【第8回】小勢をもって多勢に勝つ
▽ ごあいさつ 

 皆様、こんにちわ。日本兵法研究会会長の家村です。 

 前回に引き続き、『太平記秘伝理尽鈔』の巻第一から『太平記』全四十巻が書かれた経緯と、それぞれの巻の作者について紹介いたします。前回は十巻までについてでしたが、今回からは、十一巻以降についてです。 

(引用開始) 

 後醍醐天皇は、題号(書の名称)が定まっていないということで、玄恵・智教・教円らに命じられた。そこで、三人の僧は、武士等に会って、物語の前後や虚実をそれぞれ尋ねて、これを再び記した。『元亨釈書』の師(虎関師錬)に命じて、序を書かせた。 

 題号については、前に記したとおりである。(注) 

 また、建武の頃、後醍醐天皇が山門に居られた時、大友・少弐の振る舞いや、五大院の右衛門の行いを後代の「嘲り」にせよとのことで、山門の護正院に命じて、これを記させられた。正成が戦死した様子について、「智・仁・勇」の三徳を備えていると、お褒めのあまり、善智坊法印に申しつけて、これを記させられた。これが十一・十六の巻である。 

 南岸坊の僧正顕信が、(新田)義貞の奏状・(足利)尊氏の陰謀、(足利)直義の悪逆を記した。これが十三・十四の巻である。この当時、義貞は鷺坂(さぎざか)・箱根の合戦を自ら記した。これも十四の巻である。 

(以上、「太平記秘伝理尽鈔巻第一 名義並由来」より) 

(注)『太平記』という書物の題号(名称)が四度改められたということ。詳しくは、本メルマガ記事の第四回掲載の「ごあいさつ」をご参照ください。 

 それでは、本題に入りましょう。 

  

【第8回】小勢をもって多勢に勝つ 

(「太平記秘伝理尽鈔巻第六 楠天王寺に出張の事付隅田・高橋並宇都宮事」より) 

  

▽ 大将が臆すれば、兵も臆する 

 楠木正成は常々、家の子・郎従や将(上級指揮官)である者たちを諌(いさ)めて、次のように語っていたという。 

 「敵軍と陣を張り、戦(いくさ)を決するときはいつでも、我(われ)は無勢(少ない軍勢)、敵は大勢となるであろう。そのような条件で、もしも敵と我の間隔が六町(約655メートル)もあるのに、敵から意を決してかかって来たとしよう。世間の将は、こちらが無勢であり、敵が大勢であるのを見て、臆して我の陣まで敵を引き寄せて射立て、右往左往するところに切って出ようとするであろう。 

 しかし、これは大なる過ちであるぞ。大将が臆したのに、どうして兵が臆さずにいることがあろうか。そうであれば、攻めかかる敵の軍勢を恐れて、臆した者は耐え切れずに備え(隊列)から脱落することになり、この臆した者が落ちていくのに引きずられて、少し剛である者さえも落ちることになるのだぞ。 

 人は勝れて剛毅であるのもまれであり、勝れて臆病であるのもまれであるから、残るものはいよいよ少ないのだぞ。 

  

▽ 「居負け」とその対処法 

 こちらの兵がまばらになったのを見て、敵はますます力を得てかかってくる。その時、敵は時の声を発して、我が陣へどっとかけ入るだろう。臆病になっている味方は、堪えきれなくなって必ず敗けるものである。これを「居負け」と云う。 

 このようにして負けることは、将の不覚の最たるものである。何とも口惜しいことではないか。そこで、このようになってしまった時は、将自らが軍の備えを歩き回りながら、このように下知(命令)して云うのである。 

 『今日の戦には必ず勝てる方策がある。太鼓の合図を守って各々前進せよ。人に抜きんでた振る舞いがあれば、賞禄するぞ。』 

 このように諸兵の気を引き締めてから、我が陣前に帰り、敵の攻めかかって来るのを見る。敵との間が六町の時は、五町(約545メートル)ほど敵が来て、あと一町(約109メートル)ほどの距離に近づいたならば、陣太鼓を打って味方の軍を進めるのである。 

 こうすることの利点は三つある。 

 一つには、敵が攻めかかる時、こちらは後れを取り、敵はその機に乗るものである。それでも我が軍を乱さず、騒ぐこともなければ、敵も怪しむことであろう。そこでこちらから進むことによって、今度は敵が気後れし、我がその機に乗るのである。 

