大道寺友山 『武道初心集』
▽ はじめに 

 『武道初心集』は、江戸時代の兵法家・大道寺友山(だいどうじ ゆうざん)が武士の子弟のために書いた武士道入門書である。 

 山鹿素行の弟子でもあった大道寺友山は、この『武道初心集』で太平の世における武士としての基本的な心構えや常日頃から心掛けるべきこと、武芸や学問の学び方などを五十六項目で詳しく書いている。 

 ここでは、これらの中から冒頭に記述されている「死生観」や「忠孝」「義と不義」「学問」などに関する六項目を紹介する。 

  

▽ 常に死をならへ 

 武士というものは、元旦に最初の餅を祝う時から、その年の大晦日(おおみそか)の夕にいたるまで、日夜、常に「死」を心に留めておくことを本分とするべきである。 

死を心に留めてさえおけば、「忠孝」の二つの道にも適(かな)い、あらゆる悪事や災難をも遁(まぬが)れ、健康で長生きできる上に、その人柄までもよくなり、それにより得られるものは多いのである。 

その理由については、よく人間の命を夕べの露や朝の霜のようにあまりにも儚(はかな)いものであるといわれるけれでも、その中でも一番短いのが武士の身命であらねばならないにもかかわらず、実際にはそこらの武士たちは、恥ずかしげもなく何時までも長生きをしようなどと思っているから、主君への御奉公や親への孝養もどうせこのままずっと続くのだろうと考えるようになる。そのような心構えであるから、余計なへまをやって、主君への奉公に失敗し、親への孝行もいいかげんになる。 

 今日あっても、明日はどうなるか分からない身命なのだと覚悟さえしていれば、主君へも今日が奉公する最後のとき、親に仕えるのも今日を限りと思うようになり、主君の御前に出向いて御用を承(うけたまわ)るにしても、親の顔を見上げるにしても、「明日にはもうお会いできないのだから、主君そして親を今日できる限り大切にしよう」というような心になる。このような心があればこそ、主君や親への思い入れも真実のものとなる。それゆえに、「忠孝」の二つの道にも適うといえるのである。 

 そもそも、心に死を忘れて油断すれば、物事への慎みも無くなる。そして、人の気に障(さわ)ることなどを言って口論となり、聞き捨てれば済むことでも聞き咎(とが)めていちいち反論し、あるいはたいして得るものも無いような物見遊山などに行き、人ごみの中を徘徊(はいかい)して、どこの馬の骨ともわからぬ輩(やから)に因縁をつけられて喧嘩に及んで命を落としたり、うっかり主君の御名を口にして親兄弟に迷惑を掛けてしまう。これらは皆、常に死を心に留めない油断から起こる災いである。 

死を常に心に留めていれば、人に物を言うときも、人に返答するときも、武士として一言一言を慎重に選ぶことの大切さを心得るようになり、無益な口論などせずに済み、もちろん、つまらない場所へは人に誘われても行かないから、不慮の出来事に巻き込まれることも無い。このことから、あらゆる悪事や災難をも遁れることができるといえるのである。 

 高貴な人も賤(いや)しい人も、死を忘れるから過食・大酒・淫乱などの不養生をして脾臓・腎臓の病気にかかり、思いの外に若死にをし、あるいはたとえ存命であっても、何の役にも立たない病人となってしまうのである。 

死を常に心に留めていれば、実際の年齢よりも肉体の年齢が若く、無病息災であっても、日常から栄養をつける心構えを持ち、飲食に節制をし、色の道を遠ざける等、嗜(たしな)み慎むがゆえに肉体の頑丈さが保たれるのである。そうであるから、健康で長生きもできるというのである。 

 その上、死をまだ先のことのようにばかり思っているならば、この世に長く留まっていられるとの観念があるから、色々な望みも出てきて慾深くなり、人の物であっても欲しがり、自分の物は惜しみ、ことごとく皆、町人や百姓と同じような根性になるのである。 

