戦国島津家の家訓 解 説
(解説) 

 いろは歌の作者である島津忠良、出家名日新斉は、戦国大名島津家の初代として、鹿児島の戦国期に大きな役割を果たした武将にして政治家であった。 

1 戦国大名島津家の誕生 

 忠良は、1492(明応元)年、薩摩国伊作城の城主で薩摩国守護の島津家分家である伊作善久と、新納是久の娘常盤(ときわ)(梅窓院)の長男として生まれた。三歳のとき父善久は家臣に斬殺されたが、祖父の久逸(ひさいち)と母の助けで伊作郷の一領主に過ぎない家名を維持した。忠良は幼いときから伊作海蔵院の頼増和尚(よりますおしょう)に預けられ、そこで厳しい躾を受けて教育された。 

 1506(永正3)年十四歳で伊作家に戻って後継者となり、新納忠澄の薫育(くんいく)を受けた。後に母が伊作に隣接する田布施(たぶせ)城城主で、同じ島津分家である相州家の運久(かずひさ)と再婚し、忠良は運久の養子として田布施城に移った。 

 1511(永正9)年に運久が引退して家督を継いだ忠良は、相模守を称して、相州家の所領である田布施、高橋、阿多を領することになり、本領伊作と合わせた四か郷の領主として、島津家の分家のなかでも有力な存在となった。 

 1519(永正16)年、守護となった本家の島津勝久は、統率力に欠け、薩摩国の経営どころか、本城である清水城の維持さえも困難であった。当時は薩州家(出水(いずみ)城主、島津分家)の実久や国衆(くにしゆう)の入来院(いりきいん)氏らが力を蓄えつつあり、忠良もそれに互する実力を有していた。分家が本家をしのいで行くという下克上の風潮が、戦国時代の鹿児島にも見られるようになったのである。 

 1526(大永6)年、忠良は、人望があり英明であった十二歳の長男貴久を勝久の後継者に推(お)し、勝久はこれを受け入れた。こうして忠良の子、貴久は 守護島津家の後継者になった。しかし貴久が鹿児島に居を移した翌年、これを妬(ねた)んだ薩州家の実久による襲撃を受け、夜逃げ同然の姿で鹿児島を退いたことから、忠良・貴久父子と実久、勝久の三者の軋轢(あつれき)は激化した。 

 忠良・貴久父子は各地の農民も含めた新しい家臣団を組織し、優れた戦略と戦術とを織り交ぜて島津本家、実久の分家、国衆といった敵対勢力を実力でおさえた。こうして1550(天文19)年、清水城に代わる新たな内城を築き、自らの家臣団により実久、勝久らを追放して、薩摩半島を主とする戦国領国を経営するようになった。ここに戦国大名「島津家」が生まれた。 

 五十八歳の忠良は、これを機に加世田(鹿児島県加世田市)に隠居し、これ以後はもっぱ専(もっぱ)ら貴久が薩摩・大隅(おおすみ)・日向(ひょうが)の国衆の組織化に努め、合戦を指揮した。 

2 子孫と家臣団への精神教育としての「いろは歌」 

 忠良は四十五歳のときから桂庵禅師(けいあんぜんじ)の高弟舜田、その弟子舜有を師として儒学を学んでいた。忠良は戦国大名でありながら、神道・儒教・仏教を合わせた宗教観を持ち、子の貴久らに常々政治指導者としての心得を説き、また家臣を島津家に結束させるための精神教育を熱心に行った。 

 1546(天文15)年、既に急速に増大化していた家臣団の指導と教育を徹底するため、家臣団としての規範を理解しやすく、覚えやすいように、いろは順の歌にした。この「いろは歌」は、戦国島津家の家臣団に加えて、その後近世の薩摩藩家臣団の精神鍛錬の場である郷中教育でも重視され尊重されて、藩士の基本理念の普及に大きく貢献した。 

 1550(天文19)年、引退して剃髪(ていはつ)し、愚谷(ぐこく)軒日新斉または梅岳常潤在家菩薩と号した忠良は、貴久が鹿児島に入城した二年後の1552(天文21)年、無辺の大願を成就するためにと生きながら葬式を出す生茶毘往生(だびおうじょう)を企て、日時を定めて用意した。子貴久と家臣たちの諫言(かんげん)で実行は思い留まったが、空の厨子(ずし)を火葬し供養の施行をした。この時家臣たちは、忠良に島津家繁栄のために忠誠をつくすことを誓った。忠良が家臣を島津家に結束させようとの企ては、この生茶毘往生の誓いで大きく前進した。 

 又、忠良は隠居後、戦没者を敵味方にかかわらず供養するために、加世田に六地蔵塔を建てている。即ち引退後の忠良は戦国大名島津家の初代としての働きを消し去り、専ら神儒仏を統合した偉大な宗教家として知られるように自分から意図した。そのことが、貴久以降の戦国島津氏の働きを多くの人に印象付けることになり、また家臣団教化に有効だと考えたのである。 

 こうして自らをカリスマ的存在に仕立て上げたことも、「いろは歌」が島津家の家臣団にとって精神的な支柱となるのに大いに役立った。 

 1568(永禄11)年、忠良は加世田の地で七十六歳にして永眠した。 

(「戦国島津家の家訓 解 説」終り)

2013/4/12