 二つには、敵は五町以上の距離を前進して疲れており、我は半町(約55メートル)を行くだけなので疲れていない。 

 三つには、敵は長い距離を前進して陣形・隊形などの備えが乱れており、我は乱れていない。 

 敵が3千を一軍として攻めかかるのに、我が1千の軍であっても勝てるのは、躊躇(ちゅうちょ)せずに断行することにある。その理由は、敵が3千を一軍とし、我が千を一軍としたとしても、それは名目に過ぎない。互いに進んで勝負をすれば、最前列の30〜50人が太刀打ちして負けた方の兵は、どれ程であろうとも、皆敗北するものである。 

 そうして、その軍勢が乱れた後は、再び備えを調えるのが困難になる。負けた方の兵は、足のままに走り逃げるばかりで、勝った兵は、周りの動きに自分を任せて、ただ追い行くだけである。こうなれば3千でも多くはなく、千でも少なくはない。 

  

▽ 勇士・強弓を選りすぐる 

 こうしたことから、将たる者が嗜(たしな)んで求めるべきことは、頑強で勇猛果敢な太刀打ちのため、鬼神をも欺き、命を塵(ちり)よりも軽く思うような兵を、正成は十人集めたが、これを二十人選りすぐり、これらに相応しい兵具を持たせる。また、勇敢な強弓の兵士を、これも正成は十人集めたが、二十人を自分の馬の傍らに置く。 

 そして、「杉の先」陣形でかける時も、また、「剣の先」陣形でかける時も、「魚鱗」の陣形でかける時も、将が真っ先に進むのである。この時、敵が太刀打ちしようとかかって来るのを、我は太刀打ちの兵一人につき、射手を一人添えて、間隔を二間(約2〜3メートル)にして射るならば、どうして外れることがあるだろうか。 

 こうして、敵の動きが少し鈍ったところへ、将が自ら攻めかかって突入するならば、たちまちにして勝つのだ。 

  

▽ 武芸に練達した勇士を育てる 

 このゆえに、一軍の将である者は、勇士・強弓をいかにしても集めるようにせよ。また、自分の郎従の子供などを、幼少の頃から常に身近に置いて、その勇気と武芸では何に器用であるかを知らねばならない。勇気があるならば、さらに近くに置いてこれを愛し、その器量に応じた武芸を習わせ、十分に恩を与えて、これに親しくせよ。 

 この世の宝は多くとも、少なくとも、武芸に練達して勇気がある者は、希少な存在であるぞ。天下第一の貴重な宝とは、勇気があり、しかも武芸に練達している人物である。このことが肝要(極めて重要)である。・・・」 

  

▽ 諸国の将の賢愚を知る 

 また、正成が云うには、 

 「およそ武道を心に懸けようとする者は、諸国の将の賢愚を知っておくことが第一である。これを知ろうと常に意識していれば、諸人が言うことから必ず知れるものである。 

 諸人が言うことについても、知っておくべきことがいくつかある。人の毀誉(悪口と賞賛)に依らず、その将の行跡(ふるまい)を聞け。誉めると云えども、行いが道に外れていれば、愚であると知れ。謗(そし)ると云えども、行いが道に適(かな)っていれば、賢であると知れ。人の毀誉は、おのれの意に合わなければ、愚人を褒め、少しでもおのれの意に違えば、賢人を謗るものである。ただし、その毀誉する人の行いを見て、分別しなければならない。日頃から聖なるものに意を懸けている人の云うことは、少しは信じるべきである。 

 また、その郎従が語るのを聞いて知れ。人の郎従とは必ず、日常では主(あるじ)を謗ることがあっても、外の人に対しては主を誉めるものである。誉める種類によって、その行跡を聞け。その(郎従が語る)賞賛が信用できなかったり、ましてや郎従が主を誉めないようであれば、その将は愚であると知れ。ただし、その郎従の云うことから、先ずは敵将の意図するところを知れ。百に一つも知れないということはない。 

 もしも、このようにして知ることができなければ、戦場において、敵部隊の配備の様子を見て、その将の賢愚を知るものである。」 

(「小勢をもって多勢に勝つ」終り)

2014/7/11