死を常に心に留めていれば、世の中での未練もなくなることから、貪欲(どんよく)な心も自ずから薄くなり、欲しがったり、惜しんだりというさもしい根性もさほど頭をもたげてこないのが道理である。そうであるから、その人柄までもよくなると言ったのである。 

 ただし、たとえ死を心に留めるとはいえども、吉田兼好が徒然草に書いている心戒と比丘尼の話のように(この世の無常を思うあまりに、じっと 座っていることが出来ず)常に死期をまつ心でただひれ伏しているというのは、出家した僧侶が心に死を留める修行ではあっても、武士としての修業の本意に適うものではない。 

そのような形で死をとらえてしまうと、主君や親への忠孝の道も廃(すた)り、武士としての家業も疎(おそろ)かになるから、全くよくないことである。 

昼夜を問わず公私にわたり諸用をこなしながら、ほんの少しでも暇ができてゆっくりしている時には「死」の一字を思い出し、怠ったり、手を抜いたりせずに心に留めて置けということである。 

 楠木正成が、子息・正行(まさつら)に教えた言葉にも、「常に死をならへ(いかに死すかを日常の実践のうちに悟れ)」とあるのを伝え聞いている。 

 初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない。 

  

▽ 勝負の気 

 武士というものは、行住坐臥(行く時も、留まる時も、座っている時も、臥せている時も)二六時中、警戒心を研ぎ澄ましておくことが肝要である。 

 我が国は海外の国と異なり、いかに身分の低い町人・百姓や職人であっても、身分相応に錆びた脇差の一つも持ち歩いている。これは日本という「武の国」の風俗であって、太古の昔から変わることの無い「神ながらの道」(=神代から伝わる、神の御心のまま人為が加わらないまことの道=jである。 

 そうではあっても、(農工商の)三民は武を家業とはしていない。 

武門においては、たとえ小者・中間(ちゅうげん)・あらし子といった身分の低い武家でさえも、常に脇差を放してはならない作法が定められている。 

ましてや、侍以上の武士であれば、ほんのわずかな間も腰に刃物を絶やしてはならないのが鉄則である。 

したがって心懸けの深い武士は常に、たとえば入浴する際にも刃引き刀、あるいは木刀などを用意して置くというのも、我が身の安全を心懸けているからである。 

自宅でさえもそういう心懸けでいるのだから、ましてや外出するには、往復の道すがらや目的地で気違いや酔狂人あるいはとんだ馬鹿者と遭遇して予期せぬ出来事が発生することも十分にあり得るという心懸けが必要なのである。昔の人の言葉にも、「門を出るより敵を見るが如く」などというのがある。 

 武士として腰に刀剣を帯びている身であるからには、ほんの一瞬の時でさえも「勝負の気」を忘れることがあってはならない。 

勝負の気を忘れずにいれば、自然のうちに死を心に留めて充実するようになる。 

腰に刀剣を差し挟みながらも、勝負の気を常に持たない侍は、武士の皮をかぶった町人・百姓と少しも違わないように思える。 

 初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない。 

  

▽ 子を愛するの道 

 武士というものは、三民の上に立って書物を扱う職分であるのだから、学問等を通して広く物事の道理をわきまえていないと勤まらない。 

そうは言えども、乱世の武士であれば十五、六歳にもなれば必ず初陣(ういじん)に立って、一騎役などということも勤めなくてはならないから、十二、三歳にもなると馬に乗り、弓を射、鉄砲を撃ち、その他あらゆる武芸を修得しておかなければならないので、見台に向かって書物を開き、筆を執るような暇はほとんど無い。したがって、自ずから無学文盲になって、文字を書くことさえもまともにできないような武士は、戦国の世にはいくらでも居たけれども、あながち本人の心懸けが無いとも、親の躾(しつけ)が悪いとも言えない。当時は戦う技(わざ)に精通することこそが当用される近道だと考えられていたからである。 

