山鹿素行 『武教小学』
▽ はじめに 

 『武教小学』は、「武士が幼少から守るべき日常生活の規範」を説いた書物である。 

 山鹿流兵学の祖・山鹿素行が「武士の一人ひとりがいかにして自己を治めるか」について常日頃から述べていたことを、その弟子たちがまとめたものであり、序文と「夙起夜寐(しゅっきやび)」「燕 居(えんきょ)」「言語応対」など十の項目からなる。 

  

▽ 武教小学序 

 農業・工業・商業は、天下の三つの宝である。武士が農工商の働きもないのに、これら三民より上に位置づけられているのは、他でもない、自らの身を修め、心を正しくすることによって国を治め、天下を平和に保つからである。 

 しかしながら、世の中は遠い昔に優れた人や賢い人がいなくなり、人々が集まる所にも善人がおらず、誠の教えはありながらも実践されていない。そのため、武士の風俗は丈の短い服を着て髪を乱し、ひじを張り、肩をいからせて、すぐ刀に手を掛ける。あるいは、儒者はシナ風の丈の長い服装をして、丸暗記しただけの文章や漢詩を好んで「教え」としている。これらは皆、及ばざる者たちによる過誤であるが、情けなくてため息しか出てこない。 

 宋の朱子が『小学』を述作して、人が生まれて八歳から十四歳までに、床掃除、請けこたえや挨拶などの応対、節度ある立居振舞い、親を愛し、年長者を敬い、友と親しむという倫理をもって教え、その巻末には故人の名言や善人の行跡を紹介している。こうした先人の偉大な功績は大いに讃えられるべきである。 

 そうは言えども、風俗も時代を経ればことさらに変化するものであるが、日本人は(神代より武をもって教えてきたにもかかわらず)最も異国の書(儒書)に執着している。すなわち、日本という揺るぎない国に居ながら異国の習俗を慕い、礼儀を学ぶにも異風を用い、祭礼をなすにも異様を用いている。これらは皆、道理を究めていないことによる誤りである。 

 学問をするのは、物を格(ただ)して知を致す(執着せず、道理に徹して取捨選択し、今の世に適用させる)ためであって、異国の習俗を真似するためではない。ましてや、武士となるための道は、その習俗のほとんどを異国から学ぶ必要がない。日本の武の教えを幼児の時から習い、その習いが智恵と化し、心となるように目指したことこそが、先代の聖人たちの実体である。 

 山鹿先生がこの武教で説く垂戒(すいかい:教えや戒め)は、はなはだ明快なものである。先生の門下で武士道を学びたいと集まる者は、必ずこの教えをもって平生の戒めとすれば、その志が放逸(ほういつ)になることがない。(放逸=心が常に放れて、外物に奪われている状態) 

 知識を生かす資質に富んだ品格ある武士であれば、これらの教えは習う必要が無いかのように思えるが、しかし、俗人は教えも弛み、自ら異端に陥り、溺れやすい。これが人の心の危うさなのである。 

 武士は君主からの俸禄で食っていながら、三民の長という身分にある。その業をなすのに相応しい外形、行為、知識を正しくするように努めなければ、「天の賊民」である。これは、人として最も恥ずかしいこと、汗を流して恥ずべきことなのである。 

 この一篇は、山鹿素行先生のお言葉を集録し、編集したものであるが、先生の御意志ではない。全ては門弟子らの意志により『武教小学』と名付けて世に出すのである。 

 志も定まらず、知に暗い小人であっても、敬謙な気持ちでこの教えを受ければ、志士・仁人による助けを得るのと同じである。よくよく玩味し、忽(ゆるがせ)せにしてはならない。 

  明暦丙申八月門弟子等謹序題 

  

▽ 夙起夜寐(朝早く起きて、夜には寝る) 

 武士としての作法とは、朝早く起きて、手を洗い、口をすすぎ、髪をなでつけ、衣服を正し、用具(刀、扇、火打袋など)を身に付け、気勢を充実させて平静を保ち、君主への恩と父母への情を一つのものと捉えて、今日の為すべき家業(代々の職業)についておもんばかることである。そして、この身体は全て父母から受けたものであるから、それを大切にしてあえて損なわないのが「孝」の始まりであり、一人前の人となって為すべき道を務め行い、後世にその名を残すことによって、父母の誉れを世に顕(あらわ)すのが「孝」の終わりであることに思いをいたすのである。 

