【第7回】敵意を解いて服属させる
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、それぞれの巻の作者について紹介いたします。 

(引用開始) 

 (建武御親政の頃、後醍醐天皇が二条の馬場殿にて新田義貞を召されてから)数日を経た後、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)卿が勅を承って、北畠の玄恵にこれを伝えた。玄恵は、義貞に会って、鎌倉幕府の滅亡について記した。次に、足利高氏・直義に会って、かの陰謀と六波羅の滅亡について記した。今の九・十の両巻がこれである。 

 後醍醐天皇は、お褒めになられて、玄恵を三品の僧都になされた。当時、天下の武臣はこれを伝え聞いて、元弘に功績があった者は、自分の功績が隠れて、この書に顕れていないことを恨み、功績が無い者は、これをうらやましがった。これによって、再び玄恵に命を下して、先ず正成の武功を記すようにさせた。 

また、玄恵は藤房卿に会って、笠置の戦い、後醍醐天皇から皇子・摂政の臣、下六位に至るまで、鎌倉幕府のために苦しまれたことを記した。三・四・五・六の巻がこれである。ここに、大塔尊雲法親王・妙法院法親王(尊澄)等が苦しまれた御事、中でも大塔宮が南都・吉野・十津川において、虎口の難を遁れられた様子を玄恵に命じて記させたのである。 

また、赤松の戦功についても、同じ作者である。ただし、律師則祐が会談した。これが、今の七・八の両巻である。 

初二巻は、山門(比叡山延暦寺)の来賢方印が玄恵と会談して、これを記した。 

全部で十巻、これまでを義貞鎌倉の物語と云い、あるいは高氏六波羅物語と云い、あるいは赤松合戦記と云う。正成一人だけはその名を云われることがない。 

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より) 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第7回】敵意を解いて服属させる 

  

▽ 楠木、赤坂城を急襲して奪還 

 元弘元(1331)年9月、赤坂城で自害して焼死したとみせかけ、城を落ちた楠木正成は、金剛山の奥にある観心寺という所に忍んでいた。楠木の郎従5百余人も、大和・河内・紀伊の山中に散らばって潜伏していた。また、笠置山を逃れられた大塔宮は、吉野に一城を構え、御陣を召されていた。 

 鎌倉幕府が地頭として河内へ配置し、赤坂城を占領していた湯浅定仏は、楠木が死んだものと信じて安心しきっていた。そこへ、元弘2(1332)年4月、楠木正成が五百余騎を率いて押し寄せてきた。城中に兵糧を蓄えていなかった湯浅は、あわてて自分の領地である紀伊国の阿瀬川から兵糧を持って来させた。赤坂城内に潜入させていた忍びから、このことを聞きつけた楠木は、宗徒の勇士3百余人を紀伊と河内の境にある木目峠(現在の紀見峠)に派遣した。 

 木目峠の楠木勢は、湯浅の兵糧運搬隊を襲撃して兵糧を全て奪い取り、空になった俵に武器などを詰め込んだ。そして、兵糧を運ぶ人夫やその警備兵と、これを追う軍勢に扮して、赤坂城の敵兵から見える場所で追ったり逃げたりの同士討ちを演じた。湯浅入道はこの様子を見るや、すぐに手勢を城内から打ち出し、この偽の兵糧運搬隊を城内に引き入れたのであった。 

 赤坂城内に入り込んだ楠木勢は、俵の中から武器を取り出して武装し、閧の声を挙げた。これを合図に、城外に控えていた軍勢も城の木戸を破り、塀を乗り越えて攻め込んできた。こうして楠木の軍勢に取り囲まれた湯浅は、とても戦うことが出来ないと考えて降伏した。 

  

▽ 八尾の別当を服属させた正成の智謀 

(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より) 

 正成が赤坂城を奪還した後、同じ河内国の住人・八尾の別当顕幸(やおのべっとうあきゆき)を味方に引き入れようして説得すると、顕幸はやがて百五十騎で馳せ参じて、正成に服属した。この八尾の別当は、昔から正成の父・正玄(まさとお)と領地のことで常に争っており、楠木氏に対する遺恨が深かった。それが、どうしてこの時に服属したのかと云えば、それは正成の智謀が深かったからである。 

 正成は赤坂城の奪還に向かう以前、大塔宮に次のように申し上げていた。 

 「八尾の別当顕幸は、武勇の誉れある者であります。彼が味方として参らなければ、河内の賊を退治することは難儀でありましょう。 

 この男は、意思は浅くして正直な法師でございます。常に官位を意識する者でございます。しかしながら、正成とは、とある事情から不和にございますれば、正成が赤坂に出向いてから後は、何を仰せられても、勅(=天皇のお言葉)に従うことはないでしょう。それゆえ、八尾の別当には令旨をお与えになられて、彼の気持ちを和らげて下さい。そうすれば、必ずや味方に参って、帝に忠誠を尽くして戦うことになりましょう。 