そうではあっても、世の中が穏やかに治まっている時代に生まれた武士であるから武道の心懸けを蔑(ないがし)ろにしてもよいと言うのではなく、乱世の武士のように十五、六歳からはどうしても初陣に立たなくてはならないような世の中ではないのだから、十歳くらいになったら四書五経七書などを勉強させ、手習いなどもして物ごとを憶えるように油断することなく教育する。そうして十五、六歳にもなる頃には体もでき、体力もついてくるの従い、弓射・乗馬その他あらゆる武芸に習熟させるようにするのを、治世における武士の子の育て方とすべきである。 

 前述した乱世の武士の文盲にはそれなりのいい訳もできるが、治世の下での武士の無筆文盲にはいい訳ができない。 

ただし、子供であれば年も若いので、さほど咎(とが)めてばかりでも効果が無い。ひとえに親たちの気の弛みや躾不足ばかりを責めるべきでもない。つまるところ「子を愛するの道」を知らないがためなのである。 

 初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない。 

  

▽ 忠義と孝養 

 武士というものは、親への孝養を厚くすることを第一義とすべきである。 

 たとえ利発さや才覚が人より優れていて、生まれつき弁舌が立ち、器量が良かったとしても、親不孝な人間は何の役にも立たないものである。 

その理由はこうである。武士道というものは、その本末を知って正しく行うことが肝要であるとすべきものである。本末を弁(わきま)えなければ、義理を知ることもできないのである。義理を知らない者を武士とは言い難い。 

そこで、本末を知るということについてであるが、親というのは自分がこの世に発生した根源(本)であって、自分の身体は親の骨肉の末である。しかしながら、その末である我が身だけを立身させようと思うから、余計なことばかりが生じて根本たる親をいいかげんに扱ってしまうようになる。これは本末を弁えないがゆえである。 

 また、親に孝養を尽くすのにも二つの段階がある。 

 たとえば親が正直者で、心から子を愛して熱心に教育し、その上普通ではそこまで貰えないような知行高に加え、武具・馬具・家財等に至るまで何の不足も無く与え、良い娘を妻に迎えさせ、何ら不自由の無い家督を譲り、自分は隠居の身となって引っ込んだ親などへは、その子としてありきたりの孝養を尽くすだけでは、何ら褒められることも、感銘を与えることも無い。 

その理由はこうである。全くの他人でさえ、互いに友情を深め合うことにより親しい間柄になり、こちらの身の上や勝手向きの事までも親身になって心配して兎(と)にも角にも世話を焼いてくれるような人に対しては、こちらも大切に思って、たとえ自分の事を差し置いても、その人のためならば、と思うものである。 

ましてや自分の親が、親としての慈愛に満ちて、親として出来る事を全てやってくれるようであれば、子としてどれ程孝養を尽くしたところで、これで十分だと思えるはずがないのである。こうしたことから、ありきたりの孝養を尽くすだけでは、何ら褒められることも、感銘を与えることも無い、と言ったのである。 

 もし親の根性が悪く、くわえて年をとるほど僻(ひが)みっぽくなり、くだらぬ理屈だてばかりをし、自分の財産を全て子に与えることもなく、決して楽な生活状態ではない子の厄介になって面倒を見てもらいながらも、その弁えも無く、朝夕の飲物、食物や衣類にまでもケチをつけ、さらに他人に会えば「せがれが不孝な奴だから、老後に思いもよらぬ苦労をすることになり、ことのほか迷惑している」などと触れ回って、我が子の外聞を失う事を何とも思わないような思い違いをした親であったとしよう。 

こういう親に対しても親と崇(あが)め、取りたくもない機嫌を取り、ひたすら親の老衰を悲しみ嘆いて、少しも手を抜かずに孝養の誠を尽くすのを「孝子の本意」というのである。 

 このような根性を持った武士は、たとえ主君をとり、奉公の身となっても、忠義の道をよく弁えているから、主君の威勢が盛んな時は言うまでもなく、たとえ御身の上に不慮の事があって難題が山積みになった時でも、なお一層、誠の忠節心を篤(あつ)くし、軍(いくさ)において味方百騎が十騎に、十騎が一騎になろうとも御側(おそば)を離れず、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって身命を省みないというような尽忠に勤めるのである。 