 その後、家事を示し、来客があれば面会し、君主に仕えるときは速やかに出仕し、父母の元に行くならば、機嫌を伺い、安否を察する。出仕したならば、自分の役職に専念して無責任なことは言わず、年長者や上位にある人は、父母のごとく敬い、謙虚な気持ちで人と争わない。 

 文の道をもって友と会合して互いの志を助け合い、そうした友を我が人格の形成に役立てる。自分にとって有益な人を友とし、知らない事を問うて教わり、よく信じあい、偽らず、そして、常に武士としての正義を思い、怠らない。こうしたことが、朋友と交わる道である。 

 仕官する者は、朝は人より先に出て、夕べは人より後に帰るようにせよ。帰宅後は、まず父母に逢って気持ちを平静に保ち、嬉しそうな声で父母を安堵させる。そして、暑くないか、寒くないか、体で具合の悪いところは無いかなどを問い、擦ったり掻いたりしてあげるのである。 

 それから、居間に入って席に着き、留守の間にあったことを問う。急いでやるべきことと緩やかにやればよいことを判断し、それに応じて事を行う。 

 今日なしたことを、よく我が身にかえりみて、過ちがあれば反省し、重ねてしないようにする。 

 暇があれば、古来からの書物などを見て、武士としての正しい道について考え、義と不義の行いを知る。 

 日がすでに没していれば、夜の警戒(防火や不測の事態への対処)をする。 

 寝間に入って、気を休め、体をくつろがせ、家に仕えている士卒・下人にも体を安んじて休ませるようにさせる。 

  

▽ 燕 居(一日中、自宅に居ること) 

 (古代シナでは)仕官の道は、四十歳になって初めて仕官をなせるようになると言い伝えられているが、日本においては、子孫の器量を考え、たとえ年が若くても出仕している。二十歳で元服し、初めて礼を学ぶという古代シナとは異なり、日本では若い頃から仕官の道を経て人を使うことができるのであり、異国の書伝とは異なり、ただその人の器量により、遅いか早いかがあるだけである。 

 武士は君主に仕えていても、役職に応じてそれなりの時間はある。さらに、不幸にして未だ仕官が叶わず、あるいは父母が早く死没したり遠く離れたりして、朝夕の勤務を得ることがなければ、尚更のこと一日中、自宅にいることが多い。それに対してその志が怠惰であり、家業を慎まなければ、人としての値打ちがなくなり、ほとんど鳥や獣と同然になる。 

 『大学』に書いてあることだが、小人(徳のない人)は、暇になると必ず不善をなし、悪事をなすものである。これゆえに、暇で静かにしている武士には、教えや戒めがなければならない。それらは、朝早く起きて、手を洗い、口をすすぎ、髪をなでつけ、など前章で詳しく述べたとおりである。 

 講座に出席して諸士と逢い、賓客と面談し、庭前にて馬を見て、馬に乗る。 

 早くに朝食をとる。辰の上刻(午前8時)を朝食の時として、手を洗い、口をすすいだ後に、剣術、弓射、鉄砲、槍を習う。これらは皆、骨節を整え、身体を正しくする手法である。そのため、師匠の元へ行き、又は師匠を招聘(しょうへい)し、鍛錬を怠ってはならない。久しく怠れば、手足が自由に動かず、骨節が相応じず、身体も軽さを失って馴れず、武士としての適格性を欠くことになる。なお、時間があれば書を読み、武義を論じ、兵法の講義に参加し、武器についてよく見て嗜(たしな)むようにせよ。 

 武士の志は、こうでなければならない。これらを守れば、その気も専ら武道一筋となって、他に向かうことも無い。そうであればこそ、心が放れて邪心を抱くようなことも無くなるのである。それゆえに、孟子も「人に常なる産無くば、すなわち常なる心無し(人が恒常的な産業(家業)に精励しなくなれば、常の心を失い、悪事に走るようになる)」と云うのである。 

