日本人の精神と武士道
▽ 新渡戸稲造が説いた「武士道」 

 明治33(1900)年1月、日本の伝統的な精神を欧米人に広く理解してもらうため、新渡戸稲造の『武士道』という本が英文で刊行されると、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトはこの本に感動し、ただちに数十冊を購入して、世界中の要人に「ぜひ一読することを勧める」との言葉を添えて送るとともに、ホワイトハウスを訪れる政・財・官界の指導者たちにも配布した。その4年後に日露戦争が勃発したが、日本軍は「武士道」に則った戦いぶりを見せ、世界を感動させた。乃木将軍や東郷元帥が日本の典型的な武人として国際社会からの尊敬を受けた。そしてルーズべルト大統領も日露講和の仲介を買って出たのであった。 

 このように外国からの脅しに対して敢然と立ち向かった当時の日本人の姿はいかにも勇ましいが、新渡戸稲造が説いた「武士道」とは、そのような「勇」一辺倒だけではなかった。 

▽「公 義」 

 新渡戸『武士道』は、徳目の最初に「義」を挙げている。「義」とは「義務」であり、「義理」すなわち「『正義の道理』が我われになすことを要求し、かつ命令するところ」を言う。この「義」は「個人」のレベルに閉じ込めておくべきことではなく、必ず「公」のレベル、すなわち「公義」として受け止めなければならない。それは社会のために各人が為すべき事を指すのである。 

 人の生き方として実践を重んずる武士道は、「義」について抽象的・哲学的にあれこれと論じてはいない。それよりも「義を見てせざるは勇なきなり」の一言で、武士としての生き方を表現している。新渡戸『武士道』の二番目の徳目である「勇」とは、あくまで「義」を実践する時の姿勢であって、「義なき勇」は「匹夫の勇(思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない人間の勇気)」として、軽蔑された。 

▽ 自ら「公義」に生きた新渡戸稲造 

 新渡戸稲造は単に武士道を理論として説いただけではなく、彼の生き方そのものが「義を見てせざるは勇なきなり」であった。新渡戸は『武士道』を刊行した翌年に台湾総督府の農業指導担当の技官として赴任し、台湾製糖業の発展に大きな貢献を為した。新渡戸が台湾に来てくれるよう要請されたとき、彼はまだアメリカにおり、健康状態も悪かった。しかし、「義を見てせざるは勇なきなり」の武士道精神に基づいて、総督府の一介の技官(地方の課長)というポストに従容として赴き、現地に入ってからは命を賭して大事業の成就に全力疾走した。 

 それは、国家が必要としていたからであり、新渡戸自身も「天下為公(天下をもって公となす。天下は公のもの)」「滅私奉公」といった武士道精神に無意識のうちに衝き動かされていたのであった。 

▽ 義に基づいた惻隠の情 

 「公義」を基盤とする武士道精神には、「仁」、すなわち「惻隠の情(あわれみの心、弱者・敗者へのいたわりの心)」がある。こうした「公義」を根幹とし「惻隠の情」を持つ武人は、自由を奪われ苦しんでいる人々、不幸な境遇にある人々、その存在を脅かされている人々に対して自然のうちに「同情」の念を抱き、それが昂じると「義憤」となり、時として大塩平八郎の如く行動により公に訴えたのであった。こうした「義に根ざした惻隠の情」に基づき、勇気を持って行動することで、個人も国家も初めて社会の中で「尊敬される存在」になるのである。 

 こうした武士道の精神は、我々日本人が二千年以上の時間をかけて「国民精神」の根幹として育て上げてきた世界に誇るべきものである。「精神」とは人間が五感により情報を得てから行動に移すまでに行う「情報処理」の過程であり、「行動のプログラム」である。我々日本人はこれを「武士道」という基盤の上に置き、この実践に努め、心手期せずして行動しうる域に達することを目指した。 

▽「大和心」と「武士道」 

 日本人特有の理念・道徳規範を「大和心」という。 

 人類の歴史を見ると、日本以外の地域や国々では、いくつもの王朝やその他の勢力による統一と分裂、他民族による侵略と支配、革命による王朝の転覆と権力の奪取などにより栄枯盛衰を繰り返してきた。これに対し、日本人は一系の天皇のもとに安定した社会と固有の文化・文明を築き、長い歴史と伝統、美しい国柄を喜びとして睦(むつ)み和(やわ)らぎ、徳を高め、勤め励んで平和で道義的な国家を維持してきた。 

 「大和心」は、こうした日本特有の歴史と社会に根ざした日本の精神文化の中枢であり、国を思う活動の源泉である。これによってあらゆる対外的圧迫を排除し、国難を克服するとともに外来文化を摂取同化して、今日に至る我国の生成発展をもたらしてきたのである。 

 古来、日本人は「純一」「至誠」や「高潔」「無我」といった精神的な美徳を、春夏秋冬ゆるぎなくそびえ立つ霊峰富士と、陽光うららかな春に万朶(ばんだ)の雲のように咲き誇り、閑然と散りゆく桜の花に重ね合わせ、自らの限りある人生もそのようにありたいと考えてきた。特に武人にあっては、不義に生きるよりも死して義を取り、恥を知り、名を惜しみ、責任を重んじて艱苦(かんく)に堪え、奮(ふる)って国難におもむき、よろこんで任務にたおれることを「大和心」の真髄として尊重してきた。この精神がやがて「武士道」という形で昇華され、祖先から子孫へと受け継がれていった。このように、大和心と武士道は「一致不可分のもの」なのである。 

▽「武士道」は人間が作り上げた最高の理性 

 武士道の本質は遠く神代に淵源(えんげん)しており、建国当初から武人たちの道徳律として存在し、日本人の国民道徳の核心を形成してきた。古くは古事記・日本書紀に登場する「天ノ瓊矛(ぬぼこ)」が国土創造の神聖なる武器として尚武(しょうぶ)の国民性の発露、武士道の発芽を表現しており、奈良時代における武人にして歌人であった大伴家持(おおとものやかもち)の一首 

  「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、 

     大君の辺にこそ死なめのどには死なじ」 

 等もその気概が顕現された一端である。これらは、古代から我が国の武人が忠誠心に厚く、至誠と勇気に満ちあふれていたことを如実に物語るものである。しかもこうした武人は武勇を尚び、名誉を重んじ、廉恥を知り、家門家訓を貴び、本務を尽くす等の先天的要素を具備していた。又、家伝とされた「家名を汚さざること」「負けじ魂」「武器の尊重、愛護」の思想(「もののふの道」「ますらをの道」と呼ばれた)も、古来から既に大伴氏や物部氏などで重んじられていた。 

 鎌倉時代になって武家政権が成立し、武士、武家といった階層が確立されるようになると、これらの精神は、「兵(つはもの)の道」「弓矢の道」等と称されて大いに勃興し、躍進を遂げた。さらに戦国時代になると、武人の道は「侍道」「武士の道」等と呼ばれるようになった。 

 武士階級が喪失した明治以降も、日本軍人らは武士道精神を受け継ぎ、近代戦場において軍律厳しく整然と戦った。また、明治時代に「武士道」は、「ノーブレス・オプリージュ(高き身分の者に伴う義務)」として軍人のみならず広く指導者層に普及し、実践されたことにより、その理性的行動があらゆる面で海外からの賞賛を得たのであった。 

 「武士道」こそは人間が作り上げた最高の理性なのである。 

(「日本人の精神と武士道」終り)

2013/3/1