その理由は、親と主君と孝と忠という文字が変わるだけであって、心の「信」に二つはないからである。そうであればこそ、古人の詞にも「忠臣は孝子の門に求めよ」とされているのである。 

 たとえば、親不孝者でありながら、主君への忠節は格段に優れているなどということは、道理として決してあり得ない。それは、自らの身体の根本である親にさえ孝を尽くすことができないような未熟な心をもって、天倫(親・兄弟のように自然に定まっている人間関係)にあらざる主君の恩義を感じて忠節を尽くすことなどできるわけが無いからである。 

家に在って親に不孝の子は、外へ出て主君を取り、奉公する事になったとしても、主君の襟(えり)元に目をつけて少しでも左前になっている(和服においては「死人前」「死人合わせ」と称し、縁起が悪い)のを見たならば、たちまち志が変わり、戦場で追いつめられたならば、櫓(やぐら)から逃げ出し、あるいは敵へ内通したり、降参したりといった不義を仕出かすのが古今の定まり事である。これらを恥として慎まねばならない。 

 初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない。 

  

▽ 義不義と善悪 

 武士であろうとする者は、義と不義の二つをしっかりと会得し、もっぱら義に務めて不義の行いを慎もうとさえ覚悟していれば、武士道は立つものである。義、不義とは善悪の二つであり、義は即ち善、不義は即ち悪である。 

 およそ人として善悪、義不義を弁えないということは無いけれども、人にとって義を行い、善に進むことは窮屈で面倒であり、不義を行い、悪を為すことは面白く、楽であるから、ひたすら不義・悪事の方にだけ流されて、義を行い、善に進むことは嫌がるのである。 

 知的な障害などがあって、善悪・義不義を弁えられないのなら別だが、自分で不義が悪事であると自覚していながら、義理を違えて不義を行うのは武士としての精神に反するものであり、目先の事だけに囚われて思いを捨て切れないからである。その基本は、物事を堪え忍び、自己を抑制する能力が不足していることにあるとも言えるだろう。 

堪え忍び、自己を抑制する能力が足りないとは、どのようなことか。つまり、それは臆病が原因で起こる不義そのものである。したがって、武士は常に不義を慎み、義に随うことが肝要なのである。 

 それでは、義を行う場合の三つのケースを想定してみよう。 

 たとえば、親しい人と長い道のりを同行してどこかへ行くのに、その連れ人が百両もの金貨を持ち歩いていたが、「これを懐に入れて歩くのに苦労しているので、後で帰りに立ち寄るまでここに預けておこう」と言って、その金貨を受取り人を特定できないようにしてある場所に預けた。ところが、目的地に着いてから、その連れ人が食中毒、または脳卒中などで倒れて、そのまま急死してしまった。そうなると、大金がある場所に預けられているという事実は、自分しか知らないことになる。 

そのような時、「何とも気の毒なことであるなあ」と、相手を悼(いた)む心のほかに邪念など全く無く、その者の親類縁者らへ状況を説明して預けている金貨をできるだけ早く届けるようにする。このような人は、「誠実さにより義を行う人」である。 

 二つ目のケースとして、「この金の持ち主とても単なる知人であって、さほど深い間柄ではないし、預けている金貨のことを自分以外に知っている者もいないのだから、どこからも問われることは無い。丁度、自分も金に不足していたところなので、これは幸いなことである。ここは一つ、何も無かったかのようにしても見苦しいことではないだろう・・・」と邪念が頭を擡(もた)げかけるのを、「ああ、何と卑しくも、意地汚いことを思ってしまったものだ」と、自分の心中を見限り、強い意思をもって思い直し、その金貨を届けるような人は、「心に恥じて義を行う人」というのである。 