  

▽ 言語応対 

 言語や相手に対する受けこたえは、その人の意志に従うところのものであり、戯れに言ったことでも、その人の思慮から出てきたものである。武士の言語が正しくなければ、その行いも必ず乱れ、狡猾(こうかつ)なものになる。 

 弱々しい物言いや、卑しく下品な会話などは、厳に慎まねばならない。 

 戦法、軍旅、武器、馬具の用語には、それぞれに種類があり、賓客や葬祭での語句、祖先の宗廟や朝廷に出たときの言葉づかいには、それぞれ定められたものがある。 

 言語を軽々しく出したり、応対が節度を欠いたものであれば、威儀も正しくなくなり、必ずや災禍を招く原因となる。 

 武士がつねに語るべきことは、義と不義についての論、古戦場とそこでの名将・良将の偉業、古今の義勇の士の行跡、各時代の武義の盛衰などであり、これらについての議論を通じて今日の良くない点を戒めるべきである。 

 他人の非を嘲(あざけ)たり、今の政治を謗(そし)ったり、遊興の楽しさを語ったり、男女の色欲を言ったりすれば、行いも必ずこれに陥り、溺れることになる。人の心は甚だこれらを好むものであるがゆえに、非礼なことを言ってはならないのである。 

  

▽ 行住座臥(行く時も、留まる時も、座っている時も、臥せている時も) 

 行くに径(こみち)に由らず。(歩くには近道をとらず。=大通りを通って抜け道をしない。人物の公正なことの比喩。『論語』から) 

 傍(かたわ)らの人に触らず、無礼のないようにし、過言にならないようにし、門を出てからは敵を見るように、敵に向かうがごとくに慎まねばならない。外へ出たならば、内のことを忘れるべし。以上は「行」についてである。 

 住については、これまでに詳しく述べてきたとおりである。 

 座に付いたならば、威儀容貌を正し、用具を放置せず、又、常に(敵襲や火事・地震・大風・洪水など)非常事態への戒めを忘れないこと。これが「座」の作法である。 

 横臥(おうが)している時にも、死人のごとくならず、傍らに刀の大小を離さず、夜の警戒を厳重にし、全てにおいて人に先んじてその労をなさねばならない。 

 武士たる者は、行住座臥の間、少しの間でも「武」の心を失うことがあってはならない。そうでなければ、非常事態が起きたときに必ず平常心を失ってうろたえ、その日まで怠らず勤めてきたことも、その一事において全て消滅してしまうのである。非常事態がいつ来るかを知ることはできないのだから、いかなる時も警戒を怠ってはならない。 

 『礼記』冠義篇に、次のように書いてある。 

 「人が人である所以(ゆえん)は、礼義にある。容体を正しくし、顔色を整然とし、辞令(人と応対するときの定められた言葉や挨拶)にしたがうことが、礼義の始めである。正しい容体、整然とした顔色、辞令を守るといった(外面上の)ことを怠らなければ、自然に礼義も備わるのである。」 

  

▽ 衣食居 

 粗衣や粗食を恥ずかしがり、立派な住居を好む者は、志士(道に志ある人物)ではない。 

 衣服と食事と住居には、それぞれ分限(分相応のもの)がある。これら三つが分限を超えるならば、度量(程よくすること)と相違し、費用がかさんで財産が尽き、武備(刀剣や鎧甲など武士としての備え)に充当できなくなる。また、これら三つが分限に及ばないならば、志にも必ず吝嗇(りんしょく=卑しく、けちけちしている)があり、これまた正しいものではない。よくその節を守ることが、武士として大切な心がけである。 

 武士の衣服にも分限があるが、何よりも武備と適合することにより用をなす。それゆえに、ゆき丈(たけ)などの長短や縫い方についても、全て規則がある。 

 食物は粗末なものや精米されていないもので用をなせ。ただ、士卒に与えるのと同じものを味わおうとすればよい。 

 燃える気質であっても病気が多いのは、脾(ひ)と胃の臓器が生まれつき虚弱な武士である。彼らもまた(食事などを調えて)身を養い、生きることを全うし、しかも「主君のために、義の道を守って死のう」という器量があらねばならない。 

