宮本武蔵 『独行道』
▽ はじめに 

 戦国時代から江戸時代への移行期をひたすら剣の道に生きた武芸者・宮本武蔵は、一切の甘え捨て、厳しい稽古と命懸けの決闘を通じて剣術の奥義を窮(きわ)めた。 

 武蔵は、晩年になって自らの生涯を振り返り、『五輪書』『兵法三十五箇条』『独行道』といった書物を遺した。それらの中から、二刀流の達人・武蔵の人生観や哲学を語ったものを選んでみた。 

 なお、ここに出てくる「兵法」とは、個人の武芸に重きを置くものであり、このような場合は「へいほう」ではなく「ひょうほう」と読む。 

  

▽ 「剣豪」への道 ― 勝負に明け暮れた日々(『五輪書』冒頭から) 

 私は少年のころから兵法の道を求め、十三歳になって初めて勝負をした。相手は新当流の有馬喜兵衛(ありまきへい)という兵法者で、これにうち勝ってから、次に十六歳で、但馬国(たじまのくに)の秋山という強力の(ごうりき)の兵法者にうち勝ち、二十一歳で都にのぼり、天下の兵法者(吉岡一門をさす)と数度の勝負をしたが、いずれも勝った。その後、多くの国をめぐって、いろいろな流派の兵法者に会い、六十数回の勝負をしたが、一度も敗れたことがない。その期間は、十三歳のときから二十八、九歳までのことである。 

 (中略) 

 このように勝ち続けたのは、とくに兵法が優れていたからではない。生まれつきの天分もあったかもしれないが、自然のことわりに背かなかったからか、あるいは相手のわざが不足していたためである。 

【解説】戦国武士たちの思想は、いかに勇猛果敢に「戦場の華」として散るか、命よりその誉れが重要なことであり、生き恥をさらしたくないというものであった。この思想はやがて武士道における「名誉」という徳目へと昇華していく。この戦国時代は“天下分け目”の関ヶ原合戦をもって終結する。 

 この時、十七歳の宮本武蔵は、武勲を立てて名だたる大名に仕官するという夢を抱いて関ヶ原に西軍(豊臣側)の足軽として加わったが、豊臣側が負けたために仕官の道は途絶え、浪人して再起を賭けた。 

 さしたる武門の出ではないことから、関ヶ原では足軽として“実力不相応”の扱いを受けた武蔵は、諸国をさすらいながら「侍(さむらい)になって出世を望むより、しっかりと武芸を磨いて、天下に名をあげよう」との決意を固めたのであった。 

  

▽ 「剣聖」への道 ― 広い心で真実を見きわめる(『五輪書』地之巻から) 

 兵法を学ぼうと思う人は、道をふみ行うやり方がある。 

 第一に、常に、正しくあり、道理をはずれないこと。 

 第二に、常に、自分の道を鍛練すること。 

 第三に、常に、諸芸にたずさわること。 

 第四に、様々な職業の道を知っておくこと。 

 第五に、物毎(ごと)の損得(そんとく)をわきまえること。 

 第六に、あらゆる事において先を見通して動き、考えること。 

 第七に、目に見えないところを悟って知ること。 

 第八に、わずかな事にも気をつけること。 

 第九に、役にたたない事はしないこと。 

【解説】二十九歳で巌流島に佐々木小次郎を倒した武蔵は、大阪冬の陣、夏の陣に浪人隊を率いて豊臣側で参戦(三十一歳)、そして島原の乱にも養子の宮本伊織とともに鎮圧軍として参戦するが、足を負傷して手柄を立てられなかった。(五十五歳) 

 寛永十七(1640)年、武蔵は熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、禄高三百俵の大番組格となる。(五十七歳) 

 熊本において生まれて初めて心の安らぐ平穏な日々を迎えた武蔵は、戦いに明け暮れた自分の人生を振り返りながら、武術の奥義を『五輪書』に書き遺した。(六十歳から六十二歳)この書は、朝鍛夕錬の稽古(不断の努力)の大切さについて説くもので、地之巻、水之巻、火之巻、風之巻、空之巻からなる。 

  

▽ 『独行道』(原文のまま) 

 一、世々の道にそむく事なし 

 一、身にたのしみをたくまず 

 一、よろずに依怙(えこ)の心なし 

  (注)依怙:一方をひいきにしたり、頼ったりすること 

 一、身をあさく思い、世をふかく思ふ 

 一、一生の間よくしん(欲心)思はず 

 一、我事(われこと)において後悔せず 

 一、善悪に他をねたむ心なし 

 一、いづれの道にも、わかれをかなしまず 

 一、自他共にうらみかこつ心なし 

 一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこころなし 

 一、物毎にすき(数奇)このむ事なし 

 一、私宅においてのぞむ心なし 

 一、身ひとつに美食をこのまず 

 一、末々代物(しろもの)なる古き道具所持せず 

 一、わが身にいたり物いみする事なし 

 一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず 

 一、道においては、死をいとはず思ふ 

 一、老身に財宝所領もちゆる心なし 

 一、神仏は貴し、神仏をたのまず 

 一、身を捨てても名利はすてず 

 一、常に兵法の道をはなれず 

  

    正保弐年五月十二日 

                新免武蔵 

                  玄信(在判) 

【解説】『独行道』とは、「独り我が道を行く」ということで、ひたすらおのれの力だけを信じた宮本武蔵ならではの「自省自戒の書」である。この中には孤高の求道者として生きた武蔵の処世訓が二十一ヵ条で述べられているが、これらは武士道の基本となる「己を磨く」という徳に通じる見事なまでの武士道精神である。 

 この書を執筆した一週間後の正保二(1645)年五月十八日、剣聖・宮本武蔵は、熊本城下の自宅で眠るようにして世を去った。享年六十二歳であった。 

  

 (「宮本武蔵『独行道』」終り)

2013/4/26