 先ず、謀として八尾の別当に「権僧正」の号(僧正は最上位の僧官。大・正・権の三階級があり、権僧正は参議に相当)をお与えになり、天下が安らかになった後には、恩賞を望みどおり与える旨を仰せになってください。」 

 楠木がこのように申したならば、大塔宮は「彼の敵意が解けて、味方となってくれるのであれば・・・」と仰せられ、すぐに令旨を顕幸に下された。 

  

▽ まず虚栄心を満たし、次いで気心を解く 

 顕幸は、「法師であるこの私に僧正を下されようとの事、武士の面目もまた余りあること」と大いに喜び、味方となって義戦に与(くみ)しようと申してきた。しかし、それには次のような条件があった。 

 「ただし、宿敵である楠木正成の存亡については、風のうわさにいろいろと聞いております。もしも彼が生きていて、宮方に忠誠を誓って戦うようであるならば、顕幸の軍が帝に忠を尽すことは絶対にないものと心得て下され。」 

 これは困ったことになったと思し召しになられた大塔宮は、この由を正成にお伝えになられた。正成が申すには、 

 「事情はよくわかりました。それでは令旨に代えて、彼の気持ちが打ち解けるよう、このように申していただきとうございます・・・」とのことであった。 

 そこで、大塔宮は遣いの者を通じて、顕幸に次のように仰せられたのであった。 

 「正成の存亡は全く承知していない。世間のうわさでは、あるいは存在し、あるいは亡き者であり、実はどうなのかは何とも言い難い。しかし、正成が生きているのであれば、なぜ私がいる吉野山に参らないのであろうか。万一、楠木が存命していて、河内に出没したとしても、今まで私に与せずして、別の企てがあったというのなら、何ほどの忠誠心があろうか。これでは朝敵と同じようなものであろう。この後、正成が私に味方すると申し入れてきても、全く用いるつもりは無い。」 

 これを聞いた顕幸の気心は解けて、「是非、宮の御味方に参りましょう」との勅答を申した。 

  

▽ 実力を見せつけながら、下手に出る 

 それから十日ほどして、正成は湯浅定仏が占領している赤坂城に攻め寄せた。これを知った顕幸が、大塔宮に「御存知でございますか」と尋ねると、大塔宮は「存じておらぬ」と仰せられた。そのため、顕幸は赤坂への後詰めをしなかった。 

 赤坂城を攻め落として、威信が強まってから、正成は顕幸の元へ次のように申し伝えてきた。 

 「正成は実に愚か者でありますので、この(赤坂城奪還という)一大事を思い立つや、帝の御為を思うあまり、自分が死んだことになっているのをすっかり忘れておりました。これまで死んだふりをして、朝敵から隠れ忍んでいたなどと云う卑怯な行跡(ふるまい)を、世の人々も実に苦々しく思われていることでしょう。そして、貴僧が訴えられたことで、大塔宮もさぞかし正成を不審に思われておられるに違いありません。 

 私を以て公の事を忘れるのは、人たる者のしてはならないことでございます。従いまして、今日以降は、昔からの恨みをお忘れください。そして、正成には全く不忠の心はございませぬことを、どうか大塔宮にお伝えになってください。今は父祖の恥を忘れて、そなたに降参いたします。朝敵を追罰するにあたっては、八尾の別当顕幸殿が万事を取り仕切っていただきたく、お願い申し上げます。 

 それさえも、叶(かな)わないということであれば、なす術もございません。そうであれば、そなたは私の敵、はたまた、私の朝敵退治の支障ともなりますれば、天下の御敵でございますから、そなたの館へ参って、一戦を交えましょうぞ。」 

  

▽ 相手の心を討つ楠木正成の謀 

 正成がこのように申したので、顕幸はあわてて応えたことには、 

 「いやいや、楠木殿が心の底から宮の御味方であられたことは、早速、御所に伝えましょう。私的な事で戦うようなことは、今の楠木殿には相応しくありません。また、仰せられることも実にもっともでござる。貴殿のような名将が降参された上は、これ以上の面目はございません。」 

 そして、さらに申すには、 

 「大塔宮が御不審に思われている事は、この顕幸がよき様に申しておきましょう。これから後は、宮のお近くで一緒になって忠節を尽しましょうぞ。」 

 こうして、かつての宿敵であった八尾の別当顕幸は、その勢百五十騎を引き連れて赤坂に参り、正成と一手になったのである。こうした楠木の謀こそ、最も恐るべきものである。後にこのことを、正成が八尾の別当に語ると、顕幸は笑って、「あの時は、実にうまく謀られてしまいましたなあ」と云ったものである。 

 この一件があってから後、和泉・河内両国に所在する御家人は皆、正成に随順して、その勢力が強大になっていったという。 

(「敵意を解いて服属させる」終り)

2014/7/4