 三つ目のケースとして、先に預けている金貨のことを、妻子や召使いのうち誰か一人でも知っているような場合、その人が自分の事を疑うのではないだろうか。後日訴えられたりしたら堪らない・・・との思いから、その金貨を届けるような人は、「人を恥じて義を行う人」というのである。このタイプの人は、金貨のことを知る人が全く居ない(二つ目のケースのような)場合には、どのように振る舞うのかと考えると少々心許無いが、それでも「義を知って行う人」に含めることもできないことはない。 

 これらのケースを総合すると、義を行うための修行の心得とは、自分の妻子、召使をはじめ、親しい人が自分のことをどのように思うか、を第一に考えて自らを慎み、そこから相手の範囲を広げて他人からの謗(そし)りや嘲(あざけ)りを気にすることで、不義を為さず、義を行うように心掛けていれば自然とそれが癖になり、それから後は必ず、義に随(したが)うことを好み、不義を嫌うような精神構造、心構えへと発展していくのである。 

それはまた、武勇の道においても同様である。生まれつきの勇者とは、戦(いくさ)に臨んで、矢や銃弾がいかに激しく飛んでくる所であろうとも厭(いと)わず、忠と義の二つを兼ね備えたその身を曝(さら)しながら突き進んで行く。こうした心中の勇気が表面に顕れることから、その見事な行動がよくよく賞賛されることになる。 

 また、人により「何と危険なことであろうか。これはどうしたら良いものだろうか・・・」と心臓の鼓動が激しくなり、膝も小刻みに震えるようなことがあっても、「多くの人々が行く中で、自分一人が行かないようでは、味方の多くの人々の見る目もあって、後日になって口も聞いてもらえないようになる」とやむなく決心し、前述した勇者に遅れないようにして進んで行くというような者もいる。 

先に述べた「生まれつきの勇者」と比較すれば、はるかに劣るようではあるが、このような者でも幾度もそうした経験を積めば、後には冷静沈着に行動できるようになり、生まれつきの勇者にもさして劣らない、武の心を備えた誉れ高い、剛毅な武士とならないはずがない。 

そうであれば、義を行い、勇を励むようになるには、とにかく「常に恥を知る」という心得でいること以外には無いのだろう。 

 人が「不義なことをするのはよせ」と制しても、「大したことではない」と言って不義を行い、「(そうした悪事を止めさせようとする人を)何とも腰抜けなやつだ」と馬鹿にし、「笑いたければ笑え。大したことではない」と言って臆病の為せる業(=不義)を働くような者には、何を教えても意味がない。 

 初心の武士が心得ておくべきは、ここに述べたことにほかならない。 

  

▽ 武士道の学問 

 武士道の学問というものは、「内心に道を修し、外かたちに法をたもつ」ということにほかならない。 

 「心に道を修する」とは、『武士道正義正法の理』に従って行動し、毛頭も不義邪道の方向へ行かないように心得ることである。 

そして、道とは何かについて、聖賢(知識や人格にすぐれた人物)の経典に明るい人から詳しく学ぶのも良い事である。 

 また、「形に法を保つ」ということを細かく区分すると、二法四段がある。 

 二法とは、「常法」と「変法」である。常法には「士法」と「兵法(ひょうほう)」があり、変法には「軍法」と「戦法」があって、これらを合わせて四段である。 

 先ず「士法」というのは、朝夕手足を洗い風呂に入って体を清潔にし、毎日早朝に髪を結い、必要の都度、月代(さかやき)を剃りもし、時節に応じた礼服を着用し、刀・脇差などは言うまでもなく、たとい寒中であっても腰に扇子を絶やさず、客の応対をする時は、相手方の尊卑に応じて相当の礼儀をつくし、余計な言動を慎み、たとい一椀の飯を食い、一服の茶をすするにしても、その仕草が拙(まず)くならないように油断すること無くこれを嗜み、自分が奉公人であるならば、非番や休息の時でもボーッとすることなく本を読み、物を憶え、その他にも古来の先例に基づいた武家の行事や法令・制度・習慣・儀式などに至るまで、これらを心に懸け、行住坐臥の行儀作法も「さすがは武士である」と見られるようにしておくことである。 

