る有用なポイントとなろう。さらに、無人特攻艇・無人潜水艇などは、平時においては、水上・水中における無人哨戒艇として国境警備にも有効に活用できるであろう。こうした現代科学技術の叡智を尽した新しい合理的な戦法を開発していくことこそが、特攻で散華した幾多の英霊に報いる道である。 

▽ 武士道精神の涵養 

 明治維新以降の日本が西欧の科学技術や思想を積極的に取り入れていく過程の中で、「和魂洋才(日本古来の精神を大切にしつつ、西洋技術を受け入れ、これら二つを調和させつつ発展させていくこと)」を叫びながら、実際には精神面においても西欧的なものに知らず知らずのうちにのめりこんでいくことは避けられなかった。このことは、プロシアのメッケル少佐から西欧式の用兵術を学んだ日本陸軍とて例外ではなかった。 

 それでも、日清・日露戦争を戦った当時の将兵たちは皆、幼少時代に武士としての教育を受けてきたサムライそのものであった。屍の山を乗り越えて突撃を重ね、ついに難攻不落といわれた旅順要塞を陥落させたとき、乃木将軍を始めとして、全ての将兵たちが明治天皇の御命令とあらば、万難を排してこれを完遂する意気込みでいくさに臨んでいた。このような明治時代の日本陸軍に「自己健存思想」のようなものが蔓延することはあり得なかった。 

 これに対して、大東亜戦争を戦った日本陸軍は、陸軍大学校を優秀な成績で卒業した上級クラスのエリート将校たちによって動かされており、しかも陸海軍内部に共産主義者や革命工作員が入り込み、国家革新運動など本来の軍務からは縁の無い政治的活動が盛んになっていた。このような昭和の日本陸軍では、中枢部や上層部になるほど精神面において西欧的合理主義の影響が強くなっていたことは、間違いないだろう。 

 帝都防衛を放棄し、国民の多くを見捨ててまでも信州・松代に皇居と大本営を移転しようと画策し、あるいはインパール作戦において師団長が軍司令官の命令を無視し、友軍を見捨てて無断撤退したことなどは、それが西欧流の「合理的」な判断であったとしても、「君民一体」の美しい日本の国柄や、「君命に従わざるところなし」とされた日本武士の精神からは、およそあり得ない考えである。 

 軍人のみならず、政治家、官僚、そしてすべての日本国民が「強く、正しく、潔い」武士道の精神に立ち返ることこそが、日本の国防において最も求められているのである。具体的には、軍・民を問わずあらゆる教育機関や企業組織で武士道精神を身につける仕組みを構築すべきであろう。校内での犯罪が組織的に隠蔽され、いじめによる自殺が多発しているような地に落ちて混迷を続ける現今の学校教育を再生する鍵も、この「武士道精神」への回帰にしか見出すことができないのではないだろうか。 

▽ おわりに  ―『道義国家』日本の再興 ― 

 本土決戦準備において、日本陸軍がなぜ水際撃滅思想に帰結したのか、この疑問を解くべく、日本陸軍が身をもって体験した唯一の国土防衛作戦について半年間にわたり検証してきたが、最後に強調したいことは、「今、そして将来の国防を担う我ら日本国民は、帝国陸海軍人の延長上に存在するのであり、この精神的な紐帯(ちゅうたい)を断ち切ってはならない」ということである。 

 天皇や首相の靖国神社参拝阻止、南京大虐殺や従軍慰安婦といった捏造プロパガンダの展開でも明らかなように、日本の弱体化を狙う国々は、ここにその攻撃の矛先を向け続けてきたという事実を直視しなければならない。誠に残念なことではあるが、今なお日本を敵対視することによってしか国家の存立を維持できない国々が周辺に存在する以上、祖国日本の平和と独立を護るための戦いはこれからも続くことを覚悟しなければならない。その戦いは、軍事と非軍事とを問わない国家総力戦である。 

 我々日本人は、世界最古の『国體(国体)』を護持するという道徳的正当性を強靭な後楯として、「正直で、元気よく、一生懸命働き、世界中の範となる」国民・国家を目指すべきである。国民一人ひとりが、自己を高めて人を愛し、それぞれの職業や役職に応じた責任を確実に果たそうと務め、政府や国家リーダーたちのあらゆる行動に全ての国民が等しく納得できる「道義」が存在し、他国からのいわれ無き非難や理不尽な要求には毅然として対応し、「強い力と正しい心」に支えられた『道義国家』日本を再興する。これこそが、一握りの反日国家を除く世界中の国々が神国日本に求めている「使命」なのである。 

・・・偉大であるということは、偉大な戦いをすることである。・・・ 

    ハムレット(イギリスの作家・シェイクスピア作の戯曲の主人公) 

(おわり)

2012/9/21