【第4回】勇臆・老若に応じて人を用いる
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一には、最初に『太平記』という書物の名称の変遷が記されています。この書は、名を改めることがこれまでに四度あったといいます。 

 最初の名は、『安危来由記』でした。その意味は、古今の世の安定と危機の移り変わりを記して、後世の戒めとするということです。 

 二番目の名は、『国家治乱記』でした。この書を読んで理解すれば、大にしては国の治乱を思い、小にしては御家の治乱を思うということから名づけられました。 

 三番目の名は、『国家太平記』でした。国家の意味するところは、前の書名と同じです。太平というのは、戦乱の治まりつつある当代を賀し奉ろうとの願いからでした。南朝の正平(1346〜70)年間の筆者がこのように称しました。また、太平の部分は北朝の延文(1356〜61)年間頃に改めて号したとも云われています。 

 四番目の名は、『天下太平記』でした。応安元(1386)年、細川武蔵入道頼之(北朝の政治指導者)が「この書の名は、南朝の治乱等の号を捨て、当代を賀し奉ろうというのであれば、どうして国家というのか。(南・北朝で)同じく天下太平こそが望ましいのではないか」と述べたことから、当時の学才の人等が『天下太平記』と名づけたのでした。 

 その頃、京都の住人は、「天下太平と改名してからは、南朝は威を失い、天下の朝敵は自ずから亡びて、実に天下太平になったのだなあ」などと勝手に噂したのですが、これは好ましくないことでした。天下の治乱とこの書名の善し悪しは、何ら関係がないのです。真実は、武蔵入道が聖賢の道を修得し、無欲に天下の政道を相量り、無私の精神に徹したがゆえに、四海が日を追うごとに豊かになったのでした。 

 それで、いつしか『太平記』とだけ、呼ばれるようになったのでした。 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第4回】勇臆・老若に応じて人を用いる 

  

▽ 世に三つの勇者あり 

 およそ世に三つの勇者がある。一つには、生得の勇者、二つには、血気の勇者、三つには、仁義の勇者である。 

 先ず、生得の勇者とは、生まれつきのものであり、恐ろしい事を知らず、する事をも顧みない者がいる。心が健やかであるだけで、遠く慮ることができない。 

 また、血気の勇者とは、生まれつき勝れて勇気があることもない。また、あながち臆病だということもない人である。そうではあっても、腹を立てて怒る時か、または、人に頼まれると即座に受け易く、また、主人に言葉をかけられなどして、何につけても血気に乗り、上がっている時に、勇気が涌いてくるならば、炎の中や深い水底へも入り、鬼神をも恐れず、剛をなす類である。時が過ぎれば、その勇は少しも無く、人を恐れる気持ちさえあるのだ。 

 さらに、仁義の勇者とは、常に事を慎み、行いに失がないだろうかと省み、一命の重きことを思量して、周りの人への礼を厚くし、和を施し、事の切なるに臨んでは、全てを受け容れて遁れず、勇敢に死する者を云う。 

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より) 

  

▽ 正成、兵士の勇臆について語る 

(以下、終わりまで「太平記秘伝理尽鈔巻第三 笠置軍事付陶山・小見山夜討の事」より) 

 その昔、楠木正成は息子たちに次のように語りかけた。 

 兵士たちの心中をおもんばかって、それらに応じて命令せよ。臆した者には、敵が必ず亡びるのだと説け。こちらが身命を捨てるのだということは説いてはならない。勇の過ぎる者には、小さな事に軽々しく命を捨てるのは道理に反している。あくまでも、義によって(命を)軽くせよ、と説け。勇の過ぎる者というのは、生得(生まれもって)の勇者とは違って、ただ死にさえすればよいと思っている者だからである。 

  

▽ 血気の勇者と仁義の勇者 

 血気の勇者ということがある。血気とは、向こう見ずな意気である。常日頃は勇気が無いが、怒ると勇気が出てきて、死を顧みない者がいる。また、人に褒められると俄(にわ)かに勇気が出てきて、炎(ほのお)の中へも入る者がいる。 

 人から「頼むぞ」と云われると動じやすく、心変わりしやすい。また、年来の重恩を忘れて、当面の親しさに意を寄せる。そういう人間は、自分の父母には不孝であって、親しい人に付いて自分以外の父母に意を寄せ、君主の命に背いて、仲間にだけ意を寄せ、兄弟を離れ、他人に親しみ、重恩を捨て、少々の恨みにこだわり、かつての大恩を忘れて、今の小恩に付くのである。このような行跡(ふるまい)は、全て血気の勇者である。これらに対しては、常に血気ということを語って教え、義に付くことを奨励するようにせよ。 

 また、仁義の勇者ということがある。道理をわきまえて実行し、国の為に命を捨てることを喜びとすることから仁という。義によって身命を捨てることから義と呼ばれるのである。 

 仁義・生得・血気の三つは、どれもが兵士の中に存在するのである。 

  

▽ 臆病者には「決死」と言うな 

 これら以外に、臆病というのがあるので知っておけ。将軍が戦場で死すべきことについて言及したならば、仁義・生得の二つの勇者であれば、益々勇気がわいてくるものである。しかし、血気の勇者は一往勇むことがあっても、時日が移れば勇気も消えうせるものである。 

