兵制の変革と武人の特質(武家執政時代)
▽ 武家執政時代における兵制の変遷 

 武家執政時代とは、鎌倉幕府の開設に始まり幕末維新に至るまでの武家が実権を握った時代である。1192年、源頼朝は征夷大将軍に補せられると全国の土地管理を断行し、自らの配下にある全ての武士(いわゆる「御家人」)を地頭とし、自ら武士の棟梁として「兵馬の権(=軍の統帥権)」を掌握した。それ以来、江戸幕府が滅亡するまでの約七百年間にわたり、ほとんど征夷府(征夷大将軍を頂点とする政府)が政権を掌握し、朝廷は従属的、形式的な存在となった。つまり、この時代には将軍の下に大名があり、大名の下に家人があるという「封建制度」が形成され、軍職は全て武士の私権に帰したのであった。 

 全国の治安維持の責任を一手に掌握した源頼朝は、皇居や院などの警備に当たる職務(これを「京都大番役」という)をはじめとする兵役の一切を御家人の義務として、御家人以外の武士(いわゆる「非御家人」)を排除した。このことは当時の兵制上大きな欠陥をまねくことになり、後に蒙古が来襲するに及んで北条氏は勅裁(=天皇の決裁)を仰いで非御家人をも北条氏の指揮下に移し、挙国一致して国難に当たろうとした。この時は、非御家人もまた平素の恩怨を忘れてこれに協力したことで国難を一掃することができた。 

 後醍醐天皇の時代(御代1318〜1339年)には、楠木正成の誠忠と武略により鎌倉幕府が滅んで「建武の中興」が成し遂げられたが、足利尊氏の叛逆によって再び政権と兵権の両方が武門の手に帰し、そのまま室町時代となる。 

 その後、応仁の乱(1467年)において「足軽」という土民兵の勢力を加えたことは、兵制上の一大変化であった。当時の戦闘は、それまでのような野戦や攻城が行われることもなく、夜陰に乗じて敵陣に闖入(ちんにゅう)し、火を放って奇襲するのを常套(じょうとう)手段としていた。正規の武士たちは本陣の中に隠れて動かず、当時の社会の乱脈に応じて自衛上の必要から発達しつつあった土民兵を多用するようになった。ここにおいて土民兵と武士とはほとんどその区別がつかなくなり、武士の勢力が失墜するのに反比例して土民兵の勢力が増長し、武士の兵力不足の欠陥はこれをもって補われるようになった。 

 しかし、このような状態は長続きすることなく戦国時代が到来した。この時代には、中部地方を中心に全国で有力な武士たちが天下統一を目指して治乱興亡を繰り返したが、関ヶ原の合戦(1600年)の後、江戸幕府が開設(1603年)されるに至った。徳川氏はその兵制を極度に拡充して武士階級の地位を確立し、農民や町人の階級はただ武士を扶養するための存在に止められた。 

 幕末の文久元(1861)年、江戸幕府はオランダ式を取り入れた新たな陸軍の編成を試み、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵奉行等を設け、かつ伝習生をオランダに派遣し、慶應年間(1865〜1868年)にはフランスから将校を招聘(しょうへい)する等、西洋式の軍制を採用した。諸侯もこれに倣(なら)い、戊申の役においては南西諸藩の洋式軍隊と東北諸藩の旧式軍隊の戦闘によりその優劣を如実に示した。 

▽ 武家執政時代における武士の特質 

1 鎌倉時代 

 この時代の武士(御家人)たちは農村を本拠地とし、開墾した私有地の領主として農業を営むとともに、地頭として荘園の管理や年貢の取り立てを代行し、土地や農民を支配していた。そして、いざという時には一族が集まり、惣領(一族の長)を中心に郎党(家来)をひきいて鎌倉へと駆けつけた。このため、ふだんの生活から戦場を意識した厳しい生活態度を保ち、武芸の訓練に励んでいた。 

 武人の間には豪壮勇健にして、恩義を重んじ、廉恥を守り、名節を貴び、死を視ること帰するが如く、誓って辱(はずかし)めを受けず、法罰が未だ加えられなくとも自ら刃に伏すといった気概が見られた。 

 この時代における名節とは、自分を扶持する主家に対するものであり、卑怯未練の働きをして命を惜しみ武士の面目を汚してはならないという意味であった。素朴剛健、かつ志操堅固にして、己一身の利益の為に動くことを拒絶するという面では、古代武人の面目が更に研ぎ澄まされて拡充されたものである。又、仏教が庶民の信仰として根付いたこの時代から武人は神仏信仰の念が厚くなり、質素・朴訥(ぼくとつ)にして勇を好むことを美徳とするようになった。 

2 南北朝時代 

 この時代の武士は意気を重んじ、節義を貴び、廉恥を知り、己の名を恥かしめないことに励み、多くの禅法を究め、この短い生命をもって意義ある人生に処するという風潮があった。特に「楠木正成の誠忠」により節操と義烈とを当時の武士の心に刻みつけ、天皇という至尊の御存在を天下に知らしめた。しかしながら、当時の公家社会は武士の存在を軽んじ、武家政治を破滅させるという危慎を武士に抱せたことから逆賊の乗ずる所となり、後醍醐天皇により一時的に中興した親政もたちまちにして覆滅されてしまった。 