 自宅のつくりや室内は、簡素であることで用をなすのであり、金を費やして装飾を施してはならない。立派な居宅や華美な部屋を持つと、志も薄れて家の事ばかりを思うようになる。これは、志士の心構えに反するものである。 

 家宅を広くするか、狭くするかについては、武の作法に最も適(かな)ったものとせよ。 

 伝えられていることであるが、堯(ぎょう)帝が天下を治めた時、錦の縫物や文(あや)飾りの衣服を衣服とせず、宮廷の外壁や建物を白土(しらつち)とせず、瓦やケタ、垂木、柱もつや等を施さないままの木材を用いた質素なものとし、茅(かや)や茨(ちかや)が庭に蔓延(はびこ)っていても切らずにいた。防寒着で寒さをしのぎ、目の粗い布の衣服を着て、精米されていない飯、藜(あかざ)や豆の葉などの煮ものを食べ、労役を課することによって、人民が田を耕したり、機を織ったりする時間を損なわないようにした。このように天子自らが心を削り、志を控えめで質素なものにし、何事においても無為に従ったとのことである。 

  

▽ 財宝器物 

 元来、財宝とは貧しい者に与え、貧しい者を救い、貧しくない者には与えず、又賢人を招聘(しょうへい)し、武士を集める為に用いるものである。器物というものは、今日の用事をなすのに不足が無ければそれでよい。 

 武士たるの道は、その身を主君に委ね、死をもって道を完全に守るものである。これが古人の格言である。 

 もしも財宝を惜しみ、器物を玩(もてあそ)ぶならば、武義は自ずから失われる。一大事に臨んで自分の家を忘れる事ができず、家のことを切に思うがゆえに、義を棄てて死を遁(のが)れ、人に謗(そし)られて祖先にまで恥を与えることになる。 

 面は人でありながら心は獣に類するのであっては、どうして楽しく生きることができようか。 

 金銀や財器を持て余している輩(やから)が、あるいは国を失い自分の家が滅亡しようとも、身を卑しくして財産を(世の為に用いずに)蓄えているのは、古今にその例が多い。このことをいい加減に考えてはならない。 

  

▽ 飲食色欲 

 飲食や男女というものは、人の大欲として存在する。飲食とは、身体を養い、礼節を行う為にある。色欲とは、子孫を嗣ぎ、情欲を適度に制限する為にある。人は皆、自然のうちに節度をもっている。 

 武士は農工商の上に立つ「三民の長」であり、その家業はいよいよ重く、その職務は重大であるのだから、どうして慎まずにいられようか。 

 飲食の量が過ぎれば、病気になったり、争いを起したりすることになる。そうでなくとも、すぐに惰眠をむさぼり、身体が重くなり、事毎に怠りが生じる。怠りが多ければ、家業もおろそかになり、職場でなすべき事も滞(とどこお)り、その無駄な出費は甚大なものとなる。 

 色欲が淫らであれば、人に言えないような私事も多くなる上に、精気も衰退し、謀(はかりごと)や計略も成り立たなくなる。これは甚だ恐るべきことである。 

 任重く道遠し、それゆえ、これを以て大いなる戒めとなせ。 

  

▽ 放鷹狩猟 

 放鷹や狩猟には、太古の昔から行われていたやり方がある。 

 田地耕作の害をなす鳥獣は、当然のことながら殺生すべきであるが、武士としてはこれに加えて、地形の様子(険しく狭い場所・遠いか近いか・山や川の形)を知り、諸所の風俗・巷のはやり歌・風説などを見聞してその時代の政務や民心を把握するのである。 

 自ら水沢や山林に入り、矢玉や剣戟(ほこ)などの武器を用い、四肢を軽やかにして骨節を習わせ、士卒の人材を考え、兵士らの練度を閲するのであり、これらは武士として必ず勤めなければならないことばかりである。 

 しかしながら、放鷹狩猟は用いるべき時がある。農作の時を知り、寒暑の苦を知ることで、不用に民を苦しめることは避けなければならない。つまり、ほどよい時節があり、いやしくもその時を失して節を忘れると、田園を荒らして民に徒労をもたらすことになり、それは鳥獣の害よりも甚だしいものとなる。 

