兵制の変革と武人の特質(地方豪族(地主)の集権時代)
▽ 律令兵制の時代的変遷 

 律令時代に隋や唐から多くの文化や制度を取り入れた中で、「兵は不祥の器なり(老子)」というように武器を持って直接戦う者を殺戮的で不吉な者として扱うシナ思想が混入したことは、その後の兵役制度に少なからぬ悪影響をもたらした。 

律令の兵制においては、三十ある官位のうち八位以上の位階にあるものは兵役を含むあらゆる課役を免除されていた。このため、兵役の義務を負うのは低級位階の者、若しくは一般庶民に限られた。しかも兵士の糧食や弓箭(せん)・刀矛等の武器は自弁であったため、相当の資産があるものでなければ兵役の義務を完全に果たすことができず、貧民の中から召集されたものの多くは悲惨な境遇に陥(おちい)ることとなった。又、中流階級以上の者が「代役」の法を執れるようになってからは、益々兵士の品位が低下することとなった。 

 次いで歳月を経るに従い、軍団の兵はことごとく貧弱になっていった。天平時代(729〜749年)においては陸奥、出羽、越後、長門及び太宰府管内等の国防上特に警備を要する地方以外は、当分の間諸国の兵士を廃止するようになり、その後、延暦(えんりゃく)年間(782〜806年)には辺境以外の全国の兵士を廃止した。光仁天皇(御代770〜781年)は、ある程度の富を有する百姓にして才があり、弓馬に堪えられる者のみを選抜して兵にさせ、ここに兵農が分立した。 

 嵯峨天皇(さがてんのう)の時代(809〜823年)には軍団の兵も廃(すた)れて諸所の警備に欠乏を生じてきたことから、新たに検非違使(けびいし)を置いてこれを補ったが、その弊害は甚しく、諸国で一斉に豪族が起った。豪族はその子弟や従僕を養って私兵とし、これを家の子、郎党、又は家人と称して互いに弓馬により雌雄を争うようになり、兵馬の権(軍の統帥権)は逐次地方豪族に移っていくようになった。 

 天長年間(824〜834年)、太宰府の上奏により兵士を廃止して選士とし、天慶(てんぎょう)年間(938〜947年)には荘園から兵士を召集し始めた。当時、荘園を知行していた全ての神社仏閣もこれに準じて兵士を荘園から召集し、権益を守るための闘争手段とした。このため、僧兵がいたるところで横行し、放火や殺りくを悉(ほしいまま)にする等、ここにおいて兵馬の権は全く朝廷の手を離れた。このような状況から、京都には盗賊が横行し、地方には叛徒(はんと)が出てきたが、これらを平討できない状態となってしまった。 

 この時代における地方の地主はその所領を保全する方法として家の子郎党を養い、武を練る一方で、中央の権門勢家と結びついて国司を抑圧することに努めていたが、偶然に源平二氏の武家と接触することになった。もともと地方地主を田舎人と侮蔑していた権門勢家と比べて、源平二氏が自分たちをよく理解し、同情心に富んだ武家であることを発見した地方地主たちは、自らの所領を寄付して従属関係を結ぶようになった。こうして、武家が京(中央)から征伐の命令を受けた場合には、地方地主がその家の子郎党を率いて武家に従い、死生を共にするようになった。これらが、当時「武者」又は「武勇の輩(やから)」と称していた武士である。 

 すなわち、この武家と武士との関係とは、地主である武士が当時の兵制により自らの所領に課せられる兵役を武家に向けて捧げたものに外ならない。平家がその最盛期を迎えていた時には、全国地頭のほとんど全てがその家人であったと云われているが、これは彼等の従属関係が所領に立脚していたことを示すものであり、頼朝の武家執政時代とは少々その趣を異にするところである。 

 この時代、後三年の役(1083〜1087年)において源義家が私財をもって部下の労を慰め、論功を賞したことや、保元・平治の乱(1156〜1160年)に源平二氏が骨肉相食み、鎬(しのぎ)を削り合ったこと、あるいは保元の乱における為朝らの献策が藤原頼長によって拒否されたこと等は、氏族制度時代や律令時代に見られた理想的な軍隊の統率、統帥や武人の在り方からすれば、明らかに歪んだ社会的事象の一端が現われたものである。 

▽ 地方豪族の集権時代における武人の特質 

 この時代の初期には藤原氏が政権を掌握し、優雅にして軟弱な貴族的風潮が蔓延する一方、中央では武人としての気風が衰え、唯一地方豪族によってのみ古代武人の剛健忠誠の風潮が継承されていたに過ぎなかった。しかし天慶(てんぎょう)の乱(939〜941年、瀬戸内海で起きた藤原純友による乱)から前九年の役(1051〜1062年)、後三年の役(1083〜1087年)を経ると、逐次本来の武人の面目に還元しようという動きが生じ、又、軍中においても温雅にして優美な貴族的風潮が一部に取り込まれるようになると、むしろ神仏を信仰する念が深まり、勇武の外に慈悲や敬虔(けいけん)の念を著しく高め、廉恥を重んじ名節を励む風潮さえも生じるようになった。 

 この時代末期には源氏が衰えて平家が栄えたが、権力を独占した平清盛の倣慢不遜(ごうまんふそん)が遂にその絶頂に達するようになると、古代から武人が朝廷への忠勤に励んできた風潮は一時その姿を潜め、武人は朝廷から指揮を受ける機会を失い、自らが地域社会の運営に当たらなければならなくなったのである。

2013/3/16