 その後、南北両朝に対する服従と背反を繰り返す非道の武士を始めとし、足利氏の下に集まる諸将の中には私利私欲の為に君父を売るような破徳の輩が現出するまでに至り、武士道が劣化してゆく兆(きざ)しが見られた。 

3 室町時代 

 足利義満、義政らの驕奢(きょうしゃ)に見られるように、この時代は都の軽佻浮薄の風潮に感化され、南北朝末期に発芽していた武士の無節操は益々ひどくなっていった。媚びを売り阿諛(あゆ)するだけの奴輩が群がり出る一方、世を憂い、国を慨嘆(がいたん)する士は現れなかった。人は皆、我意の赴く(おもむ)くまま恩義を忘れ、掠奪(りゃくだつ)盗心が世の中に浸透し、内輪の争いが常に絶えることなく、末世下剋上の風潮が起こり、士風は著しく劣化していた。 

4 戦国時代 

 応仁の乱直後(戦国時代頭初)においては群雄が四方に割拠し、天下は麻の如く乱れた。このため、社会の秩序は乱れに乱れ、道義心は失われ、弱肉強食、優勝劣敗の巷(ちまた)に立ち、人はただ自己の利害を思うだけで眼中に国家や社会は無く、父子相互に裏切り、兄弟がせめぎ合う状態であった。しかし、逐次秩序が回復されるとともに我国伝統の大和心の精華である名節を重んじる風潮が台頭し、次いで廉恥、節操、剛勇の観念が著しく発達し、常に臆病者と軽侮されないことに留意し、危難に臨んでは一切の私情を抑制して勇進するという風をも惹起(じゃっき)された。 

 孫子兵法の影響を強く受けていた戦国時代の武士は、源平時代の武士に比べると、高潔な志操や優雅な振舞いにおいて明らかに劣っている一方で、権謀、術策を多く用い、蛮勇猪突よりも外交的手腕により機先を制し、戦わずして勝ちを得ようとする風潮が著しく発達している。それでも西欧諸国や明による間接侵略の危機を察知した豊臣秀吉を初めとする武将たちに勤皇心が勃興したことは、武士気質の変遷として注目に値する。 

5 江戸時代 

 徳川幕府が開設されて戦乱の時代から太平の世に入り、かつての戦国武士の気質である豪壮剛健の風は減退し、朱子学に基づいた知識を重視する風潮が著しく発達した。つまり、配下の軍勢を叱咤(しった)して敵城を攻略する武将や、槍先きをもって功名を誇った武士は姿を消し、武士の多くは中央で国政を司り、あるいは地方で民を治める政治家や官吏と化していった。こうして豪放敢勇の気性は衰えたが、廉潔、節義の風潮はむしろ重んじられるようになった。 

 さらにこの時代を細別すると、江戸時代の前期には、なお戦国の遺風を受けて豪壮を尊重し、武芸を尚び優美を排し、己一身の利に走ることを恥とし、廉潔を重んじ、驕奢を慎み、勤倹を尚び、忠誠潔白にして礼譲に富んでいる。 

 しかし、江戸時代の中期には文学が勃興し、博学な智者が尊重されるとともに、浮華軽薄が上下に浸透して武士道が衰頽(すいたい)した。この時期、武人の多くは、娯楽や博打にうつつを抜かし、高名や手柄を求め、浄瑠璃の軍談に耽(ふけ)り、大刀の太さ、細さや華美を競い合う「優美で温柔な元禄武士」と化していた。こうした惰気に昏睡しかけていた武士たちにとって、赤穂義士の快挙は青天の霹靂(へきれき)であり、本来武士はかくあるべしとの思いを強く抱かせた。 

 そして、江戸時代の後期においては、中期に引き続き大名や侍(役人)が腐敗する一方で、日本近海に外国船が出没するに至って心ある武士に憂憤の気が激発し、微力を君国の為に尽くそうとする志士を世に多く輩出した。また、幕府の要職にある者にもこの思いが強かったことから、「清廉にして節義を尚び、倹素にして武備あり、仁侠にして情操に富む」といった徳川武士の本領を発揮しようとする風潮が広まった。 

6 幕末維新期 

 幕末に活躍した「志士」とは政治に干与した公卿(くぎょう)や武士のみならず、僧侶、商人、農民、学者等のあらゆる階級を含む、勇気と信念を持って国事に奔走(ほんそう)した人士のことである。これら忠君愛国の思いを持つ一片の士は、輿論(よろん)が盛り上がるに従い尊皇、攘夷、開国、討幕のためその身命をなげうつ意思を一層確固たるものにした。この志士たちは古武士に比べると多少謀(はかりごと)を画策したところはあるが、その節義は優れ、志操は堅確であり、気慨の熱烈さに至っては前代未聞とさえ言えるものである。

2013/3/22