 武士の為すことは、たとえ遊戯であっても全て「武」に根拠があり、その本と末を十分に計らなければ、粗暴に走ることになる。 

  

▽ 与 受(物や金を人に施(ほどこ)し、人から受けること) 

 施しを受けるということは、君臣上下の「義」であり、朋友相互の「礼」であって、武士が慎んで守らねばならないところのものである。 

 軍書『三略』によれば、軍に財産が無ければ、士卒は集まらず、軍に賞することが無ければ、士卒も功をなそうとしない。香ばしい餌には、よく魚が懸かり、重く士卒を賞すれば、必ず死を恐れない人材も現れる。 

 また、『六韜』によれば、魚はその餌を食べてつり糸に牽かれ、人はその禄を食んで君主に服従する。禄を与えて人を取るということは、皆、昔から行われてきたことである。 

 財産があっても、禄として与え施さなければ、士卒が来て服従することもなく、ただ孤独な身となろう。 

 分量を超えて与え施すならば、金銀が枯渇して与える禄は乏しくなり、武備も整えることができなくなる。それゆえ、金銭の出納を計画的に実施し、それに応じた度量を考えて、あるいは与え、あるいは施さねばならない。これが武士として行うべき方法である。 

   道義に基づかずに与え施せば、義士はやって来ない。 

 義士を使うのに財宝をもってすべきではない。相手を卑しめながら与える食物は、乞食でさえもこれを受けないのだから、どうして義士が慎まないことがあろうか。 

 受けることが道義的に正しいものであれば、物の軽重に依らず、これを受け取ってよい。 

 義を欠き、道に外れているならば、いかに多くの俸禄であろうと、それが天下を譲るほどの重みがあろうとも、受けてはならない。 

 君主に仕える武士が、俸禄のほかにも与え施しを受けたいと願うのは、分を超え量を過ぎるというものである。これは、金銀をもって贅沢なくらしをしようとする輩である。 

 その反対に、けちけちして金銀を蔵に積んで貯えようとするのは、あり余るほどの財産で屋敷を満たそうとするものである。どちらも当然の道理を欠いたものである。人に施すことと、人から受けることは、武士のもっぱら慎むべきことである。 

 あるいは、武士はけちけちして財産をあり余るほど貯えるよりは、むしろこれを人に施してその余りがあるのがよい、とも云われる。 

  

▽ 子孫教戒 

 子孫の恩情とは、天道の自然であり、血脈と相続がなされるものである。人倫の厚きこと、何事もこれに及ぶものはない。 

 我が身がすでに没していながら、あと継ぎの子が放僻(やりたい放題でかたよっている)であれば、家も絶えて身を滅ぼすことになる。そうであるから、どんなに恩愛の情が強くとも、教えや戒めをしないということは許されないのである。  武士たるものは、大丈夫(意思が堅固で、志が高く、剛毅な人)であることにより「勇」をなす。愛恵の情だけにとらわれ、誠の「勇」をもって戒めることができなければ、志のある士・仁をなせる人ではない。 

 人が幼少の頃、その言動が気の向くままであるのは天然自然なことである。それは、まだ心の主がないからである。その頃から長い月日をかけて段々と習うことで、善と悪の分別が芽ばえてくる。その兆(きざ)しを慎重に観察するのである。 

 張横渠(ちょうおうきょ)という北宋の哲学者が云うには、今の世の若い父母は、幼児を従わせるために驕奢、怠惰、物を壊すなどさせているが、これをそのまま成長させれば、凶悪な狼のようになる。 

 また、子供を愛するだけで教えることがなければ、駄々っ子になってしまう。武士が子孫に教え戒めるのは、その知るところを正しくし、その兆しを勇ましくさせ、そのなす事を信頼できるものにさせるためである。 

 それゆえに、知の発するに及んで正邪を考え、邪悪を戒めて正義を発揚し、勇気を養い、しかも、これがために恐れや威厳を手段としない。些細なことであっても、だましたり偽ったりしない。遊戯では必ず弓矢・竹馬により礼節を習わすようにし、言葉づかいも全て武士としての礼儀や謙譲の気持ちをもってさせる。その精気を全うさせ、情欲を少なくさせる。そして、これらを文学をもって教える。 

