古の武人たちの歌
▽ 大伴家持(おおとものやかもち)の歌(『万葉集』から) 

  剣太刀(つるぎたち) いよよ研ぐべし 古(いにしへ)ゆ 

   清(さやけ)く負ひて 来にしその名ぞ 

            (『万葉集』巻二十・四四六七) 

(現代語訳)武人の魂である剣太刀をいよいよ研がねばならない。我らは太古の昔から清く明けき心をもって天皇の御親衛という務めを負ってきた大伴氏である。剣太刀を研ぐということは、神代以来の名誉と責任を自覚し、武門の家名を磨くことでもあるのだから。 

  大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み 

            (『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」より抜粋) 

  (現代語訳)我ら大伴氏の遠い神代の祖先の名を銘記せよ。久米氏の軍勢を配下に率いて天皇の御親衛という誉れ高き務めを負ってきた官職であればこそ、次のような誓を立てたのである。 

  海行かば 水漬く屍 

  山行かば 草生す屍 

  大君の 辺にこそ死なめ 

  かへり見は せじ 

 我々は、こうした丈夫(ますらお)の清く明けきその名を太古の昔から今現在にまで伝えて来た祖先の末裔(まつえい)である。大伴氏と佐伯氏は、人代の祖先が「子孫は祖先の名を絶やさない」という誓いを立て、「大君(天皇)に服従するものである」と言い継いできた官職なのだから、そうした言葉に恥ずかしくないようにせよ。梓(あずさ)弓を手に取り持ち、剣太刀を腰に佩(お)びて、「朝の守りも夕の守りも、大君の御門の守りこそは、我らをおいて他に代わる人は無いのだ」と心に誓えば、その思いはますます奮い立つ。恐れ多くも大君の詔(みことのり)を拝聴すれば、誠に尊くも有り難いことである。 

【解説】これらの歌は、奈良朝末期の貴族・大伴家持(718年〜785年)が、久米氏とともに我が国における武人の遠祖であった名門・大伴氏の名を曇らすことがないようにせよと一族に訴えたものである。中央と地方の諸官を歴任し、晩年は中納言・東宮太夫にまでなった家持であるが、藤原氏の権勢が強まるに中にあって藤原氏暗殺計画への関与を疑われ、薩摩に左遷されたり、一時的に解任されて都を追放されるといった苦難に満ちた人生ながらも、その生涯を通じて神ながらの日本の伝統精神を守ろうとした。 

 大伴家持は、天孫降臨に供奉した天忍日命(アメノオシヒノミコト)より伝わる武人の魂を、剣太刀を研きながら自らの心に清らかさ・明らかさを磨きだすことにより末永く保持させようとしたのである。剣太刀という「武器」は、人を斬り殺す道具であるとともに、邪悪・穢れを祓い、清明さを回復する神聖なものでもある。この思想こそが、後の世においても刀が「武士の魂」として尊ばれ、名誉・誇りの象徴とされてきた原点であった。武士には魂の籠(こ)もった刀を身に帯びるのにふさわしい人格が求められたのであり、それを後々まで伝えようとしたものこそが、いわゆる「武士道」である。 

 研ぎ澄まされた日本刀は、単なる「武器」を超えて、その発する光も姿形も清らかで気高く美しい。しかも、その切れ味は世界中の刀剣でこれに及ぶものがない。こうした日本刀を見ると身も心も引き締まる思いがするのであるが、ここに日本の「武」の本質がある。

2013/3/30