 臆している兵士は、将軍が決死の覚悟を固めたのを見て、死を恐れて逃げ散るものである。臆病な兵士が散ってしまえば、血気の者もまた臆病になるのである。 

 この世の中には臆病が多く、血気すらまれである。生得の勇者はさらにまれであって、仁義の勇者などはほとんどいない。このため、ことが急を要するような場面に及んで、将軍と死をともにしようと思う者は少なく、一身を立てようと欲するものは多い。世の常の合戦では、将軍は決して死のうなどと軽々しく言わないものだ。 

  

▽ 十死一生の合戦 

 ところが、「十死一生の合戦」と言うものもある。 

 例えば、兵力において味方が弱く敵が十倍の強さである。それだけではなく、敵に従う兵は日々に増えていき、味方は夜毎に劣勢になり、周辺の国の援助も得られない。このような状況であれば、合戦を急げ。しかも、通常のような戦い方では、勝つことはできない。大河を後ろにして退くこともままならないようにして、討死を覚悟した上で、敵の堅い陣地を突破せよ。 

 生きる望みは一つ、死は九つ。このことから十死一生というのだぞ。生きようと欲すれば死す。死のうと覚悟すれば生きるのだぞ。軍の大事とはただこのことである。 

 正成は息子たちにこのように教えたのであった。 

  

▽ 笠置山を落城させた陶山・小見山の夜討ち 

 『太平記』によれば、元弘元(1331)年8月、後醍醐天皇が笠置山に遷幸されると、六波羅探題は七万余騎の軍勢で笠置山を囲んでこれを攻めた。しかし、笠置山は、西国の軍勢が数万騎で数日間攻めても落ちなかった。笠置勢三千余騎は、足助重範らが奮戦して六波羅軍を悩ませた。 

 そうしているうちに、畿内・西国に宮方に与しての挙兵がおこり始めた。急いでこの城を落とさなければ、諸国に六波羅軍の敵が多く出てくるのは疑いなかった。 

 やがて鎌倉から東国の軍勢が援軍として上ってきた。しかし、東国の大将には智謀が無い。力攻めだけでは笠置山は落とせないだろう。 

 そこで、六波羅軍の陶山と小見山は、9月30日夜、わずかな手勢で笠置山を襲撃した。陶山は手勢五十余人を率いて、笠置の城の北側の断崖絶壁に回りこみ、崖をよじ登って城内に突入した。兵力が足りない笠置勢は、北側の入り口付近の地形が険しいことを頼みとして、そこには兵士を置いていなかった。これにより、官軍側は奇襲され、笠置山は落城した。 

 夜討ちの日、陶山は死装束に曼荼羅を書き付けて、郎従たちに十死一生の覚悟を示したのであった。 

  

▽ 山城の守備・新田義貞と楠木正成の問答 

 世の中が鎮まって後、新田義貞が楠木正成に対して、雑談のついでに質問した。 

 「笠置の城が攻め落とされたことは、寄手(攻撃側の兵士)の勇が優れていたからではない。陶山の智謀と勇が秀でていたからである。今後もこのような険阻な場所を、優れた兵をもって警固するのは適切ではない。楠木殿は、どう思われるか。」 

 そこで、正成が云うには、 

 「医師が病気を防ぐのに薬をもってするように為せばよいのです。山城の険しい箇所であれば、敵も必ず忍びを入れるでしょう。なぜならば、地形の険しさを頼んで、警固の兵士を置かないからです。また、警固の兵も、険しい地形であることに安心して守るのに怠りがあるからです。 

 ただし、私の考えるところをお尋ねになられたので、簡単に申し上げたのですが、その意味を奥に残すようであれば、かえって人並みにえらぶっているように思われるでしょうから、さらに説明いたしましょう。 

  

▽ 老兵の特性を活かして用いる 

 四十歳以上の老兵を以て、険しい箇所を昼夜にわたり守らせるのがよいと思います。 

 その理由は、人は四十歳以前は若くして眠りがちですが、四十歳以後は眠ることが少ない。険しい地形であれば、敵も必ず、夜討ちや忍びを考えるでありましょう。白昼に攻めるようなことはしないものです。このような場合の守備は、眠らないことに勝るものはありません。 

 また、老兵は積んできた経験も豊富です。さらに、老兵はあらゆることによく心がけるものでもあります。 

 したがって、険しい地形であっても敵が攻めよせて来るかもしれない場所には、四十歳以下の若者たちに少々の老兵をそれぞれ加えて編成するのです。老いて武功も無く、若い時には強弓と云われた者でも、四十歳以降は次第に弱くなるものです。かけ引き・歩行・力業(ちからわざ)、これらは皆、二十四、五から三十七、八までを盛りとするものです。 

 このような分別なく、兵を配置されるようであれば、闇将でしかありません」とのことであった。 

 義貞は深く心を打たれたのであった。 

  

(「勇臆・老若に応じて人を用いる」終り)

2014/6/13