 しかしながら、暗記や暗誦に陥り、あるいは詩や文章を玩(もてあそ)ぶような学問のやり方は、日本人であることを忘れ、シナの模倣を好むことになる。いろいろな物を玩ぶことは、人から志を奪い、大量の書物をただひたすら読破するのも、また自ずから志を失うことになる。 

 人が生まれつきもっている気質は、それぞれ異なるものであるから、その軽重清濁を考え、教えや習わしに馴(な)れさせるのである。言語が通じる七歳ごろになったら、よく師を選び、友を考えて、品性を下げることがないようにせよ。  

 師弟の相接することは、最も敬恭(謹んでうやまうこと)たらねばならない。 

 兵書や武を説く書物は、汚れたところに置いてはならず、手を洗い、口をすすいでからこれを開け。師を尊ぶことは父母のごとくにせよ。 

 およそ女子への教えや戒めは、はなはだ慎重であらねばならない。その方法は多いが、懦弱(だじゃく=かよわいこと)をもって教えるのは、大なる誤りである。 

 武士の妻たる者は、武士がもっぱら戸外に出ていて内のことを知らないのであるから、夫に代わって家業を取り仕切るのである。これは懦弱であっては、到底勤まるものではない。 

 男が内のことを言わず、女が外のことを言わないのは、宮室をなして内と外のことを弁(わきま)えることである。 

 男女の衣類を同じ場所に掛けず、あえて物干し竿も夫と同じにはせず、よく舅姑(きゅうこ=しゅうと・しゅうとめ)に尽さねばならない。 

 漢や唐の時代にも、義を守り、節に死んだ女がいたという。 

 我が国の武将の妻は、盛衰によっても節を変えず、存亡によって心がくじけることもなく、あるいは賊に当たり、あるいは敵によって死ぬこともあった。このように礼節を尽くし、このように貞操を守るのは、懦弱の教えをもってなせるものではない。 

 元来、女とは陰で支えることを主とし、その体は柔らかで、その心は人に順(したが)う。これが生まれつき自然の質なのであるから、柔順をもって用をなすのである。 

 そうではあっても、時に応じて果断に夫を制することができるように教え、修行させねばならない。 

 遊戯や言葉においては、淫佚(いんいつ=みだらな男女関係や遊興にふける)なことは、絶対に許してはならない。道義的に正しいことを教え、武士の家業を夫と交替できるようにさせる。このようになれば、夫婦の道は正しいものとなり、人倫の道も明らかになるのである。 

  

【解説】元和8(1622)年8月、会津で生まれた山鹿素行は、六歳のときから江戸で古典や兵学を学び、九歳から幕府儒官・林羅山(はやしらざん)の下で儒学を、十五歳から幕府兵学師範・小幡景憲(おばたかげのり)の門下で甲州流兵学を学んだ。さらに、十八歳からは神道や国学を学び、二十一歳のときには兵学師範の認可を受けた。 

 三十一歳から、播州赤穂で藩主・浅野長直の家臣を指導するとともに、江戸で多数の書物を著した。その一つである『武教全書』は、三十六歳のときに著した代表的な兵法書であるが、この巻頭に記されていたのが『武教小学』である。 

 山鹿素行は、四十五歳のときに自著『聖教要録』で幕府の官学・朱子学を痛烈に批判した罪により、江戸を追われて赤穂へ流謫(るたく)となる。赤穂ではひたすら学問と著述に没頭し、四十八歳のとき、日本の国体についての名著『中朝事実』を書き上げた。 

 五十四歳で配流が赦(ゆる)されて江戸に戻り、浅草田原町に住んで、研究と著述と講義に晩年を送ったが、貞享2(1685)年9月、病に罹(かか)って六十四歳の生涯を閉じた。 

 山鹿素行が唱道した武士道精神は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助や幕末の吉田松陰、明治時代の乃木希典大将などに多大な感化を与えた。 

  

 (「山鹿素行『武教小学』」終り)

2013/4/30