 次に「兵法」というのは、いかに士法について完璧であっても、武士として兵器の用い方に練達していなければならないので、まずは腰刀を抜いての勝負の仕方を覚えることを兵法の最初とし、あるいは鑓(やり)を使い、馬に乗り、弓を射(い)たり、鉄砲を撃ったりし、その他にも武芸であれば何でも好きになって稽古し、手錬を極めてその身の覚悟とすることである。 

 これら「士法」と「兵法」の二段をしっかり修行すれば「常法」においては何の不足も無くなるので、おおかたの人の目には「実に優れた武士である。仕官させて良かった」と見えるのだ。 

 そうは言っても、武士とは元来「変」に対応するための役人である。 

「変」とは、世の騒動である。そのような時には「甲冑(かっちゅう)礼なし」と言って、暫(しば)しの間、日々の士法に囚(とら)われることなく、いつもは御主君様や殿様などと呼ぶ御方を「御大将」と呼び、家中大小の侍たちを「軍兵」や「士卒」などと呼び、上も下も礼服を脱ぎ捨て、身には甲冑を纏(まと)い、手に兵杖を携えて敵地に向かって進んでいく状態を指して「軍陣」と言う。これらに関しては、種々の仕様・仕方の習いがあるが、名付けて「軍法」という。これを理解しておかねばならない。 

 次に「戦法」というのは、敵と遭遇して戦(いくさ)が始まる時、味方の配置や攻撃の時機などが図に当れば勝利を得、それを誤れば勝利を失い、敗北するのは定められた事である。その仕様・仕方の習いや決まりごとがあるが、それらを名付けて「戦法」という。これもまた、理解しておかねばならない。 

 変法に二段あるというのはこの事である。 

 この「常法・変法」四段を修行し、成就した武士のことを「上品の侍」と言うのである。 

「常法」の二段だけが完璧で、一騎としての勤めには事欠かなくても、「変法」の二段に疎(うと)くては、士、大将、者頭、物奉行などの重い役職には不足である。 

ここの所をしっかりと認識し、仮にも武士であるからには「士法・兵法」は言うに及ばず、「軍法・戦法」の奥秘(おうひ)に至るまでこれらを修行し、たとえ及ばなくとも「いつかは上品の士となれるように、(武士としての)務めをなおざりにしないぞ」という心懸けが肝要である。 

 初心の武士が心得ておくべきは、こうでなければならない。 

  

【解説】寛永16(1639)年に越後の国村上邑に生まれた大道寺友山は、二十歳前後に江戸に出て、小幡景憲(こばたかげのり)、北条氏長らに師事して甲州流軍学を修め、五十歳頃には山鹿素行から兵学の奥義を伝授されて甲州流の兵法家となった。 

 兵学の他にも儒学なども学び、その幅広い学識から安芸の浅野家などの諸家に迎えられた。 

 元禄4(1691)年、五十八歳で会津藩・松平正容の客分となり、その功績から同10年には家臣となる。しかし、同僚の嫉妬からの讒言(ざんげん)により(注:他説あり)、同16(1700)年に六十一歳で会津松平家から追放される。 

 その後は各地を転々とした果てに、武蔵岩淵(現在の東京都北区)に仮住まいを設けて『岩淵夜話』を著し、正徳4(1714)年、七十五歳で福井藩・松平吉邦に召し抱えられて軍学を講じた。『武道初心集』はこの頃に著されたものである。 

 享保15(1730)年、江戸霊岸島の邸宅において没した。享年九十二歳。 

 大道寺友山の没後百年以上を経た幕末期、水戸藩主の徳川斉昭が『武道初心集』を気に入り、家臣たちにも読むように薦めていたという。 

  

 (「大道寺友山『武道初心集』」終り)

2013/5/10