兵制の変革と武人の特質(氏族制度時代)
▽ 通 説 

 我が国の兵制が古代から時代とともに推移してきた経緯は、国運の消長や大和心の盛衰と密接な因果関係を有し、それぞれの時代の武人の特質を形成するとともに、軍の統帥に甚大な影響を及ぼしてきた。特に平和な時代が続いて太平の世に慣れてくると、庶民のみならず武人の精神や行動もことごとく戦(いくさ)から縁遠くなり、離背していった。 

▽ 氏族制度時代の兵制 

 神武天皇に始まる天皇自ら軍を統率された上古の時代は祭政一致の時代であり、皇命に従わないものがある時は、天皇や皇族による親征となり、時としてその指揮を臣下に委ねられた。当時軍務に従事し、天皇の親衛たる地位にあったのは、久米、大伴、物部の三氏とされていた。 

 この時代には、神武天皇の東征を初めとして四道将軍の派遣、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征西討、また神功皇后の三韓征伐などがあり、国威は大いに振っていた。北陸・東海・西道・丹波に派遣された四方の皇族将軍は、辺境をわずか七ヶ月以内で平定し、日本武尊は武勇と智謀をもって化外の蛮族を鎮められ、また神功皇后の偉功は我が国の威武を海外にまで振われた。このように軍の統帥は極めて良好なものであったが、軍職を管掌していた名族の久米氏が先ず衰え、大伴、物部の二氏が軍務のみならず政務にまで関与するようになると、相互の対立から部隊を私兵として用いるようになり、軍の統帥における一大汚点を残す結果をもたらした。 

▽ 氏族制度時代における武人の特質 

 この時代の武人は神武天皇の東征からまだ日が浅く、建国の精神が徹底されていて、忠孝(君臣の義、親子の情)の二義が深く浸透しており、武人の忠誠心は高く、勇武に満ち溢れていた。例えば、垂仁天皇の時代(BC29〜AC70年)、田道間守と称する者が病に伏す帝のために万里の波涛(はとう)を越えて極めて希少な薬草を捜し求めて帰ってきたが、帝は既に崩御されていた。間守は御陵にて三昼夜にわたり慟哭(どうこく)し、遂に絶息してその至誠を表わした。 

 また、欽明天皇の時代(539〜571年)には、伊企儺(いきな)軍に敗れて新羅に捕われた日本軍が、忠節を守って黙秘し、全員が死んだこともあった。

2013/3/16