兵制の変革と武人の特質(律令時代)
▽ 律令時代の兵制 

 大化の改新(645年)により専横を極めた蘇我氏一族が滅亡すると、氏族制度の専門職が廃止されて朝廷が直接兵権を握った。朝廷は全国皆兵の制をしくとともに、武器・糧食を貯蔵して有事に備えた。天智天皇の時代(668〜671年)には防人、烽火(のろし)を対馬、壱岐、筑紫に設置し、天武天皇(御代673〜686年)は兵力をもって天下を得られてからも常に軍事に心を用いられ、兵政官を置いて皇族をその長官とし、諸国に派遣して積極的に軍事訓練を実施させるとともに、歩兵と騎兵の二種を設置された。 

 持統天皇(御代690〜697年)もまた全国男子の四分の一を徴兵して訓練するよう命ぜられ、文武天皇(御代697〜707年)が養老令を発令された時点において我が国の兵制は最も良く整備されたといわれている。 

 養老令によれば、兵制は唐の制度の短所を補って長所を採用したもので、兵部省があって軍務を総括し、徴兵の法を行い、かつ軍隊も軍団制〔五衛府(後に六衛府となる)及び大宰府の編成〕とし、衛府及び太宰府は省外に独立した官府とした。衛府は宮城の警備を所掌し、太宰府は九州、壱岐、対馬を管轄し、外国との関係を処理する等、西方の防衛警備に任じた。 

 聖武天皇の時代(724〜749年)には、大野東人を鎮守府将軍に任命して東北を鎮定させ、また桓武天皇の時代(781〜806年)には坂上田村磨らをして東夷を平定せしめられた。この時代においては軍隊の統率が天皇に直属している関係上、軍の統帥指揮は極めて良好であった。 

▽ 律令時代における武人の特質 

 この時代の武人は氏族制度時代の伝統を踏襲(とうしゅう)し、その忠誠心や武勇を尚(たっと)ぶ気風は前代に比してほとんど遜色がない。例えば持統天皇の時代、捕虜となった筑紫の一兵士・大伴部博麻(おおともべのはかま)が、唐の謀略を知ってそれを報告するため、自ら身を売った金で他の捕虜を使者としたように、一介の兵士でも強烈な忠誠心や憂国の志があった。また、坂上田村磨は剛肝英武にして、幾度も東夷を征伐して偉功があったが、没後その遺骸を葬(ほおむ)り将軍塚を造ると、凶変が起こる毎にこの塚が鳴り動いて予めこれを警告したように、死してなお忠烈の士であった。 

 また、宇多天皇の時代(御代887〜897年)に新羅の賊が対馬を襲ったが、国守であった文室美友(ふみむろよしとも)は、「箭(や)を額に植うるものは賞あらん、背に被るものは誅す(敵の矢を額に受けた者は賞を与え、背中に受けた者は処罰する)」との命令を発している。当時は、藤原氏が浮華文弱を風靡(ふうび)しようとしていた時代であったにもかかわらず、武人にはこのような忠勇義烈の精神が漲(みなぎ)っていたのである。

2013/3/16